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世界では、COVID-19がますます猖獗を極め、日本でも非常事態宣言の再発動が取り沙汰される今、過去に深刻なパンデミックに見舞われた人類は、どのような混乱に見舞われ、それにどう対処し、パンデミックによって何が失われ、そして何が生まれたのか振り返ってみました。
この稿は、2020年3月に配信したものです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.186
2020年3月19日号
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◆今回の内容
○パンデミックが告げるコト
・鞭打ち苦行とコペルニクス
・革新と反動
◯お知らせ
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パンデミックが告げるコト
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今回の新型コロナウイルスの広がりは、ついにWHOがパンデミックを宣言し、世界全体が閉鎖状態になるまでに発展してしまいました。とくにヨーロッパでは、恐ろしいほどに緊張感が高まっています。
日本もこれからどう推移するかまったく予想がつきませんが、今のヨーロッパの対応はエキセントリックとも思えるほどです。しかし、それは中世にヨーロッパが経験したペストによるパンデミックを考えれば、当然の反応ともいえます。
14世紀半ばから15世紀半ばにかけての最初の大流行では、イギリスやイタリアでは、人口の80%が死亡して文字通りゴーストタウンと化した都市だらけで、ヨーロッパ全体で見ると人口の30から60%が失われたと推定されています。
この流行は猖獗を極めた後に収束しましたが、再び、17世紀から18世紀にかけて襲いかかります。イタリアのミラノでは、当初は事態を軽く見ていて、恒例のカーニバルが実施されました。ところが、これが仇となり、カーニバルがクラスターとなって、イタリア全土に一気に広がってしまいました。ピーク時には一日に3500人が死亡するという惨事になりました。さらにヨーロッパ各国に飛び火して、ロンドンだけでも死者7万人、フランスのマルセイユでも5万人が亡くなりました。
最近よく目にする不気味な絵、鳥の嘴のようなマスクをつけて体全体を厚い布のコートで覆った人物の姿は、この時代のペスト患者の治療にあたった医師の防護服姿です。
今回、新型コロナウイルスのパンデミックに直面したヨーロッパでは、中世に世界を滅亡の瀬戸際まで追い込んだペストの記憶が生々しく蘇っているのです。
ところで、この「パンデミック」という言葉は、ギリシア語の"pandemia(パンデミア)"、"pan(全て)+ demos(人々)"に由来します。panには、牧神という意味もあり、これは羊飼いの神であると同時に全ての自然を象徴する神でもありました。
牧神(パン)は、森の中で静かに昼寝をしているときに、人間にその眠りを妨げられ、その仕返しに、森の中に一人でいる人間の前に突然現れてその者を恐怖に陥れたとされます。このパンに取り憑かれた状態が「パニック」です。
キリスト教では、異教の神である牧神は制圧されるべきものとされ、キリストが十字架に架けられて昇天したときに自然を支配していた牧神を滅ぼしてこれに入れ替わったとされます。キリストの磔刑はキリストの神格化の象徴であり、全能の神とその僕たるキリストの名のもとに、自然を支配するという宣言だったわけです。
最初のペストのパンデミックでは、ポーランドだけがたいした被害を受けませんでした。それは、ポーランドではアルコール度数の高い蒸留酒で食器や家具を消毒したり、体を拭く習慣が定着していたこと、それに、国土の多くがまだ農地化されずに原生林のまま残り、そこにネズミを食べるオオカミや猛禽類などが多く生息していたからだといわれます。
自然霊である牧神を滅ぼし、自然を制圧した都市ではペストが猖獗を極め、牧神がまだ生き残っていたポーランドのようなところではペストから守られた。それは、現代にも活かすべき大切な教訓を物語っているように思えます。
過去、世界がパンデミックに晒されたとき、何が起こったのかを振り返って見ること、それは、今、私たちが置かれている状況を客観的に見つめることになります。パニックに陥らず、冷静に、社会がこの事態をどう乗り越えていけばいいのか、さらに、パンデミック後の社会はどのようなものであるべきなのか、それを乗り越えた先で、どのような社会を構築していけばいいのかを考える上で、必要なことだと思います。
●鞭打ち苦行とコペルニクス●
過去にパンデミックに襲われた社会は、否応なく大きな社会変動を経験することになりました。今回のパンデミックでも、経済活動が麻痺して、リーマンショックが霞むほどの経済危機を経験することになると予想されています。当然、これまでの経済成長重視の価値観そのものを見直す機運も高まるでしょう。
ところが、先がまったく見えない今の状況下では、人の反応は革新と反動の両極に分かれています。
一方では最先端の技術を駆使して、この新種のウイルスの毒性や感染メカニズムを解明して、ワクチンを急ピッチで開発していこうという取り組みと、それを冷静に見守る姿勢。さらに、ITをフルに活用して、感染の様子を可視化し、データを公開・共有することでこれ以上の広がりを食い止めようという試みがスピーディに実践されています。
そして、一方では、デマに踊らされてパニックに陥り、買いだめに走ったり、恐怖に発する怒りを外国人に向けるレイシズムが起こったり、さらには宗教や根拠のない信仰に縋って、まじないや託宣を信じ込んだり、終末論や陰謀論を叫んだり、あるいは考えることを放棄していわれのない楽観主義に浸ったりといった反動、反理性的な方向に向かってしまう人たちがいます。。
面白いことに、というか人間の本質は変わらないといったほうがいいのか、こうした二極化は、過去にもまったく同じ傾向が見られました。
ヨーロッパが何度もペストに襲われた中世には、封建的で陰鬱な「暗黒時代」というイメージがつきまとっています。実際、異端審問や魔女裁判などの陰惨な迫害が長く続き、恐怖と不安に覆われていました。しかし、一方では、ルネサンスが着実に進行した時代でもありました。
