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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.302
2025年1月16日号
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◆今回の内容
○稲荷神とは何か
・海からやってきた稲荷神
・稲荷神と狐
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稲荷神とは何か
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1月7日は七草粥でしたが、元旦からこの日までの間に七福神めぐりをするという風習があります。皆さんの中にもこの正月の七福神巡りをされた方も多いと思います。
七福神信仰は、一般的には、「福徳をもたらすとされる七柱の神々を崇拝する習慣で、仏教経典『仁王経』の七難即滅、七福即生という言葉に由来し、七つの災難を取り除き七つの幸福を招くとされている」と説明されます。これも間違いではないのですが、いわば後づけの理屈で、その本来の意味は、意外にも琉球=沖縄のニライカナイ信仰にあります。
ニライカナイ信仰では、海の彼方もしくは海の底にあると信じられた神々の住む理想郷「ニライカナイ」から、年のはじめに神々が訪れて豊穣をもたらすとされていました。ちなみに、琉球の創世神であるアマミキヨもニライカナイから訪れて国を開いたとされます。
このニライカナイの信仰が本土にもたらされ、飢饉の年に稲を携えた神々が海の彼方からやってくるという信仰に変化しました。室町時代になると、より具体的になり、弥勒船というものに乗って海の向うから世直しの神が来るという信仰がおこり、これが江戸時代に、先にあげた『仁王経』の概念が加わって、七福神が宝舟に乗ってやってくるという形に変わったのです。
宝船の来臨を願う際には、一時的に年号を弥勒または身禄にします。この「ミロク」も室町時代の「弥勒船」も、仏教の弥勒菩薩を指しているわけではなく、ニライカナイが訛った言葉です。
琉球のニライカナイ信仰が日本本土に伝わってくる過程で、まず五島列島に伝わり、五島列島自体が本土で「美々良久(ミミラク)」と呼ばれるようになりました。さらに、この「美々良久」は、『万葉集』や『肥前国風土記』において、西の果てに位置する豊穣をもたらす神々の島の意味に用いられ、本来は五島列島の呼び名であったものが別の形で定着しました。
五島列島南端の福江島には三井楽(ミイラク)という土地がありますが、ここが最初に「美々良久」と呼ばれたと考えられています。三井楽は、遣唐使船の寄港地で、瀬戸内から九州の沿岸をずっと辿ってきた渡海船が、いよいよ西南の海上へと出航する地点でした。三井楽の港を後にすれば、その先は、もう身近に避難先のない外洋で、遣唐使船の多くが海の藻屑となって戻ってきませんでした。そこで、三井楽は死出の旅路の出発点ともとらえられ、補陀落渡海のイメージも重なって、海の彼方にある死者の国や理想郷が思い浮かべられたのでしょう。
また、無事に遣唐から帰還した渡海船が最初に寄港する場所でもあり、見たこともない財宝や仏典が満載された帰還船を目撃した庶民の目には、弥勒の浄土から宝物を積んできた船に見えたでしょう。
整理すると、琉球で信じられていたニライカナイが五島列島で美々良久(ミミラク)となり、中央にはミロクと訛って伝わったことで、弥勒信仰とも混じり合って、独特の七福神・宝船の信仰になったわけです。
ところで、こうした海の彼方からやってきて、豊穣をもたらす神という発想の源流には、じつは稲荷信仰があるといわれています。それは、太古に日本列島に稲作をもたらした渡来民の遠い記憶がベースになっています。
以前にも、稲荷信仰を鉱山神という視点から「鋳成る」が稲荷となったり、江戸市中にたくさんある「お稲荷さん」が一種の集団ヒステリーとして流行った「狐憑き」を鎮めた名残だったことなどを取り上げましたが、今回は、豊穣の神としての稲荷神の信仰と、なぜ狐が稲荷神の使いとされるようになったか、その系譜を辿ってみようと思います。
●海からやってきた稲荷神●
折口信夫は、周囲を海に囲まれた日本では、外来の神が訪れて豊穣をもたらしたり疫病をももたらすことが多く、それらの神を客神(マレビト)として崇める信仰が古くから根付いていたと言います。柳田國男も『海上の道』などで同様のことを述べています。そうした海の向こうから食べ物を携えて来る神の代表として稲荷神がありました。
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