**生島足島の参道に沈む冬至の夕日
*香川県三豊市「妙見宮」の磐座を照らし出す冬至の朝日(photo:M.Komae)
*いわき市鹿島神社の参道に昇る冬至の朝日(photo:A.Nemoto)
今日はクリスマスイブだが、クリスマスがキリストの誕生日だと思っている人が多いのではないだろうか?
クリスマスがキリストの誕生日とされたのは、325年のニケーア公会議だが、じつは、キリストとクリスマスは何の関係もない。ローマ帝国が版図を拡大していく過程で、地方の古代信仰がキリスト教に習合していき、キリスト教の教義とは矛盾する様々な祭儀が残ることとなった。クリスマスをキリストの誕生日にこじつけたり、他の聖人の記念日もやはり古代信仰と結び付けられて、キリスト教の中に取り込まれていった。
クリスマスは古代ローマの「サトゥルナーリア」や北欧の「ユール」と呼ばれる冬至祭をキリスト教が取り込んだものだった。
東洋でも、太古から冬至は太陽が生まれ変わる日、年の変わる日として祝われてきた。
一昨日の冬至には、ぼくは長野県上田市の生島足島神社で参道の真ん中に沈んでいく夕日を拝んだ、また、友人たちが各地で冬至の日の出や夕日を拝んで、古代からの太陽信仰に思いを馳せていた。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.12
2012年12月20日号
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◆今週のメニュー
1 冬至と太陽信仰
・キリストは本当にクリスマスに生まれたのか?
・ユール(北欧の冬至祭)に見られる太陽信仰
・朔旦冬至と星供(星まつり)
2 コラム
「まもなく人類は滅ぶ? マヤ暦について」
3 お知らせ
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冬至と太陽信仰
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【キリストは本当にクリスマスに生まれたのか?】
2012年も残り僅かとなりました。今年は終盤に、寝耳に水の衆院解散、総選挙となり、自民党が圧勝して政権に返り咲くという波乱がありましたが、年の変わり目にこんな政治変動が起こると、得体のしれない運命の歯車が軋みはじめたような不気味さを感じます。なんとか、この年末は何事も起こらず平穏に新年を迎えたいですね。
ところで、今は新年といえばカレンダーの1月1日になっていますが、洋の東西を問わず、太古から長い間、冬至が一年の切れ目とされてきました。そして、冬至の日には、新たな年を迎えるための祭りが行われ、これが一年でもっとも大切な祭りとされたのでした。それは現代にも名残を留めています。
今回は、聖地そのものから少し離れますが、聖地を形作る原理とされることの多い太陽信仰について、目前に迫った冬至を例にご紹介したいと思います。
まずは、キリスト教の祭りであるクリスマスが冬至祭を起源にしているという話から入っていきたいと思います。
一般に、クリスマスは「キリストの降誕祭」とされていますが、何を根拠にこの日がキリストの誕生日とされたのでしょうか。
じつは、新約聖書にはキリストの誕生日について言及する記述はありません。西暦325年のニケーア公会議において唐突に紀元前1年の12月25日を誕生日に定めると決定され、以降は12月25日のクリスマスがキリストの誕生日として定着することになりました。しかし、ニケーア公会議では何を根拠にしたかは明らかにされませんでした。
新約聖書に記されたキリスト生誕にまつわる話は、「ベツレヘムの星」として有名です。紀元前1世紀の終わり頃、近東の空に救世主の出現を予兆する新しい星が出現します。この星を見た占星術の学者たちが東方からエルサレムにやってきて、当時、ユダヤ人を支配していたヘロデ王に尋ねます。「ユダヤ人の王がお生まれになった印であるあの星を見て、ここまでやってまいりました。その御子はどこにおられますか」と。