最初のペストの猖獗の記憶もまだ生々しかった1524年の秋、占星術師たちは、惑星が魚座の位置を占めて「大変動の時代」に入り、再び世界は恐怖に包まれると予言します。そして不安と恐怖が支配する「魚座の時代」をテーマにした膨大な数のテキストが印刷され、流布されてゆきます。そうしたテキストには、不気味な占星術の予言とあわせて、世界の終末を説くヨハネの黙示録の言葉が、恐怖を煽るスパイスとして散りばめられていました。
それを発端に、社会不安が広がり、各地でパニックが起こります。そんな中から、「鞭打ち苦行者の兄弟団」という一種の社会運動が沸き起こります。彼らは、疫病や飢饉は驕り高ぶった人間に対する神の怒りであると信じ、神の罰が下る前に自らを罰することで神の怒りを鎮めようと考えたのでした。
この苦行者たちは、隊列を組んで街の広場へと入り、そこで円陣を組んで、リズムをとりながら自分の背中や胸を打ち始めます。革紐に鉄釘を付けた重い鞭が皮膚に喰い込み、彼らの体はたちまち血まみれになります。さらに、激励役の苦行者が何人か円陣の中央に立ってこの鞭打ちを指揮し、みなをより激しい苦痛へと誘なっていきます。
苦行者たちは、賛美歌を歌いながらむち打ちのペースを早め、自らの血で濡れた地べたに身を投げだし、のたうち回りながらさらに激しく自らに鞭を加え、自己懲罰の陶酔へと入っていきます。彼らを取り巻いて眺めていた街の住人たちは、どんどんエスカレートしていくその苦行に衝撃を受け、すすり泣きながら神に贖罪を祈りました。
この苦行者の集団が街を巡るうちに、仕事も家庭も投げうってこの集団に参加する人間が雪だるま式に増えてゆきました。それは、巨大な集団狂気でした。
鞭打ち苦行に人を駆り立てたのは「恐怖」でした。占星術によって惹起されたペストの猖獗が再び迫りくるといういいしれない恐怖が、彼らを狂気へと駆り立てたのです。
こうしたいいしれない恐怖への闇雲な反応は、他にも様々な奇妙な発想を生み出しました。中でもおぞましかったのは「血の信仰」です。それは、絞首刑に処せられた罪人の血を飲めば、らい病(ハンセンシ病)が治るというものでした。
らい病もまた、その症状の悲惨さから恐怖をかき立てた病でした。これも恐怖の源泉の一つである犯罪者を囚え、処刑することは、一つの恐怖を収束させることであり、恐怖の制圧でした。罪人の血は、制圧された恐怖の象徴であり、これを飲めば、自らに巣食った恐怖の源であるらい病も制圧できると考えたわけです。
皮肉なことに、これは、無毒化したウイルスを体に取り入れることで免疫を獲得する「ワクチン療法」と奇妙にシンクロする発想でした。もちろん、罪人の血を飲んでも効果があるはずはなく、ときにはそれが死につながったり、新たな病の原因にもなったのですが。
「祝祭日」(gala day)という言葉がありますが、これは「処刑の日」(gallows day)に由来します。群衆が晴れ着を着て、罪人が首を切り落とされたり絞首されたりするのを眺めて祝う日です。今の感覚からすれば、グロテスクで悪趣味極まりないですが、この時代は、目の前で恐怖の原因が消し去られるのを確認することで、安らかな日常を取り戻すという現実的な意味を持っていたのです。
そして、同じ時代、こうした魔術的・類感的思考や盲信とは対極の方向にも社会は進んでいました。
1543年、ニコラス・コペルニクスの死の直前、彼の弟子であるゲオルク・レティクスがコペルニクスの手稿をまとめた『天球の回転について』が出版されました。それは、コペルニクスが長年の観測を元にした、地動説の緻密な体系を整理したものでした。コペルニクスを引き継ぐ形で、ティコ・ブラーエやヨハネス・ケプラー、そしてガリレオ・ガリレイが登場し、長年信じられてきた天動説は覆り、後の人類の宇宙開発にまで繋がる本格的な天文学が産声をあげたのです。
同じ1543年、アンドレアス・ヴェサリウスが著した『ファブリカ(人体の構造)』が発行されます。これは、豊富な解剖経験を元に、人体の構造を精密に描写した図版が多用された人体解剖図鑑で、骨格や筋肉だけでなく内臓や脳の構造まで明らかにされ、現代でも十分に資料として使えるものでした。この著作によって、解剖学が飛躍的に発展する基礎となっただけでなく、それまでの人体に対する宗教的な恐怖感などが払拭される契機ともなって、以降、医学や生理学の急速な発達をもたらします。
コペルニクスの時代から80年あまり下った頃、ヨーロッパでは魔女狩りの嵐が吹き荒れていました。1628年、ドイツのフランケン地方バンベルクの市長だったヨハネス・ユニウスは魔女のサバトに出席したとして告発され、処刑されました。男女、老若、そして社会的地位の区別すらなく、疑いをかけられたら最後、魔女や妖術師というレッテルを貼られて処刑されたのです。同じ年、イギリス人医師ウィリアム・ハーヴィは『動物における心臓と血液の運動に関する解剖学的研究』を発表し、循環器系の仕組みが明らかにされます。
こうした因習や盲信に囚われたままの反動と、科学的革新という両極が同居する社会について、イギリスの作家ポール・ニューマンは『恐怖の歴史』の中で、次のように分析しています。
「魔女迫害の絶頂期は、観察と実験の時代であるルネサンスの最盛期と重なっていた。魔女裁判はある意味で、科学的学問の普及に直面しての宗教による最後の抵抗と考えることもできる。…中略…つまり、学問の普及を前にしての、古いヘブライの一神教を復権しようとする最後の試みだったのである。迫害した者たちは誰も神の実在を肯定的に証明することができなかった。そのため、じつは迫害者たちは、サタン幻想を様々な『異邦人』や『疑わしい』男女に投影することで、後ろ向きの議論を行っていたのである。いいかえれば、魔女がいるのだから、魔女と徒党を組む悪魔も存在し、魔女と対立する神もまた存在する、というわけである」。
●革新と反動●
こうした、革新とそれに対する反動という構図は近代にも目立ちます。
18世紀中盤から19世紀にかけての産業革命の時代も、機械産業が発達し、医学や生物学、化学が新たな知見をもたらして社会を大きく変えていく一方で、多くの人々は混乱と戸惑いの中にありました。そして、中世同様の盲信に引き寄せられていきます。
