ぼくが運営する「アウトドアベーシックテクニック(OBT)」は、このブログの母体となるサイトだが、これを始めたのは、アメリカンアウトドアのバイブルともいえる「遊歩大全」の日本版をWEBベースで復活したいという思いがきっかけだった。
ここでも何度か紹介しているが、「遊歩大全」の原題は"The Complete Walker"。著者のコリン・フレッチャーはグランドキャニオンのバックパッキングによる踏破をはじめとして、アメリカのウィルダネス(荒野)を身一つで渡り歩き、その成果としてこの本をまとめあげた。その内容は、豊富な経験に裏打ちされた実践的なノウハウだけでなく、一人きりでウィルダネスに身を置くことで感じられる自然との一体感をリアルに描き出し、読んでいるだけで、自分も何もないウィルダネスで風に吹かれている気分になれた。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2013/03/complete_wlker.html
フレッチャーは、自然の中にたった一人で身を置くことを孤独ではなく孤高と表現したが、それは、もう一つのアメリカンアウトドアのバイブルであるソローの「森の生活」に繋がっている。
『アメリカ自然思想の源流』は、ソローをコアにして、オーデュボン、エマソン、ミューア、カーソンという人物の生涯を見つめることで、アメリカ独自の自然思想が形成されていく過程を追っている。
最初に登場するオーデュボンは、フランスからの移民でアメリカの無垢な自然、とくに多彩な鳥類に魅せられ、まったくの独学で非常に精密な描写の鳥類図鑑を完成させる。そして、多くの種が絶滅の危機に瀕している実態を知って、保護活動に乗り出し、それが今に続く「オーデュボン協会」となる。オーデュボン協会は、日本野鳥の会のモデルとされたことでも有名だ。
エマソンは、ナチュラリストとしてよりも超越主義の思想家として知られる。人間を取り巻く自然は、その奥底に神の意志を持っていて、我々に信仰の大切さを伝えている。その神の意志の語りかけを得るためには、日々謙虚に過ごし、自らの内奥に語りかける必要があると説く。ちょっと気取ったアメリカの小説やドラマでは、しばしばエマソンの言葉が引用されるが、それだけ、エマソンがアメリカの知識人にとって精神の基層を成していることがわかる。
ソローはエマソンが所有するウォールデン湖の畔に粗末な小屋を建て、そこに暮らして、あの『森の生活』を書き上げた。はじめ一心同体と言ってもいいくらい思想信条が似ていたエマソンとソローだが、ソローは次第にエマソンに教条的なドグマを感じ始めて、ついには二人は離反することになる。
「エマソンの超越主義は、キリスト教神秘主義の傾向を色濃く示すものであり、したがって、そこで超越者として認識されるものは『父』たる神に他ならない。しかし、ソローが自らの中に見ているものは『母』なる『自然』である。…真実で崇高なものは、自然を超越した絶対的世界にあるのではなく、今目の前に広がっているありのままの『自然』にあるとするのが、『森の生活』におけるソローの真理観に他ならない」
ソローは、自らの生活をとことんシンプルにすることで自然に近づき、変な理屈をつけずに、ただありのままに自然を感じることが大切だと思い至る。エマソンとソローの決別は必然だった。
現代のアメリカの自然思想では、人が入り込んで、一部が生活の場になっているような自然を「フロントカントリー」と呼ぶ。若干ニュアンスが異なるが、日本の里山のようなもので、ソローが住み、こよなく愛したのは、そうした人間の生活に近い領域のフロントカントリーだった。
フロントカントリーからさらに自然の奥に踏み込んだ世界は、「バックカントリー」と呼ばれる。バックカントリーは、人が住む世界ではなく、自然が無垢のままにあり、アドベンチャーの対象するような自然だ。
ソローも何度かバックカントリーの旅を経験しているが、彼は、バックカントリーには親しみよりも畏れを強く感じた。
バックカントリーに親しみを感じ、ヨセミテをホームグラウンドにして大規模な自然保護活動を展開したのがミューアだった。ミューアはワイルドライフを日常としながら、ソローと同様のプリミティヴな感覚を持った。
「ミューアが自然の美を礼賛するのは、それがただ美しいからであり、自然が神の栄光を表しているからでも、自然の背後に神の大いなる御業が感じられるからでもないことは明らかである」
ミューアの遺産は、シェラクラブという形で受け継がれている。
カーソンは『沈黙の春』で現代文明による警鐘を鳴らし、『センス・オブ・ワンダー』で身近な自然の中に秘められた「ワンダー」を見つける心を無垢な子どものままに持ちつづけることの大切さを説いた。
http://obtweb.typepad.jp/obt/2012/01/senseofwonder.html
カーソンまで辿ってくると、アメリカの自然思想の系譜がしっかりと受け継がれてきたことがよくわかる。
「カーソン自身も述べているように、その原型を我々はソローの作品のうちにありありと辿ることができる。そして、そのソローを『嬉しさでぞくぞく』させたのが、オーデュボンの自然誌であり、オーデュボンの願いを国立公園として実現させたのがミューアだったのである」
さらに続けていえば、ミューアの世界を現代に受け継いだのがコリン・フレッチャーであり、その思いを正しく日本に伝えたのが芹沢一洋だったといえる。
今、日本のフィールドは、登山者やハイカー以外に、マウンテンバイカーやトレールランナーなどが錯綜して、いろいろな軋轢が生まれている。様々なアクティビティの場としてフィールドを楽しむこと自体はとてもいいことだと思う。でも、様々な志向を持った人間が共有しようとするなら、まずは、全員がナチュラリストとして、自然を愛するという共通意識を再確認する必要があると思う。
自然と人との関係をもう一度捉え直すには、本書は最適な一冊だと思う。
みぃーさん、こんにちは!
ヨーロッパの自然は、近世までにほとんど破壊されて、それを再生する必要が生じたために、「森林学」が発達したわけですが、新天地を求めたヨーロッパ人は、移住先で無垢の自然と出会って、そこから新たな自然観を発達させていったんですね。
東洋やアフリカなどでは、もっとプリミティヴで、フォークロアと現実が一体になっていましたから、あらためて身の回りの自然と自己との位相を確認する必要がなかったんでしょうね。
というわけで、この先は、日本なら南方熊楠あたり、西洋ならレヴィ=ストロースあたりへと進んでいくと、もっと理解が進んでいくと思います。
もっとも、あんまり観念的にならずに、ただ自然の息吹を感じるだけでいいんですけどね(笑)
投稿情報: uchida | 2015/05/07 10:27
こんにちは。
この何年間かで遅ればせながら「森の生活」「センス オブ ワンダー」と読んできましたが、次はここへと繋がって行くんでしたか。。。
バック カントリーは難しいけれど自然と共にある里山風なそういう生活がいいかなって最近ますます加速度的に都会化していく周りの姿を見ていると意識がドンドンズレていく自分を感じています。
川で魚を捕り、木を切って、炎を見つめて身体を温める時間が人には必要なんじゃないかなって。
少なくとも週末にはそんな暮らしに触れていたいと願っている最近です。
投稿情報: みぃー | 2015/05/06 19:36