今からちょうど30年前。秋分の日だった。
オートバイ乗りの友人と三人、富士吉田の浅間神社を早朝にスタートして、GPSだけを頼りにひたすら東を目指した。
なんでも、日本に「ご来光の道」というレイラインがあるらしい。それを辿ってみようじゃないかという素朴な発想だった。
レイラインという言葉は、かなり前から知っていた。それは、聖地と聖地を結ぶライン。イギリスには「セントマイケルズライン」という竜退治の聖人を祀る教会や古い遺跡を繋いで、イングランドを横断する長大なレイラインがある。ご来光の道はその日本版ともいえるもので、千葉県の玉前神社から出雲大社まで700kmにも及ぶという。
しかし、当時は、レイラインというものそのものに、オカルティックな胡散臭さを感じていた。
たまたま、NTTに勤める友人が、当時はとてもレアだったGPSのハンディ機を手に入れ、スクランブルがかけられていたGPS信号を補正するプログラムを組んで、それを使った何か面白い試みはないかと相談されて思いついたのがレイライン=ご来光の道だった。
浅間神社をスタートして、時には田んぼの畦道や人の家の庭など横切りながら進んでっいたが、辿りはじめてまもなく、私たちは真剣になった。GPSが指し示すルートは、今ではぶつ切れになっている古い街道をピッタリとトレースしていて、そこには次から次へと寺社や遺跡が現れ、沿道には地蔵や石碑が、明らかに目印として置かれていた。ご来光の道は昔の人に意識されていたということが明白で、何より、その配置の正確さに驚かされた。GPSというハイテク機器を使って、何かとんでもない古代の叡智を発見してしまったのではないか、そんな思いが、たちまち三人を夢中にさせたのだった。
夕方、ちょうど富士山の背後に秋分の夕日が落ちる頃、終点の寒川神社に到着した。
当時は神社参りはブームになっておらず、二至二分の太陽と特別な意味で結ばれるといったことも、当の寒川神社の関係者も知らず、深まる闇の中、無音で、ただ灯籠の明かりだけが淡く印象的な光を落としていた。
そこから、私は取り憑かれたようにレイライン探索の旅を続けるようになった。
あれから30年。レイラインという言葉は、日本遺産にも取り入れられるほど広まり、神社ブームと相まって、いろいろな人がそれぞれの解釈で用いるようになった。私も、いつのまにかレイラインと聖地研究の第一人者ということになり、観光活性のための調査や施策立案が主要な仕事になっていた。
だけど、物事が広がるということは、その事そのものの陳腐化を招くことでもある。面白おかしく、「パワースポット」などともてはやされて、本来は、そこに示されてることが何を表しているのか、それが、いつ誰によって行われたことなのかを探求し、現代の我々が失っている感性を取り戻すことこそ大切だと思うのだが、レイラインや神社を巡ることが癒やしになるとか、そこで「パワー」なるものをいただけるとかと、まるで出鱈目な言説が流布して、今度はそれが商品化されて、陳腐で低俗な旅行商品として消費されていく。
長野県の上田市が、レイラインを旗印にした日本遺産に指定されたが、それはもともと、私と当時の東急電鉄の担当者だったH氏が、別所温泉の旅館組合の支援を受けて調査してまとめたものだった。それが、範囲を広げて上田市の日本遺産となったことまでは喜ばしいことだった。
あるとき、大手の旅行会社の企画担当者から連絡をもらった。用件は、上田市の日本遺産関連のイベントなどを請け負う入札があって、別所温泉でこれを手掛けた私の名前を使わせてもらえないかということだった。事業が採択されれば、シンポジウムのパネラーをお願いしたいと。
結局、その旅行会社が事業主体となったのだが、蓋を開ければ、市のほうが学芸員をパネラーに据えるので、私の用はなくなったとのことだった。そして、案の定、レイラインが秘めた地域の歴史や文化と他の地域との関係といった核心には向かわず、今流行りの神社ブーム、パワースポットブームに沿った方向に行ってしまった。
もっとも、私のほうは、その筋とは関係なく、地元の郷土史研究者や持続的な町おこしを真剣に願う地元の有志と一緒に、2014年から始めた方向性を維持して、フィールドワークやワークショップを行っているのだが。
上田市のことはともかく、自分がはじめたことがメジャーになっていくことにだんだん違和感が強くなってきて、ちょうど30年目を迎えた今年は、自分がライフワークとしたレイライン・聖地研究の原点に還って、昔の自分の足跡をたどり直しつつ、また埋もれた聖地に注目して調べていこうという決心をした。
先日は、丹後半島まで行って、古代の渡来民に関わる聖地を見てまわった。ここは交通の便が悪いこともあるし、渡来民にまつわる聖地というのは、背景が複雑でかなり深い歴史的知識がないと理解できないので、一般的な観光地にはなりづらい。だからこそ、30年前の神社と同じように、誰もいない聖地を巡ることができた。そして、自分の原点を思い出すこともできた。
この丹後…若狭湾沿岸といってもいいが…から真っ直ぐ南に辿っていくと、京都、奈良、吉野を通過して熊野まで達する。そして、そのラインには、渡来民が辿った痕跡が明確に残っている。今、直近で私がやろうとしているのは、このルートを辿ることだ。
熊野は、不思議な縁で、学生時代から何度も通っている。学生時代の親友の実家が熊野市駅の真ん前にあったのだが、そこを何度も訪ね、熊野巡りの拠点としても使わせてもらった。彼のお父さんが、私のことを自分の息子のように可愛がってくれて、それに甘えて、実家に帰ったかのようにくつろいで過ごし、熊野はとても身近な土地になった。
学生時代、親友は司法試験合格を目指していたが、それは断念し、実家に帰って教員となった。それも先年定年退職し、熊野に戻ってからずっと続けていた郷土研究を活かす歴史民俗資料館に新たな職を得て、そこでガイドなどもしている。
私のほうは、学生時代には社会変動論を専攻して、研究者になるべく進学を考えていたのだが、そのテーマでは、将来、何の仕事にもつけないぞなどと指導教官に脅されたりして(笑)、結局ドロップ・アウトして、登山に夢中になっていたこともあってアウトドア関係のライターとなった。そして、気がついてみれば、レイラインと聖地の専門家ということになっていた。
学生時代にぜんぜん違う方向を目指していた親友と私が、奇しくも、今は同じような興味の元に、それぞれの専門を持つようになっていた。
今回は、久しぶりに熊野を訪ね、彼とともに熊野の聖地を40年経った視点で見つめ直すことを楽しみにしている。
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