チベット仏教は、80年代後半、中沢新一の一連の著作を入り口にして、「死者の書」も読んで、関心を深めたけれど、オウムの伸張を見ているうちに関心が冷め、オウム事件以降は、チベット仏教そのものに良い印象がなくなってしまった。
先日、訳者の梅野さんから献本いただいて「チベッタン・ヒーリング」を読んで、チベット仏教(この本で取り上げているのは、その源流であるボン教だが)に関心を持った当初の思いが蘇ってきた。
中沢新一は煽情的な表現で、ともすればファンタジー的になってしまうけれど、淡々と、ボン教の自然観と肉体と心の有り様を語っていて、じんわりと染み込んでくる。
ボン教やチベット仏教も自然思想、自然観としてとらえれば、何も特殊なものではなくて、ロジカルで細密な自然観をはっきりと提示してくれていることがわかる。
オウムのときに、あの「真面目そう」な信者たちは、禅でいう「生悟り」(西洋式にいえばメシア思想)という陥穽にはまってしまったんだなと痛切に思ったが、あの頃にこんな風に明晰に語ってくれる本があったならと、少し残念に思う。
某番組の企画で、太古の太陽信仰に焦点を当てようと思っているけれど、時代が古ければ古いほど、人間の価値観は共通していて、それが現代につながる文明の発祥によって崩れてしまう構図が見える。
エデンの園のリンゴやバベルの塔、ノアの方舟といったエピソードで語られているのは、太古の太陽信仰の喪失が、人間の奢りを招いたということではないのか。
共通の言葉を失ってしまった人類は、それを取り戻そうとして、様々な自然思想を生み出したのではないか。かつて共通の感性であった、自然との一体感を取り戻したい、そういう思いこそが自然思想ではないか。
それを、「個」の利益や幸福実現のために使おうとすると、オウムと同じ地獄に落ちることになる。
もう一冊も梅野さんが訳者の一人として名を連ねる。「セブンイヤーズ・イン・チベット」という映画があったけれど、それの詳細版とでもいおうか。
中共の覇権主義は、私にとって馴染み深い東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)も、その餌食にされているところだが、今一度、中共の拡大意思というものを見直す意味でも。
コメント