1848年、ニューヨーク州ハイズヴィルのフォックス家で顕著な心霊現象が起こっていると報道されます。それはラップ音といわれるもので、一家の二人の姉妹が死者の霊と交信する能力を持ち、彼女たちの質問に、死霊がラップ音で答えるというのです。その話は、すぐに近所からハイズヴィル全体に知れ渡り、一気に全米に広まって熱狂的な関心を集めてゆきます。
マーガレットとキャサリンの姉妹は、舞台上でラップ音による死霊との交信を行い、全米を巡業しました。さらに、大西洋を越えてイギリス、ヨーロッパ大陸にまでその評判が広がり、姉妹はヨーロッパ各地も巡ります。これが契機となって、スピリチュアリズムが一大ブームとなりました。
欧米では、ヴィージャ盤による占いや霊媒が霊を降ろしてその霊をエクトプラズマとして口から出して交信するといったパフォーマンスが夜毎あちこちで行われるようになりました。また、学術的に心霊現象を研究しようという機運も高まり、あのシャーロック・ホームズシリーズの生みの親であるコナン・ドイルも加盟したイギリス心霊協会を嚆矢として、各国で心霊研究が盛んになっていきます。
そして、皮肉なことに、心霊研究の俎上に載せられた降霊術などの心霊現象は、ほとんどがトリックを使ったイカサマであることが露見してゆきました。
そんな中にあっても、フォックス姉妹の心霊現象は信憑性が高いように見えました。姉妹は巡業によって巨大な富を得ます。さらに、彼女たちを信奉する信者や支持者も増えていき、ピーク時には150万人に達したとも言われています。
しかし、彼女たちのラップ音もトリックであることが露見する日がきます。バッファロー薬科大学のチームが彼女たちのラップ音を詳細に分析してみると、それは指の骨を鳴らすように、関節で骨がこすれる音と極似していることがわかったのです。そして、実験の結果、足首と膝の関節の擦過音であると結論づけました。
この報告が出されると、姉妹はかんねんしてイカサマであったことを告白しました。体の関節を鳴らして遊んでいるうちに、足の関節を自由に鳴らして大きな音が出せるようになり、流行っていた降霊術と組み合わせて悪ふざけしているうちに、それが評判となって、ついには引っ込みがつかなくなってしまったということでした。
その告白は雑誌に掲載され、以降、姉妹は人前から姿を消しました。それでも彼女たちは本物であると頑なに信じる人たちも大勢いました。
19世紀最後の年の1900年、ドイツの科学者マックス・プランクが量子論を発表します。原子を分解してくと、量子という微小な粒となり、これがエネルギーを吸収し放射するというもので、物理学に大変革をもたらします。プランクに続いてアインシュタインやニールス・ボーアが量子力学を完成させると、それは技術文明のあり方そのものを大きく変えることになりました。
このプランクの量子論から15年後、ポルトガルの寒村ファティマである事件が起こります。
村の郊外のコーヴァ・ダ・イリアという牧草地で羊の番をしていた三人の子どもたちが、空に漂う白い人影を目撃しました。それは手も足もなく、「シーツにくるまれた人のよう」だったといいます。子どもたちはその夏の間に繰り返しその白い人影を目撃しました。夏も終わり近くなって、その人影は子どもたちがいた樫の木の下に降りてきました。そして、自分は聖母マリアだ名乗ったのです。さらに、二年後の10月13日に再びここに現れて重大な預言を人類に伝えると言い残して消えました。
子どもたちが、その体験を家に帰って話すと、村では大騒ぎになりました。元々カトリックの信仰が強い地方で、昔から聖母マリア降臨の伝説が伝わっていたからです。村の噂はまたたく間にポルトガル全土から、カトリック信仰が色濃いラテン諸国に広まりました。
そして、二年後の1917年10月13日、聖母マリアが降臨すると伝えたその日、牧草地は7万人の群衆で埋め尽くされていました。その日はどんよりとして雨が降っていて、群衆によって踏みしめられた牧草地は泥だらけでした。子どもたちは、その群衆をかき分けて聖母が現れると告げた樫の木の下までたどり着きました。
ここで祈りを捧げているうちに、子どもたちは衆人環視の元でトランス状態に陥りました。トランス状態にある間、子どもたちの目には降臨した聖母が見えていました。そして、秘密の予言を残すと、以前と同じようにスッと消えました。ところが、その間、周囲の人たちの目には、トランス状態になって身悶えしている子どもたちの姿しか映りませんでした。
子どもたちの姿が見えない、大多数の人たちは、何が起こっているのかまったくわからず、伝わってくるざわめきから、ただならぬ事態が起こっていることを想像していました。
子どもたちはがトランス状態を脱して立ち上がったとき、それまで空を埋め尽くしていた重い雲が割れて、そこから強い光が差し込んできました。子どもたちは、その方向を指差しました。それにつられて、群衆が空を見上げると、雲の切れ間から、太陽が顔を出しました。
太陽を見た群衆の誰からともなく叫び声が上がります。それにつられて、群衆の視線は太陽に釘付けになりました。彼らの目には、太陽が空中を「ダンス」するように、ジグザグに動き、円盤状に形を変えて地上に向かって降りて来るように見えました。また、太陽が空中でダンスしながら色とりどりのまばゆい光を放って見えたいう人たちもいました。そうした現象は10分あまり続き、気がつけば、再び雲が空を閉ざしていました。
これが「ファティマの奇跡(太陽の奇跡)」と呼ばれるものです。
今日では、それは、群集心理が生み出した集団ヒステリーの典型例として紹介されます。低温下で体が濡れ、泥濘んで不安定な場所に長時間立ち尽くし、疲労困憊していた中で、ようやく奇跡に出会えるという期待が最高潮に達したところに不意に光が指したことで、過敏になっていた神経が刺激されて幻覚を見たのです。さらに、周囲の人たちの興奮が坩堝となって、集団幻覚を助長しました。
こうした例は、まだまだたくさんあります。パンデミックのような全人類的な危機に陥ったとき、どうして人間の心理や社会は、このように二極化してしまうのでしょうか。今、世界を見渡してみても、まったく同じことが起こっています。そんな状況を見ていると、こうした二極化の矛盾といったものが、人間や社会の本質なのだろうかと考え込んでしまいます。