旧約聖書のミカ書には、ベツレヘムという町にユダヤ人を救済する新たな王が生まれるという預言があり、古代ローマの傀儡独裁者であったヘロデ王は、いつかユダヤ正統の救世主が現れて自分の地位を脅かすことを恐れていました。そして、この東方からやってきた三人の賢者をベツレヘムに派遣して、救世主を見つけ出そうと考えました。
三賢者がベツレヘムに近づくと、あの星がまた頭上に輝きだし、彼らを導くようにして一人の幼子の真上に止まりました。この幼子がキリストだったとマタイによる福音書は記しています。この三人の賢者がキリストを発見したのが12月25日で、これを「降誕」とするという解釈もありますが、これはかなり苦しいこじつけです。
救世主キリストを見つけ出した三賢者は、そのことをヘロデ王には報告せず、そのまま東方の国へ帰って行きました。そこでヘロデ王は、ベツレヘムとその周辺の2歳以下の子供全員を殺害することを命じます。ヨセフとマリアは、この命令が実行される前に、キリストを連れて、辛くもエジプトへと逃れます。
ヘロデ王は紀元前4年に死亡しているので、キリストの誕生日が紀元前4年より以前であることは確実で、まず紀元前1年の生まれは当てはまりません。
三賢者が見たベツレヘムの星をヒントにすると、ちょうど紀元前12年から紀元前11年にかけてハレー彗星が現れているので、キリストはこのどちらかの年に生まれたと推定されます。
では、何月何日かというと、これはまだはっきりとは特定できていません。マタイの福音書には、キリストが生まれた時に羊飼いがその誕生を祝った後、夜中に羊の見張りに戻ったと記されていることから、羊を放牧する4月から9月の間であることは間違いないようです。イギリスの天文学者D.ヒューズは、聖書の中の天文現象の記述から、紀元前7年9月15日がキリストの誕生日であると結論づけましたが、これはハレー彗星の出現とは一致しません。
というわけで、まだキリストの生年月日までは特定できていないのですが、12月25日はまるっきり見当はずれであることは確かです。では、12月25日は何かといえば、これは冬至を指しているのです。
ローマ帝国の中で生まれたキリスト教は、2世紀末には広範なローマ帝国全土に浸透し、4世紀前半には帝国の公認を得ます。さらに4世紀後半には国教とされ、他の宗教は全て異端として信仰が禁止されます。しかし、ローマの辺境地域では土着宗教に対する信仰も根強く残り、辺境部族を宥和するためには、これをある程度容認する必要がありました。また、古代エジプトに端を発し、古代ギリシア、古代ローマへと受け継がれてきた太陽信仰もまたその命脈を保っていたため、これらもキリスト教に習合していきました。
古代ローマの太陽信仰であったミトラ教には、冬至を一年の始まりとして祝う風習がありました。また、同じく古代ローマの地母神信仰では、農耕神サトゥルヌスのための祝祭であるサトゥルナーリアが冬至の夜を追い払う儀式でした。
キリスト教で12月25日がキリストの誕生日とされたのは、このミトラ教の冬至祭とサトゥルナーリアとともに、次に紹介するゲルマンの冬至祭がミックスされたものというのが今では定説となっています。
【ユール(北欧の冬至祭)に見られる太陽信仰】
古代ヨーロッパのゲルマン民族の間では「ユール」と呼ばれる冬至祭が行われていました。北欧では、今でもクリスマスのことをユールと呼び、古来の祭りを伝えています。
先日、スウェーデンを本拠とする家具メーカー「イケア」のクリスマスセールの案内が届き、その中に、クリスマス期間だけビュッフェが「ユールボード」スタイルになると案内されていました。ユールボードとは、ユールの期間に常に用意されるご馳走のことで、北欧神話の神、オーディンに捧げられるものです。オーディンは恵みの神であると同時に死神でもあり、一年でもっとも夜が深まる冬至の夜には、オーディンとともに死者の霊や悪魔、魔女などが大挙して地上に現れるとされ、これをご馳走で饗応して難を逃れ、新しい一年を迎える意味が込められていました。
