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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.303
2025年2月6日号
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◆今回の内容
○甕をめぐる大和と蝦夷の攻防
・常陸国に頻出する甕
・甕が意味するもの
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甕をめぐる大和と蝦夷の攻防
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私の故郷は茨城県の海岸部の町で、海岸沿いにある鹿島神宮と大洗磯前神社のちょうど中間点に位置しています。このあたりは、古代に蝦夷と大和朝廷とがぶつかり合った場所で、その痕跡が鹿島神宮の構造に色濃く残っていることは以前も何度かとりあげました。
今回は、少し別な角度から、常陸国における大和勢力と蝦夷=東国勢力のせめぎ合いについて辿ってみようと思いますが、その前に、鹿島神宮を中心としたポイントを振り返ってみましょう。
古代の鹿島神宮は、神社というよりも、むしろ大和勢力の東国への進出拠点としての意味合いが強い場所でした。古代、蝦夷の勢力圏はかなり南まで伸びていて、今、鹿島神宮があるあたりも蝦夷の勢力圏にある聖地であり戦略拠点でした。そこを大和勢力が攻め落として鹿島神宮が築かれました。
この神宮の本殿は北を向き、神社の構造としてはとてもめずらしいものですが、国津神と蝦夷の神を祀る大洗磯前神社や大甕神社を睨みすえていることを見れば、大和の軍事拠点としての性質がよくわかります。先住の蝦夷の頭領の首級を埋めた「鬼塚」を境外禁足地としているのもまた象徴的です。
鹿島神宮の祭神であるタケミカヅチは、記紀神話の「国譲り」のくだりで、出雲に降り立ち、出雲の首領であったオオクニヌシの次男のタケミナカタと戦いになります。この戦いに敗れたタケミナカタは諏訪まで落ちのび、諏訪の地から出ずにおとなしくしていることを約して落ち着き、諏訪大社の祭神として祀られました。
鹿島神宮と諏訪大社(正確には四社で構成される諏訪大社の上社前宮)は同緯度上にあって、鹿島神宮の大鳥居は正確に西を向き、そのまま180kmの彼方の諏訪大社を望むような形になっています。春分と秋分の朝日は、鹿島神宮の大鳥居を抜け、彼方の諏訪大社に射し込み、神話の中で打ち破ったタケミナカタを今でも威嚇しているわけです。
この鹿島神宮の元宮と伝わる社があります。鹿島神宮から北西に8kmあまり、潮来市大生(おおう)にある大生神社です。今の由緒書きには、古代に大和国から常陸国へ移住した飯富(おう)氏が、氏神としてこの神社を創建したとありますが、明治7年(1874)の棟札に記されていた古い由緒では、「太古から当地に鎮座し、神護景雲2年(768)に大和国春日の里に遷座し、その後、大同元年(806)に再びこの地に戻り、翌大同2年(807)に現在の鹿島神宮に遷座した」とありました。
大生神社の周辺には大生古墳群があって、飯富氏一族の墓と伝えられてきたことを考えると、古い由緒のほうが正しい可能性が高いといえます。とすれば、飯富氏は土着の豪族で、それが今の春日大社がある大和の春日に移り、再び大生に戻り、さらに鹿島神宮がある場所に移ったということになります。春日大社の由来では、鹿島の地から鹿に乗って飛来した神を祀ったとあるだけですが、実際にはもっと複雑な背景があったことになります。
『常陸国風土記』では、茨城郡の条に「大臣(おほおみ)の族黒坂命」がこの地を平定したと記され、行方郡の条では「東の垂(さかひ)の荒ぶる賊」を「那賀国造の初祖建借間(かしま)の命」が平定したとあります。
借間命はそのまま残留して鹿島氏となったのでわかりやすいのですが、「大臣の族」の「大臣」は、多臣=多氏で、大生神社を祀った「飯富氏」とそのまま繋がりそうですが、多氏は大和の中でも王権に近い氏族で、地方の出身ではないことがわかっていますので、先の由緒に矛盾します。いろいろ細かい点を突き詰めていくときりがないので、大生神社の謎については、またあらためて考察してみたいと思います。
今回は、鹿島神宮も含めて、常陸国での大和勢力と蝦夷との攻防に関して、今一度、「甕」というキーワードから探ってみたいと思います。
●常陸国に頻出する甕●
先にも記したように、鹿島神宮の祭神は、出雲に天下ってオオクニヌシに国譲りを迫ったタケミカヅチです。『日本書紀』では「武甕槌」や「武甕雷男神」と表記され、一般には雷神とされています。
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