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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.312
2025年6月19日号
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◆今回の内容
○日本庭園に秘められた聖地性の系譜 その2
・寝殿造庭園の成立
・浄土としての庭園
・禅と日本庭園の融合
・日本庭園と茶道
・西洋的美を取り入れた折衷庭園
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日本庭園に秘められた聖地性の系譜 その2
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前回は、縄文時代のストーンサークルから弥生時代の環濠遺跡、古墳時代の前方後円墳、そして飛鳥時代の庭園と奈良時代の庭園と辿り、それぞれどんな聖地性を備え、それがどのように変容していったのかを概観しました。
今回は、引き続き、「日本庭園」という現代にまで続く一つの様式と文化が確立された平安時代を出発点として、近現代へと至る間にどのように変化していったのかを追ってみたいと思います。さらに、それが、時代の背景を成す精神とどのように関わっていたのかを探ってみたいと思います。
●寝殿造庭園の成立●
桓武天皇(在位781-806)による延暦十三年(794)の平安遷都は、その後の我が国の政治・宗教・文化の方向性を決定づけることになる歴史上の大きな画期でした。「日本紀略」の同年十一月八日条の「遷都の部」では、平安京を設ける場の地勢を「山河襟帯 、自然に城を作す」と形容し、これを理由として「山背国を改めて山城国と為すべし」と国名の変更を宣言しています。
「山河襟帯」とは、山々が衣服の襟のように聳えてその地を囲み、河川が帯のように巡り流れる様子を表します。これは、風水思想の日本的な表現ともいえます。東山・北山・西山に三方を囲まれ、高野川、賀茂川、桂川をはじめとした大小の河川が南部の低地に向かって流れ下る京都盆地は、まさに山河襟帯の地形です。そして、豊かな水脈が、複合扇状地を形成し、盆地各地に伏流水と池沼が点在していました。
京都盆地は、元々、秦氏やその派生氏族である賀茂氏の本拠地でした。風水知識を持ち土木技術にも長けた渡来民であった彼らが京都盆地を選んだのは、彼らの理にかなったものでした。
前京の平城京は前回も触れたように、水脈が少なく、水利の点でもあまり恵まれた土地とはいえず、さらに狭い盆地のために多くの人口を養うにはあまり適した土地とはいえませんでした。それに加えて、奈良で発展した南都仏教が勢力を増して、政治に介入するようになってきたため、桓武は南都仏教の影響力から離れ、さらなる国の発展を目指すべく、京都盆地に白羽の矢を立てたのです。
「山背」という表記は、山を背後に背負った風水適地という意味で秦氏たちが用いていたものですが、それを「山を背負った王城」という意味で「山城」に変えたところに、桓武の思惑が明白に込められていたわけです。そして、その思惑通りに、平安京は発展し、その後1000年以上も続く日本の都となったわけです。
平安時代の前期は、平安京の立地を活かした大規模な池庭がいくつも築造されました。発然院(冷泉)や朱雀院、嵯峨天皇(在位809~823)の離宮であった嵯峨院、桓武の禁苑として築かれた神泉苑などです。このうち神泉苑はその時代の精神をもっともよく表した庭園ともいえます。
神泉苑は、平安京大内裏(平安宮)東南、左京三条一坊東半部に、東西二町(250メートル)南北四町(500メートル)という広大な敷地を占める禁苑です。禁苑とは、宮中や貴人専用の庭園で、一般の人が立ち入ることを厳しく禁じられた苑という意味ですが、神泉苑は唐の風習を範としたもので天皇専用の庭園でした。
神泉苑は平安遷都後間もない時期から造営が開始され、7年目に当たる延暦十九年(800)に完成しました。桓武天皇が頻繁に行幸したほか、宴もしばしば行われたことが「日本紀略」に記されています。平城天皇は大同三年(808)七月七日に神泉苑に行幸して、相撲を観覧し、文人に七夕の詩を作らせています。また、嵯峨天皇は、弘仁三年(812)二月十二日に「花宴」すなわち桜の花を愛でて、文人に詩を作らせる宴を催し、これが公の行事としてのわが国最初の花見とされています。