東洋では、死者の霊がこの世に返ってくるのはお盆とされています。お盆に先立つこと15日、月初めのこの日を「釜蓋朔日(かまぶたついたち)」と呼びます。釜蓋朔日に地獄の釜の蓋が開いて、そこから亡くなった先祖の霊が出てくるとされました。この世へは長旅なので、墓まで辿り着いたら長旅の労をねぎらいに迎えに行き、ご馳走で饗応します。冬と夏の違いはありますが、このように西洋も東洋も同じような世界観を持っているのは、太陽信仰のような古い信仰が、かつては世界中を覆っていた共通の信仰ではなかったかと思わされます。
ユールでは冬至に先立ち、森で木を伐採してこれにリボンをつけて家へ運ぶユール・ログ(ユールの丸太)という儀式が行われます。ユール・ログでは、同行した者のうち最年少の者が丸太の上に乗り、そのまま運ばれます。冬至の晩は薪にしたユール・ログを暖炉にくべて盛大に燃やすのですが、ユール・ログを燃やすことで、その炎によって太陽の輝きを助けるという意味が込められています。また、ユール・ログが燃える火の影に頭が映らなかった者はその年に死ぬとされたり、ユール・ログの灰は厄除けになると信じられています。ユールのご馳走であるユールボードの主役は、ユール・ログを模したケーキ「ブッシュ・ド・ノエル」ですが、これがクリスマスケーキの元となりました。
木を伐採するという儀式は、古代ローマのサトゥルナーリアにもあり、これは、まだ青い葉を付けた木を刈って、室内に運び込み、春になると表に運んで植え直されました。これがクリスマスツリーの原型だといわれています。
ユール・ログに人を載せて運ぶという風習は、諏訪大社の御柱祭を連想させます。御柱は諏訪大社に運ばれると境内の四隅に立てられ、天と交信し神が依代とする標山(しめやま)とされますが、北欧でも木を立てて、これを神の依代とする風習が今でも残っています。5月のメイフェアでは「メイポール」が広場の中心に立てられ、夏至祭でも同じように丸太が広場の中心に立てられます。この丸太の柱の周りで人々は踊り、メイフェアでは実りの季節の到来を祝い、夏至祭では太陽の恵みに感謝を捧げます。ここにも見られる東西の共通性は、やはり太古の信仰が全地球的なものであったことの証明といえるのではないでしょうか。
この聖地学講座の初回で、西洋では太古の祭祀遺跡の上にキリスト教の教会が建てられているケースが多く、日本でも神社が同じように太古の自然崇拝の遺跡の上もしくは隣接した場所に建てられていると紹介しましたが、それは太古からの「聖地」が、どんな宗教にとっても聖地としての条件を満たしていて、他の土地で代替できるものではないことを示しています。
聖地とされる「場所」の特殊性を様々な角度から検証していくのが、この講座のメインテーマですが、場所を特定するための原理としてもっとも重要なものが太陽信仰であるわけです。太陽の運行に注目し、冬至や夏至、春分、秋分といった一年の節目に祭りを行う太陽信仰が、後の様々な宗教にとっても基本的な世界観となっていることが、キリスト教と古代の太陽信仰との習合に端的に現れています。そのキリスト教と古代信仰との習合については、別に表で整理しましたので、下記のリンクを御覧ください。
http://www.ley-line.net/calender_holy.pdf
ちなみに、冬至の儀式としては、日本では伊勢神宮の内宮へと向かう参道に掛かる宇治橋が、冬至の朝日が昇る方向を指し示していることが有名です。冬至の朝、宇治橋では「ご来光」を拝む儀式が行われます。冬至の朝日の方向には内宮本殿背後のご神体山があり、そこに祀られる太陽神である天照大御神とリアルな太陽が重なり合います。
キリスト教が古代信仰を「邪教」として排斥しながら、じつはその邪教と習合した祭りを行うように、祟り神として朝廷から排斥された太陽神=天照大御神は、やはり一年の区切りである冬至の日に崇められているわけです。
【朔旦冬至と星供(星まつり)】
