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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.295
2024年10月3日号
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◆今回の内容
○風景と聖地
・風景と記憶・心象風景
・風景とタブー。そしてオーバーツーリズム
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風景と聖地
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先週は、取材で静岡県の浅間大社、事任(ことのまま)八幡宮、秋葉山上社と巡ってきました。二週続いた三連休の後の平日だったためか、観光客の姿もほとんどなく、暑さも落ち着いた中で、それぞれの聖地の雰囲気をじっくりと感じることができました。
浅間大社は富士山を仰ぐロケーションと朱の鳥居、そして参道の織りなす構図が見事で、よく神社特集などのグラビアを飾ります。ここは富士山麓の中でも屈指の伏流水湧出の場所で、澄んだ水を満々と湛えた湧玉池(わくたまいけ)は、底の水草まで何もないように透けて見え、ゆったりとした波紋を見つめていると陶然とした気分になってきます。
前の週は、能登が大規模な水害に襲われ、酷い爪痕が奥能登全域の風景を変えてしまいましたが、あの濁流の様子とこの清澄な水の風景の対比は、自然の両面性をまざまざと見せつけられているようです。富士山とその周辺に降った雨や雪は、分厚い溶岩層を通り、ミネラルを吸収しながら地下の滞水帯に達し、それが流れ下ってこの湧玉池を含むたくさんの湧水群に50年あまりもかけて湧き出します。
富士山は「霊峰」と呼ばれますが、それはこの水の恵みをもたらすことへの畏敬の想いを表したものでしょう。どんなに雨雪が降ろうとも、それをとてつもなく広く深いその懐に吸収し、それを浄化し、磨いて麓に代えがたい水の恵みをもたらす。その崇敬の念こそ、誰もが富士山を霊峰であり「日本の象徴」と感じる所以でしょう。
事任八幡宮は、八幡宮とありますが、ここに八幡神(息長帯姫命、誉田別命、玉依比売命)が祀られたのは平安時代後期のことで、それ以前は、現在も主祭神である己等乃麻知比売命(ことのまちひめのみこと)一柱が祀られる神社でした。
『枕草子』では、清少納言が「ことのままの明神、いとたのもし」と記し、それが「願いが言のままに叶う」と解釈されて、今でも信仰を集めていますが、本来は、巫女神である己等乃麻知媛命が神託を請け、それを「そのまま」伝えるという意味です。境内を覆い尽くすかのような見事な大楠は国の天然記念物に指定され、さらに大銀杏や大杉があって、そうした巨木たちが依代としてこの地の巫女に神託をもたらしていたことが想像されます。
秋葉神社は火防(ひぶせ)の神として有名ですが、その総本社である上社への参道にも見事な杉の巨木が林立しています。さらに秋葉山の頂上に位置するこの社からは、天竜川の流れがこの山の麓からその河口にかけて一望できますが、広大な河川敷を形成しながら雄大にうねって流れるその様子は、まさに巨大な龍が進んできて、この山の頂から天に向かって飛翔していくように見えます。
このようにそれぞれの聖地が、その個性的な風景を背景として独自の神話を持っているということは、聖地を作った人間が風景にインスパイアされてそこに神秘的なものを感じていたということを端的に表しています。
今回はそんな最近の私の体験から、風景と聖地との関係を掘り下げてみたいと思います。
●風景と記憶・心象風景
歴史家のサイモン・シャーマの著作に『風景と記憶』があります。この中で、シャーマは人間が風景をただ観察するのではなく、風景に自らの感情や想像を投影し、風景が心の中で形成された記憶や物語と繋がることで、その風景が象徴的な意味を持つようになると述べています。
たとえば、森林、川、山などの自然の要素は、それぞれの時代や文化においてさまざまな象徴性を持ち、人々がそれらを通じて自らの歴史やアイデンティティを感じ取る手段となっています。風景は、単なる外部環境ではなく、心理的な体験や文化的な物語を内包するもの、時には人間の意識そのものを映し出す鏡のような役割を果たすわけです。
それは、個々の国や地域の自然特性(植生)との関連からいえば、個人の記憶だけでなく、民族の集合的な記憶と結びついているともいえるでしょう。また地球全体の自然にまで拡大すれば、それは人類全体の集合的な意識と風景が結びついているともいえるでしょう。人間という「種」が存在可能な自然環境は限られていて、しかもその中でも「快適」と感じられる環境はごく狭い範囲に限られるわけですから、そうした環境に身を置けば、誰でもそこに安心感とともに自然に対する畏怖の気持ちを抱くでしょう。
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