神泉苑には、枯れることのない泉があったことから、ここで雨乞いの儀式が行われたことも知られています。とくに有名なのは、『今昔物語』に記された空海と守敏の雨乞い合戦の逸話です。
天長元年(824)、日本中がひどい干ばつに見舞われ、なんとか雨を降らせようと時の天皇であった淳和天皇が全国から高僧を集めて神泉苑で降雨の祈願をさせました。しかし、まったく効き目がありません。そこで、東寺の空海と西寺の守敏という当代随一の法力を持つとされた二人に雨乞いを競わせました。
先に祈願をはじめたのは守敏で、彼は7日間に渡って祈り続けましたが効き目がありませんでした。変わって空海が祈りはじめましたが、やはり効き目は現れません。そこで空海は、法力で干ばつの原因を突き止めようとします。すると空海には、守敏が法力を使って、日本中の龍神たちを水瓶に閉じ込めてしまった様子が見えました。干ばつの原因は、他ならぬライバルの守敏であったというわけです。
そこで空海は北インドの無熱池に住む善女龍王を勧請する修法を行いました。すると、長さ9尺(約2.7メートル)ほどの金色の龍が神泉苑の池に姿を現し、この龍が天に昇ると、たちまち空は暗くなり、3日3晩にわたって日本中に恵みの雨が降り続きました。
この逸話は空海の法力がいかに強かったかを喧伝するために作られた話ですが、クライマックスとなる神泉苑の泉から龍が出現するシーンは、ここが龍穴と考えられていたこと、つまり風水思想に基づいて設計された庭園であることを明らかにしています。平安京を取り巻く山々から流れ下ってきた「気」が平安宮に隣接する神泉苑の泉から吹き出し、絶えず流れて「気」が刷新されている。それは、平安宮とその主である天皇と、天皇が支配する国土に安泰をもたらすというわけです。
干ばつはそうした「気」の停滞によって引き起こされるとも考えられていましたから、放っておけば国土は荒廃し、天皇家の安泰も脅かされます。そこで、日本の中心にある神泉苑の「龍穴」で停滞している気を引き出し、循環させることが急務の課題となったのです。
平安中期になると、藤原氏による摂関政治が全盛期を迎え、天皇の権威が相対的に落ち込みます。すると、神泉苑はあまり重要視されなくなりました。藤原氏にとって天皇家は自家の傀儡で、藤原家の繁栄のほうが重要ですから、神泉苑と同様のものを自邸に築いたのです。それが、寝殿造りという豪壮な屋敷と、それに付属する庭園(寝殿造庭園)でした。すると、三位以上の上級貴族は、藤原氏にあやかろうと、競うように寝殿造と庭園を造営するようになり、その様式が定着しました。これが、現代に続く日本庭園の原型となったのです。
寝殿造は、通常1町(約4200坪)もの広大な敷地を擁し、築地塀(ついじべい・土で固めた塀)で囲まれていました。敷地の中心には南向きに建てられた寝殿があり、ここは居住空間であると同時に公的な儀式や宴会が催される場となります。寝殿の東西に「対屋(たいのや)」があり、屋根付きの廊下で寝殿と繋がっていました。ここは家族や来客の居住空間として使われました。この寝殿と対屋は広い池を擁する庭園を正面にして、さらに、中門廊、釣殿、泉殿といった建物が配置されていました。
そこには、風水とはまた異なるセオリーがありました。池泉(ちせん)と呼ばれた庭園の中心となる大きな池は、飛鳥や平城京の方形ではなく、優美な曲線を取り入れた曲池となり、敷地の北側(とくに北東部)から水を引き込み、曲がりくねった遣水(やりみず)を通して、庭園全体に水を巡らせ、最終的に池に注ぎ込みます。遣水は、せせらぎの音を楽しむための工夫も凝らされていました。
さらに、池の中には中島が設けられ、岸辺には自然の汀線を模倣した洲浜が作られました。池の周囲には、桜、紅葉、梅など四季折々の花木が植えられ、庭園全体で、日本的な繊細な自然が表現されていました。また、松島の景観を模倣して、池に小島を点在させて松を植えたり、「近江八景」と称して、琵琶湖を巡る風景を擬すなど、風雅な趣向も見られました。
寝殿造庭園において、とくに重視されたのは、「石組み」です。これは、自然石を配して、山や滝を表現するもので、水をなくして石組みと砂だけで水を表現する枯山水の様式も生まれました。そうした理論を集成した『作庭記』も同時に成立しました。
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