AI革命の大波の中にあって、ふと考えたのは、仏教の「本覚思想」だった。厳密にいうと、本覚思想は本来的な仏教が備えていた概念ではなくて、日本仏教独特の概念だけれど、それは日本人の感性にマッチしているし、今は、それが世界的にも関心をもたれているので、とくに出自についてこだわる必要もないだろう。
その本覚思想の中心にあるのは「生死即涅槃、煩悩即菩提」の概念だ。これを「生きとし生けるものすべてが最初から備えている性質」として単純に受け止めてしまうと、だったら、何もしなければいいのではないかと、即虚無主義に陥ってしまう。現代のように、検索エンジンを引いて「わかったつもり」になることが多い社会では、こうした虚無主義に陥りやすい。
「生死即涅槃、煩悩即菩提」は、たしかに究極的な一つの悟りだけれど、そもそも悟りというものは、言葉にすれば単純なもので、何が大事かといえば、その境地に至るプロセスで、生死の意味について悩み、煩悩に苛まれ、それを必死で克服しようとして、なかなかそれを成すことができず、それでも歯を食いしばって、考え抜いて、あるところから、霧が晴れるように透き通った心が見通せるようになってきて、その先で、静謐な無我の気持ちが芽生えて、ようやく達することができるようなものなのだろう。
それも、なにしろ自分はそこまでの境地に達したことがないから、あくまでも想像し、解釈するだけなのだが。ただ、いろいろなことに興味を持って、それを自分独自のやり方で長年突き詰めていくと、あるときから、それまで悩んでいたビジョンが少しずつクリアになってくるということは経験があるので、その延長線上に悟りがあるのではないかと感じている。
また、仏教では、悟りを開いたからといって、この現象世界と別の真理の世界に入るとは言っていない。この現象世界の法則性、つまり縁起の原理を正しく認識することが悟りにほかならないと説く。だけど、私のような凡夫は煩悩に惑わされて、それを見る目が曇らされているから、その煩悩の曇りを払って、正しい認識に向かって修行に努めることが必要だと。
悟りとは、別の世界に移るのではなく、この現象世界の理解を変化させること、つまり認識の転換を指すと言ってもいいかもしれない。だから、存在論よりも認識論が問題になってくる。存在論は、極端にいえば「ある」と「ない」の二元論に還元できてしまう。だが、認識論は多様な認識の方法と方向性があるから、必然的に多元論になる。だから、思考のプロセスこそが中心となる。
AIが思考のプロセスをカットして、簡単に「答え」を導き出してくれるとしたら、それは、認識論から果てしなく遠ざかって行くことになる。一方、AIを思考プロセスの中に取り込んで、今までよりもはるかに多様な観点から事象を考えるために使っていけば、それは認識論に深く深く切り込んでいけることになる。
AIに思考することをすべて任せてしまうのか、逆にAIを思考の道具として使って、今まで想像もできなかった思考の地平を目指していくのか、人類にとって……というか個人にとっての大きな分かれ目に差し掛かっている気がする。
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