古代バビロニアから古代ギリシア、古代ローマ、そして中国では、暦に太陰太陽暦が採用されていました。これは、月の満ち欠けを基準とした太陰暦と太陽暦を組み合わせたもので、この暦の元では冬至を含む月を11月とし、冬至の日を一年のサイクルの始まりとしていました。
この暦法では、冬至の日が11月1日と一致した時から年をカウントしていくと、徐々に冬至の日がズレていき、19年経つと再び11月1日が冬至と一致します。この日を中国では「朔旦冬至(さくたんとうじ)と呼び、19年を一つのサイクルとする「章」という暦単位の初めの日として、盛大な祭りが開かれました。
冬至は一年の節目の日であり、朔旦冬至は19年に一度、時代の流れが大きく切り替わる節目とされ、それが祝われたわけです。長い論文や小説などで、一章、二章と節をまとめるときに使われるこの「章」は、太陰太陽暦で使われたこの「章」が元になっています。
日本では、飛鳥時代に「和暦」として中国の暦を元にした太陰太陽暦が採用され、桓武天皇の時代に朔旦冬至が初めて祝われたという記録が残っています。この暦は、江戸時代に日本独自の太陰太陽暦が採用されるまで使用され続けました。
江戸時代には、対蘭貿易によって、西洋の文物とともに近代科学や暦法も入ってくるようになりました。そして、太陽暦の有効性に太陰太陽暦を合わせようとする動きが出てきます。この要請に答えるように、太陽暦により近い日本独自の暦法が使用されるようになります。新しい暦法では、計算方法の微妙な違いから、必ずしも19年に一度朔旦冬至とはならなくなり、これを解消するために、改暦を繰り返して朔旦冬至から新しい暦を始める手法がとられました。このせいで、後の我々は暦がおかしなところで切り替わっていることに、しばしば混乱させられてしまうわけですが、このことは、太陽崇拝で冬至が一年の節目として重要であり、東洋世界では朔旦冬至が宇宙の営みの大切な節目と考えられていたことを表しています。
ちなみに、古来の太陰太陽暦でカウントすると、次の朔旦冬至は2014年に訪れます。
密教系の寺では、冬至の日に「星供(ほしく)」を行うところがあります。星供は星まつりとも言われます。密教占星術では、北斗七星の七つの星のうちの一つを人の生年月日に当てはめ、それを当人の運命を司る「本命星」とします。本命星の他に、一年ごとに変わる「当年属星」もあり、これらの星を供養することで、一年間の災いを取り除き、幸をもたらすとされます。
寺によっては節分に星供を行うところもありますが、本来は、年が切り替わる冬至に行われるものが正式でした。
星供では、大きな護摩壇で護摩が焚かれますが、これは北欧のユールと同じように、弱った太陽に対して炎を送る古代の太陽信仰と同じ意味が込められています。その護摩壇には本命星と当年属星と当人の姓名が記された護摩木がくべられ、厄祓いも同時に果たされるというわけです。
先に、日本で初めて朔旦冬至を祝ったのが桓武天皇だと紹介しましたが、桓武天皇は陰陽道を整備したことでも知られています。朔旦冬至の習慣は、陰陽道的な意味合いが濃く、星供もやはり陰陽道的な儀式が密教に受け継がれたものです。
東京西部にある喜多見不動の星供は、個人的に何度か参加させてもらっていますが、冬至の夕日が境内に差し込んでくると、本堂の横にある崖に穿たれた隧道にその光がまっすぐに差し込んでいき、日没の直前には隧道の一番奥に安置された不動明王に光が注いで、その一瞬だけ、はっきりと像が浮かび上がります。その像を拝し、境内で振舞われる冬至を象徴する唐茄子汁粉を味わい、柚子を土産にいただくと、冬至が一年の節目に当たることが実感され、身も心も一新されたような気分になります。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2008/12/post-2bb6.html
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