冒頭近くで、牧神が死んで、それがキリストに置き換わったという神話に触れました。それは、一神教がアニミズムに勝利して、人間が自然を支配する力を持った=自然に対する畏怖を捨てたということでした。ポール・ニューマンは、魔女裁判とはルネサンスという革新に対する一神教の最後の抵抗だったと分析しました。
牧神が死んだ後、一神教の神も死に、世界はルネサンスがもたらした革新と、それに続く技術革命を神の座に据えて突き進んできました。しかし、どんなに科学が進んでも、根源的な恐怖をもたらす疫病や災害は再び人類を襲い、人の心を中世の混迷に引き戻してしまう。
それでも革新は、新たな事態を乗り越えて進んでいきます。そして、人の心はそれに取り残されて、かえって退化していく……。革新と反動の二極化はますます大きく、そして深くなっていくように感じられてしまいます。こうした分裂は、いったい、この先、どんな社会をもたらすのか。分裂は埋まることがないのか。今回のパンデミックに直面して、そんな思いに囚われていました。そして、今回のような思索をしていきました。
過去を振り返り、そこに何かのヒントがないかと思って、様々な資料を参照して見つけたのが、先に挙げたポーランドの例です。ポーランドは、ヨーロッパに壊滅的な被害をもたらした中世初期のペスト禍に襲われながら、唯一ほとんど被害を受けませんでした。
ポーランドでは、まだ公衆衛生といった観念のなかった当時にあって、アルコール消毒が家庭で普通に実践されていました。そして、他の国々では農業革命が進展して、荒野が切り開かけて広大な農地が生み出されていく中で、手つかずの原生林が多く残っていました。そこは、まさに牧神が息づく世界、人と自然が共生する世界でした。
このポーランドの例は、はからずも革新の精神とともに自然と共生する社会こそが、理想的な社会であることを告げています。
今回の新型コロナウイルスも、元は野生に存在していたものです。人間が、野生を侵すことなく、うまく棲み分けができていたなら、人間界に登場して猛威を奮うこともなかったでしょう。
●あとがき的に●
今回は、21世紀に生きる私たちが初めて直面したパンデミックという事態の中で、いろいろと考えたことを書き連ねてみました。一刻も早く事態が打開することを願うとともに、これを貴重な教訓として、ここから学び、パンデミック後の社会のあり方を模索していかなければならないと思います。
◆バックナンバー購入ページ
https://www.mag2.com/archives/0001549333/
**参考**
『恐怖の歴史』(ポール・ニューマン著 田中雅志訳 三交社)
『狂気の歴史』(ミシェル・フーコー著 田村俶訳 新潮社)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.203
2020年12月3日号
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◆今回の内容
○虚ろ舟とは何か
・全国にある虚ろ舟伝承
・虚ろ舟の意味
・滝沢馬琴の時代
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虚ろ舟とは何か
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先週末は神奈川県藤沢市の朝日カルチャーセンター湘南教室での最後の講座でした。2010年に拙著『レイラインハンター』を上梓したのをきっかけに、親友で産業能率大学教授の松岡俊が紹介してくれたのがはじまりで、それからちょうど10年続きました。
最終の講座は、今年が日本書紀成立1300年であることから、「記紀神話と神社配置」「出雲と元出雲」という二本立てでした。元々は2月に開催予定だったのですが、その時は私の体調不良で流れ、その後、新型コロナの流行を受けた緊急事態宣言で流れ、三度目の正直でした。年内中に開講できなければ、1300年記念ではなくなってしまうところでした。
今回が最後というのは、このコロナ禍で、カルチャーセンターの運営が困難になってしまったためで、全国展開している朝日カルチャーセンターの大幅縮小にともなうものです。皮肉なもので、この最後の講座は、今まででいちばん受講生が多い会となりました。
今年は、予定していたトークサロンやツアーも全てキャンセルになってしまって寂しい限りですが、逼塞している間は、地道に調査研究は続けていたので、このコロナ禍が過ぎれば、より充実した内容で、諸々開催していけると思います。アナウンスするばかりで、なかなか実現しなかったオンライン講座も、年明けにはスタートしたいと思っています。
今回は、そんな逼塞期間中にいろいろ浮かび上がってきたテーマや課題の中から、「虚ろ舟」について考察してみたいと思います。
●全国にある虚ろ舟伝承●
虚ろ舟に関しては、第199回の「東国四社と甕・亀」でも触れました。滝沢馬琴の『兎園小説』の「虚ろ舟」の逸話を出典として、私の生まれ故郷の鉾田市の海岸がその虚ろ舟の舞台ではなかったかということ。また、そこから海岸線を南に50キロメートル下った、神栖市に伝わる「金色姫(蚕の草子)」の伝説も、やはり虚ろ舟をモチーフにした伝説ではないかというものです。
その後、虚ろ舟について調べていくと、この逸話は滝沢馬琴の『兎園小説』に出てくるものが初見ではなく、もっと昔から全国で語られている伝説であることがわかりました。
例えば、宮城県の気仙沼に伝わる「皆鶴姫伝説」も、虚ろ舟伝説のバリエーションの一つです。『義経記』に記された内容は、以下のようなものです。
源義経が鞍馬寺で鬼一方眼に師事して兵法の修行をしていたとき、方眼が持っていた中国伝来の兵法書「六韜(りくとう)」を見たいと懇願しましたが、方眼はこれをがんとして認めませんでした。そこで義経は、恋仲だった方眼の娘「皆鶴姫」に頼んで、これを盗み出し、奥州平泉へと出奔します。
兵法書を盗まれたことに気づいた方眼は激怒し、皆鶴姫を器舟(うつぼ舟)に乗せて九十九里浜から流してしまいます。舟は海流に乗って気仙沼の母体田海岸に流れ着き、そこで、浜辺に住む老夫婦に見つけられ、皆鶴姫は夫婦の元で暮らすようになります。
しばらくすると、姫は男の子を産みましたが、産後の日だちが悪く、そこで亡くなってしまいました。平泉にいた義経は皆鶴姫が苦しんでいる夢を見て、母体田の浜に駆けつけますが、皆鶴姫はすでに息を引き取った後でした。義経は、生まれた子を老夫婦に託し、皆鶴姫の奉じ仏を本尊とする観音寺を建立したとされます。
