いつ植えたのか自分でも定かでないのだが、一昨年から、夏になると地面を割って山芋の蔓が伸びだすようになった。山芋の蔓は見る間に伸びて、肉厚の葉を付けていく。
せっかくだから日除けにしようと、コンクリートの三和土の前に麻ひもを張って、それを伝わせると、夏の間涼しい葉陰を作ってくれる。酷暑が続く夏でも、実際の効果以上に見た目の涼しさがホッと和ませてくれた。
昨年は大きな青虫が二匹取り付いて、まだ青い葉のうちにあらかた食べ尽くしてしまったが、今年は一匹がいくらか食べたものの雀にでも見つかって自分が食われてしまったようで、大部分の葉が残った。
そして、この数日急に涼しくなったためか、葉は秋色に変わり、その元に可愛らしい零余子が鈴なりになった。
子供の頃、秋になると実家の庭の生け垣に零余子が付いた。夏の間は生け垣の緑とそれに這う山芋の葉の緑が溶け合っていて、秋めくと山芋の葉だけが紅葉して、そこに蔓が張っていたのが知れる。
ちょうど生け垣に零余子が成る頃に、埼玉の伯父一家が仕事休みにやって来て、これを見つけるとうれしそうに収穫し、山芋も掘って、零余子と山芋のとろろを肴にして、旨そうに酒を飲んでいた。
まだ父も生きている頃で、賑やかな笑い声が田舎家に響いていたことを思い出す。
そういえば、先日のお彼岸に、何十年ぶりかで父の実家の本家を訪ねた。ぼくの顔を見た伯母は、「あれぇ、平作さんがいるのかと思って驚いた」と悲鳴のような声をあげた。平作はぼくの父だが、その父の面影が濃くて驚いたのだ。
「おばさん、親父は、こんなに白髪じゃなかったよ。もう、ぼくも親父の享年を5年も越えちゃったからね」と笑った。
朝、髭を剃っているときなど、ふと鏡の中に父親の顔を見ることがある。そんなとき、父は若くして亡くなってしまったが、自分の中に生きていると感じて、思わず鏡に向かって話してしまったりする。
本家の伯母は、昔話をしているうちに、「そうだ、見てほしいものがあるんだ!」と急に立ち上がって、縁側のほうにぼくと母を導いて、庭の一角を指差した。
そこには、雨に濡れた万年青の葉が苔の上に茂っていた。
「平作さんが亡くなった後、いちばん大事にしていた万年青をもらったの覚えてるかい? あれがね、こんなにたくさんに増えたんだよ」
父が精魂込めて育てていた植木は、亡くなってからほとんど手入れもできず、妹夫婦が家を建て替えたりもしたため、まったく無くなってしまったが、こんなところで株を増やして、大切に育てられていたとは…思わず胸が熱くなった。
この秋の夜長は、零余子を炊いて、逝ってしまった人を思いながら、一献傾けよう。
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