□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.261
2023年5月4日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
○日本人にとっての神とは?
・社の由来と歩き巫女
・産土神の意味
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
日本人にとっての神とは?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
前々回と前回、日本の神社信仰が渡来民の大きな影響を受けて成立したことについて触れました。
八幡神や稲荷神といった、それだけで神社の総数の80%も占めるような神社信仰も渡来民がもたらしたものであり、日本神話もやはり渡来民の影響を強く受けて大陸や朝鮮半島の神話を取り込んで成立したものでした。では、日本本来の「神信仰」とはどのようなものだったのでしょうか。
神社信仰(神道)は、縄文時代までも遡れるような非常に古い自然信仰が元になって、そこから発展してきたと一般的に言われます。そうした自然信仰について、この講座でも多様な側面から見てきました。「八百万の神」というような、素朴なアニミズムが私たちの精神に根づいていることは、みなさんも素直に感じられると思います。
そうした自然信仰が、形式的な神社信仰へと移行していく間には何があったのでしょう。古代において先進的だった渡来の思想・文化や技術が一気に流入してきて、いっぺんに塗り替わってしまったのでしょうか。そして、今は、ひっそりと野辺に置かれた石神のようなものや私たちの心性の片隅にかろうじて面影を留めているだけなのでしょうか。
今回は、そうした素朴な自然信仰から神社信仰との間にあるものについて、神社の社(やしろ)の成り立ちと産土神(うぶすながみ)の意味に焦点を当てることで、考察していきたいと思います。
●社の由来と歩き巫女●
「日本書紀」崇神天皇六年の条には、それまで朝廷に祀っていたアマテラスが祟りを成したので、皇女の豊鍬入姫(トヨスキイリヒメ)に奉斎させて、大和の笠縫邑に神籬(ヒモロギ)を立てて祀ったと記されています。
笠縫邑は今の檜原神社の境内にあったと考えられていますが、檜原神社には拝殿も本殿もなく、ただ、素朴な鳥居だけがあって、三輪山を背負い、これを御神体としています。かつてはその鳥居もなかったと伝えられています。
神籬は、神が降臨する場所を常緑樹で囲うだけで、 祭りが終われば、それもすぐに取り壊されて元の自然に戻されました。豊鍬入姫が笠縫邑にアマテラスを祀ったときも、三輪山を背にして神籬を設け、そこで奉斎の儀式を行って御神体山とアマテラスを重ね合わせた後、神籬も解体されて、後には何も残されなかったのでしょう。ただ御神体山がそこにあるだけで、それを拝すればいい。それがもっとも日本的な神の祀り方だったと考えられます。
時代を経ると、祭場に仮小屋を建てるようになりましたが、これも祭りの直後には取りこわされました。そんな形式は、天皇が代替わりするときの大嘗祭に設けられる悠紀殿(ゆきでん)と主基殿(すきでん)に残っています。そうした仮小屋を建てるための場所は、社(ヤシロ)と呼ばれましたが、後に、仮小屋がそのまま残されるようになると、仮小屋自体を社と呼ぶようになりました。そして社は今に見られる常設の神社へと形を変えてゆきました。
神社は「宮」という呼び方もされますが、これはもともと神祭りをする庭という意味でした。アイヌは大雪山のように山頂部が広く湿原が発達した場所を「カムイミンタラ」と呼びますが、これは「神々が遊ぶ庭」という意味で、宮=神祭りをする庭も、そこに神が降臨する場所というだけで、建物は関係ありませんでした。むしろ、自然がそのままであることが重要で、人工物などはその場を穢す邪魔なものと考えられたでしょう。
>>>>>続きは「聖地学講座メールマガジン」で
初月の二回分は無料で購読いただけます。
最近のコメント