皆鶴姫の逸話は、福島県の会津にもあり、こちらの伝承は、会津まで義経を追いかけてきた皆鶴姫が、平氏の追手に追いつかれ、義経との間に生まれた帽子丸が追っ手によって池に投げ込まれてしまったのを追いかけて、共に溺死してしまったという話になっています。
どちらが真偽かはさておき、室町時代に成立したと考えられている『義経記』に「器舟(うつぼ舟)」の記述があるので、すでにこの頃は「うつぼ舟」、「虚ろ舟」は、一般的な名詞だったことがわかります。
また、皆鶴姫が流されたのは、九十九里浜とされていますが、犬吠埼を越えて、その北へと続く海岸線は鹿島灘で、まさに滝沢馬琴が「虚ろ舟」が流れ着いたと記してる場所です。九十九里浜から鹿島灘は一続きといってもいい海岸線なので、やはり、当時すでにこの地方には海からさまざまな物が流れ着き、また、ここから流されたものは北へ流れるという認識があったのでしょう。もっとも、虚ろ舟の伝説は、他の地方にもあるので、この海岸特有の伝承というわけでもなかったようです。
尾張藩の家臣だった朝日文左衛門が記した「鸚鵡龍中記」は、当時の武士の日常生活を知るための第一級の資料とされていますが、その元禄2年(1699)6月5日の項に、熱田の海に空穂船が漂着して、その中に身分の高い女性が乗っており、横に坊主の首があったという噂が流れているが、これは嘘である。他国にもそういう噂があって、昔から流布されている話だという記述があります。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.202
2020年11月19日号
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◆今回の内容
○生まれ変わりの聖地「別所」
・信州上田のレイライン
・ヤマトタケル伝説
・別所で生まれ変わる
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生まれ変わりの聖地「別所」
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先日、長野県上田市で行われたシンポジウムに参加してきました。
上田市にある別所温泉とその周辺は、夏至の朝日がまっすぐ差し込んでくる地形を成していて、それに沿って神社仏閣が並んでいます。また、長野市の善光寺と対をなすことで有名な北向観音や立冬・立春を意識した安楽寺や別所神社もあります。方位を意識したそれらの聖地の詳細な構造を調べて、その意味を解析する仕事を2014年にさせていただきました。
その成果は、「太陽と大地の聖地温泉」としてまとめ、地域活性のキャッチフレーズとしても活かされました。これは、別所温泉を主体にしたもでしたが、今年、その範囲を広げて上田市の聖地のネットワークとして整理しなおされたコンセプトが日本遺産に認定されました。
今回のシンポジウムは、それを記念して、地元長野大学の学生たちが中心となって企画したものでした。
別所温泉の地域創生プロジェクトのプロデューサーとして、私に声をかけてくれた東急エージェンシーの長谷川さんと私とで、プロジェクトの進展の経緯や具体的な聖地の構造を解説させていただきました。
当日は、このコロナ禍にも関わらず、地元を中心に沢山の人が参加してくれ、またZOOMによるオンライン配信もされて、全国の人が視聴してくださいました。
日本遺産の登録タイトルは、『レイラインがつなぐ「太陽と大地の聖地」~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~』というもので、認定の知らせを頂いたときに、発案者としてとてもうれしく感じると同時に、「レイライン」という言葉が盛り込まれたことで、スピリチュアルやオカルトと短絡的に考える人もいるので、誤解を招きはしないかという心配も少しありました。
しかし、二至二分、立春立冬の太陽に合わせた聖地配置が見られ、さらに神話的な符号もはっきりしていて、「レイライン」の見本のような事例が集中する場所なので、やはりこの言葉は外せません。あえて誤解を恐れずに、この文言を盛り込んだ担当の方々や、これを選定した文化庁の関係者や有識者の方々の英断を頼もしく思いました。
今まで、別所温泉とその周辺のレイラインについて取り上げたこともありましたが、いずれも断片的だったので、今回は、日本遺産認定の意義とともに、包括的にこの地域のレイラインや聖地について紹介してみたいと思います。
●信州上田のレイライン●
2007年1月、NBS長野放送で、信州のレイラインを紹介する特別番組が放送されました。その中で私はレポーターを務めました。
これは、長野県の白馬村で昔から言い伝えられてきた「風切り地蔵が災害を防ぐ」という伝承を、実際に検証するのがメインで、白馬岳に連なる小蓮華山の頂上とその麓の落倉集落、そしてかつての善光寺街道の峠である唐山峠に配置された風切地蔵が冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶラインに正確に並べられていることを証明し、さらに信州北部から上田市が立地する東部にかけて、同じような事例がたくさん見られることを紹介しました。
たとえば、戸隠神社奥社の参道は2キロメートルあまり続く直線路として知られていますが、これも風切地蔵と同じ方向を指し、奥社本殿は、冬至の朝日と向かい合う形になっています。この番組のラストシーンは、上田市にある生島足島神社で、参道の真ん中に沈んでいく冬至の入り日でした。
同じ二至(冬至と夏至)の太陽の出没を結ぶものですが、生島足島神社の参道は、夏至の日の出と冬至の日の入りを結んでいます。この二つのラインは方向は違いますが、どちらも太陽信仰において、夏至に太陽の恵みに感謝し、冬至に太陽の再生を願うという意味は同じです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.201
2020年11月5日号
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◆今回の内容
○道教の聖地としての伊勢
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道教の聖地としての伊勢
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今年はコロナ禍によって、春から初夏にかけては外出もままならず、例年、初夏からスタートする昭文社の『ツーリングマップル』の取材も、大幅にずれ込みました。
ようやくスタートできたのが9月半ば。そのときは最高気温36℃という猛暑に見舞われましたが、すぐに秋へと突入し、ようやく取材を終えた先日は、山の中で3℃を記録して、一月あまりの間に30℃以上もの温度差を経験しました。
取材とはいいながら、例年のように人と接触することは極力避けて、主に自然の中を走っていたので、夏から秋へと空気が変わり、一気に紅葉の装いを纏った山に吸い込まれ、日本は季節で明確に色分けされていることを改めて感じました。
また、山裾にある太古の遺跡などを訪ねていたので、彼らがそうした季節による自然の変化を察知しやすいような場所に住み、季節ごとの自然の恵みによって生かされていることを感謝し、取り巻く自然環境そのものを奇跡のように感じて敬って生きていたんだなと、彼らの気持ちに触れあえた気もしました。
今年は聖地調査のフィールドワークもなかなかできない分、聖地の成り立ちについて、そんな太古の遺跡から考えさせられていました。
今回の聖地学は、そんな思いとともに、区切りとなる200回を超えた最初の回として、今の日本人が「聖地」という言葉から真っ先に思い浮かべる「伊勢」について、伊勢神宮の成り立ちの深層を考えてみたいと思います。
日本神話に由来する「皇祖神」を祀る神社としてもっとも尊貴な位置づけの社、あるいは国家神道=天皇教のイメージから、すべての神社の頂点に位置する社といったイメージが強いのが伊勢神宮です。
しかし、それらは仮初の由緒であって、実際には7世紀の天武・持統期に日本神話の編纂とともに社伝や祭式が整備されたものでした。さらに、持統天皇は皇位継承に強い抵抗を受けた女帝であったために、自らを伊勢神宮に祀られた天照大神の化身である「現人神(あらひとがみ)」だとして正統性を宣言し、権力基盤を確固たるものとしたのでした。
後に、明治政府が明治天皇を「現人神」として国家神道=天皇教を創始したのは、この持統天皇の発想が原点でした。
こうした天武・持統両帝によるシナリオ通りに伊勢神宮が造営されて、すべてが矛盾なく納まっていれば、ことさら伊勢の聖地性を云々する意味はありません。しかし、単純にそれだけでは片付けられない謎が伊勢神宮には横たわっています。
伊勢神宮周辺に見られる道教由来の「太一信仰」は何を物語っているのか。世界中で太陽神は男神の性格を持っているのに、内宮に祀られる天照大神という女神がどうして太陽神なのか。外宮は男神を祀っている様式であるのに、どうして豊受大神という女神を祀っているのか。そして、伊勢にお参りする際に、どうして内宮からではなく外宮から先に参拝するのか……そうした謎は、正史にも記されていないし、口伝でも残ってはいません。
そこで、レイライン=方位という観点から見直してみようというのが、今回の趣旨です。
●外宮-内宮ラインが意味するもの●
伊勢神宮の方位的な意味は、巨視的に見ると近畿の五芒星を構成するひとつのポイントであることが挙げられます。その他に、内宮が伊勢二見浦から夏至の朝日を迎え入れる構造をしていること、御神体山と本殿(正宮)が二至を結ぶ位置関係にあることなども目立つ特徴です。これらは拙著『レイラインハンター』や当講座でも詳述していますが、これらの分析からは、先に挙げたような謎の答えにはたどり着けません。
ここで、伊勢神宮を巡る新しいレイラインが登場します。それは、外宮-内宮を結ぶ西北-東南ラインです。ここで通常の方位表記である「北西-南東」ラインとしないのにはわけがあります。それは、このラインが道教に深く関係しているもので、道教では西北、東南と表記するからです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.199
2020年10月1日号
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◆今回の内容
○東国四社と甕・亀
・東国四社
・虚ろ舟と甕
・甕と亀
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東国四社と甕・亀
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東国三社の一社である息栖神社の調査に取り掛かり、旧地を特定して、そこから古代の息栖神社の信仰が浮かび上がってきたことは、前回触れました。
その調査がさらに進み、東国三社成立以前の信仰として別なネットワーク(レイライン)が存在することが見えてきました。それは、私が長年抱いてきた一つの謎を解き明かす有力な手がかりとなりそうです。謎というのは、茨城県から福島県にかけての長く弧を描く海岸線「鹿島灘」に沿って、同じような信仰の痕跡が続いていくことでした。
●東国四社●
東国三社に関しては、拙著『レイランハンター』でも一章を割いて詳述していますので、詳しくはそちらに譲り、簡単に説明します。
東国三社は、茨城県と千葉県にまたがる鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の三社を指します。それぞれが、古事記に記された「国譲り神話」に登場する三柱の神を祀っています。
国譲り神話は、天照(アマテラス)の命を受けた武甕槌(タケミカヅチ)が出雲に降り立ち、国津神である大国主(オオクニヌシ)から地上の支配権を奪い取る話です。この武甕槌を祭神とするのが鹿島神宮で、その武甕槌が腰に帯びていた刀を経津主(フツヌシ)という神として祀ったのが香取神宮です。そして、武甕槌が天から乗ってきた船である天鳥船(アメノトリフネ)を祭神としたのが息栖神社です。
前回、息栖神社の旧地の正確な位置を探し当て、そこをプロットして三社を結ぶときれいな正三角形を描き出すということまで紹介しました。しかし、それは、私が東国三社に初めて注目した20年前にすでに推定していたことで、その確認作業ともいっていいものでした。
配置ももちろん興味深いのですが、さらに興味をそそられたのは、息栖神社の旧地は古墳群の中心ともいえる場所で、東国三社の成立より明らかに古い聖地であったこと。そして、そこで祀られていた神は天鳥船ではなく、もっと古い名前すらない神であったことでした。
今回は、この地方の歴史と神話を記した古い記録である『常陸国風土記』を元に、息栖神社からさらに南のほうへ調査を進めていきました。そこで見えてきたのは、常陸国風土記に記された蝦夷と思われる先住民の信仰が色濃く残っていることでした。
鹿島神宮は典型的な天孫系(伊勢系)の神社ですが、その奥宮は、太古の巨石信仰の記憶を要石信仰として残しています。また、この近くにある鬼塚がこの地方を支配していた蝦夷の首領の首を取って埋めたと伝えられるように、この周辺が元々は蝦夷の聖地であり、さらには縄文時代にまで遡る歴史を秘めていることがわかります。
息栖神社の旧地も同様の背景を持ち、さらに南に向かって、同じような蝦夷と縄文の痕跡が続いていくのです。
茨城県を海岸沿いにずっと南下して、利根川の河口に達すると、対岸は千葉県の銚子です。その銚子の町並みと向かい合うように、手子后神社(てごさきじんじゃ)があります。「常陸国風土記」の『香島郡』の条に記された「昔、童子女の松原というところに、俗にかみのをとこ、かみのをとめという年少童子女がいた」という話に由来する神社です。
話は、以下のように続きます。「童を那賀の寒田の郎子(いらつこ)、女を海上の安是(あぜ)の嬢子(をとめ)といった。容姿端麗で郷里に名声を響かせ、互いにそれを聞いて惹かれるようになった。月日を経て、カ歌(かがい)で二人が偶然出会い、歌を交わし、人目を避けるため松下に隠れて相語らった。やがて夜が明け、二人は人に見られることを恥じて、松の樹になった。郎子を奈美松、嬢子を古津松という」。手子后神社は、この古津松を女神として祀っているのです。
夫婦神のモチーフは、日本神話の伊弉諾(イザナギ)・伊弉冊(イザナミ)をはじめとして、山幸彦と豊玉姫、若狭彦と若狭姫、三島神と伊古奈比咩(イコナビメ・伊豆白浜神社の祭神)などが見られ、とくに海岸部の神社に多いのが特徴です。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.197
2020年9月3日号
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◆今回の内容
○世界の終わり
・ハレとケ
・聖なるものと穢れ
・尊敬の原理と個性化の原理
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世界の終わり
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「ハレとケ」という言葉があります。
民俗学や文化人類学の用語として登場し、後に社会学でも使われるようになり、今では一般的な用語となりました。その一般的な使われ方では、「ハレ」は特別な儀礼・祭礼やイベントのような気晴らしになるもの、「ケ」はそれと対照をなすかわり映えのしない日常を指します。
今のコロナ禍の中では、特別なイベントである「ハレ」の時間を過ごして気晴らしができず、「ケ」=日常の時間が重くのしかかってくることで、様々なストレスが溜まってきているといった言い方もされます。
しかし、そうした個人的経験レベルのハレは、たとえコロナ禍以前の日常が戻ったとしても、所詮、ちっぽけな気晴らしに過ぎず、またすぐに日常に退屈して、ハレ=気晴らしを求め、一時的に満たされて、またすぐ退屈し……といったスパイラルに落ち込んでしまうのは目に見えています。
じつは、今日、コロナ後の観光施策を検討するミーティングがありました。そこでは、コロナ以前のいわゆるオーバーツーリズムのような状態に戻すのではなく、今後の「観光」はどうあればいいのかと話していました。
そして、経済優先、利益優先で、いったい何をしに行ったのだかわからなくなっていた「観光」をリセットするのに、このコロナ禍はいい機会だったのかもしれないと。
コロナ禍で、日常の窮屈さがいや増している今、コロナ後の気晴らし的なハレを想像するだけでなく、「ハレとケ」という概念の本来の意味とそのダイナミズムを知り、現代におけるハレとは何なのかを知ることが大切なのではないかと思うのです。
●ハレとケ●
もともと「ハレとケ」という概念は、個人レベルの気晴らしを指すようなものではありませんでした。それは、自然と社会の営みを対象にしていました。
自然と社会(二つを合わせて宇宙といってもいいですが)は、淡々と日常が続いていくうちに生命体と同じように老化してゆき、最後には破壊に至ってしまうと考えられていました。実際、都市や国が永遠に栄華を極めることなどなく、ピークを越えた後に衰退に向かっていくことは歴史が証明しています。
しかし、人は、なんとかして自然と社会を定期的に若返らせ、永続させようと考えました。自然と社会が老化していくと、老廃物として穢が生まれ、それが溜まっていくと、次第に秩序が崩れてカオスに向かっていきます。ハレの儀式は、その穢れを取り払いカオスを一気に解消するものでした。ちなみに、「穢」という字は禾偏に「歳」と書きますが、それは歳を重ねるごとに溜まっていくものという意味です。
ハレの儀式としては、よく祭り=カーニバルが例えられます。本来の祭りは、単なるストレス発散のバカ騒ぎというだけではなく、もっと徹底したものでした。それは、日常の世界の秩序を逆転させ、わざと日常を混沌の渦に落とし込み、それを擬似的に破壊して、世界の再生を促すものでした。
古代ローマのサトゥルノ祭(サトゥルナリア)は、クリスマスの起源の一つともいわれますが、クリスマスが冬至の太陽再生を願う祭りであると同時に、太陽だけでなく社会を再生する意味を持っていました。
サトゥルノ祭では、その期間中、本来の王の代わりに、奴隷の中から選ばれた偽の王が玉座に据えられます。この偽の王は、至上の神サトゥルヌスの化身として、殺人を除くあらゆる振る舞いが許されました。そして、そのふるまいが放埒で、ハメを外したものほどいいとされ、庶民もそれを真似てハメを外し、街がカオスに飲み込まれていくことに歓喜しました。
カオスが頂点に達する祭りの最終日、偽の王はその役割を終え、サトゥルヌス神の祭壇へと引き出されます。そして、カオスをもたらした罪人として、一刀両断に断首されます。カオスの根源が処刑されたことで、たちまち社会からカオスが一掃され、新たな活力を持って再生するのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.196
2020年8月20日号
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◆今回の内容
○喪の仕事と再生
・都市の盛衰
・喪の仕事
・すべては物事の捉え方
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喪の仕事と再生
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梅雨明け以降、厳しい暑さが続いていますね。
今、これを書いているのは、16日の15時をまわったところですが、現在の都内の気温は34.3℃で猛暑日一歩手前となっています。私が暮らす茨城県の鹿島灘沿岸では29.3℃、ちょうど5℃都内よりも低い気温です。二階のベランダにキャンピングテーブルを出して、気持ちのいい風に吹かれているので、体感温度はさらに2、3℃低いですから、都内に比べれば別天地です。
コロナ禍に見舞われて以降、テレワークが主体となって、今まで都内まででかけていたミーティングもここにいながらでできて、フィールドワークは別として、少なくとも私のデスクワークの環境は今までよりも格段に合理的で生産性も高くなりました。
早朝か夕方の涼しい時間帯には、広々とした海岸でジョギングして汗を流していますので、コロナによる自粛もあまり関係なく、ストレスレスで健康的な日常生活を送っています。
今までは、ここと都内の二ヶ所に拠点を構えて仕事をしようと思っていたのですが、都内での要件がほとんどなくなったので、拠点はこの田舎だけで十分かなと思っています。
3月にコロナ禍が始まって以降、世間の関心は、今後のコロナ禍の行方と、それによって変わる生活スタイルや価値観の変容が中心になっています。この講座の内容も、私自身が、最近、それを強く意識していることもあって、どうしてもそうした話が主体になっていますが、こうした状況を突きつけられている以上、仕方のないことと理解していただけるとありがたく思います。
なんだか手前ごとのような始まりになってしまいましたが、今回は、これまでの大きな社会の変動期に、人がどのように行動し、また対処してきたかを歴史を紐解いて振り返り、聖地学…というか宗教心、信仰心との関わりから見ていきたいと思います。
過去に、今回のパンデミックのような事態に直面した人たちの中で、その危難を克服し、以前よりも意識を高めていった人たちのあり方を参考にしたり、その対処方法を知ることは、今現在厳しい状況に置かれた私たちにとって、参考になるとともに、大きな励ましにもなると思います。
●都市の盛衰●
今回のコロナ禍では、人口が集中した都市がいとも簡単に機能不全を起こしました。「都市の生活には奢侈がつきもので、奢侈に慣れた人間は連帯意識も向上心も弱まる。欲望や快楽を重視して道徳性が弱まる。都市の王権は、従属することに慣れ、自立心や勇気や抵抗力の乏しい人間を増大させる」。これは、消費生活に浸りきった都市住民が、噂に翻弄されて買い占めに走ったことを揶揄し、また政治のあり方に対する警句として、現代の政治家が話した言葉のようですが、じつは、14世紀の歴史家イブン・ハルドゥーンが、その著書『歴史序説』に記したものです。
ハルドゥーンは、さらに次のように言葉を繋ぎます。「もし、支配が穏便で正しく、権力や禁令によって強制することがないならば、被支配者は自身の持つ勇気の度合いによって自立の気風を示し、抑圧するものがないことに自信を持つ」。民主主義に反するような圧政が世界各地で進行している現代にあって、まさに時宜に即した提言のようです。
ハルドゥーンは、1332年に今のチュニジアのチュニスに生まれました。裕福な家庭に育ったハルドゥーンは、幼少のときから利発な子で、チュニスの学者たちからイスラーム法学、伝承学、哲学、作詩などを学んでいきました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.195
2020年8月6日号
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◆今回の内容
○神の使い
・ハグロトンボとダンブリ長者
・神使の動物
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神の使い
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長い梅雨がようやく明けたかと思ったら、突然、猛暑がやってきました。今年は猛暑に加えて新型コロナというはなはだ厄介なものがくっついた厳しい夏になってしまいましたね。
例年だと、私は昭文社のツーリングマップルの取材が佳境に入っているところなのですが、今年は企業がテレワークに移行したこともあって、取材車両や機材の手配などが滞り、さらに、果たしていつもどおり自由に移動していいものかどうかなど苦慮していました。
ようやく数日前に機材が揃い、取材準備は整ったのですが、もうすぐお盆休みでもあり、そのお盆の帰省の動向などもまだ見えないので足踏みしています。
いっぽう、聖地に関わるほうの仕事は、俄に動きが出てきました。
以前からプランニングなどのお手伝いをさせていただいていた長野県上田市では、「レイラインがつなぐ『太陽と大地の聖地』~龍と生きるまち 信州上田・塩田平~」プロジェクトが日本遺産に登録され、福島県いわき市のレイライン聖地調査が国の補助事業として採択され、さらには故郷茨城県の神栖市で同じ補助事業として聖地調査とそれに基づいたツアー企画立案プロジェクトが採択されました。また、この講座でも何度かテーマに取り上げた、四国香川での聖地調査も、調査結果を基にしたコンテンツ開発が俎上に登りました。
といったように、立て続けに「レイラインハンティング」をベースにしたプロジェクトが動き出しました。
コロナ禍によってもっとも深刻な影響を受けているのは観光業ですが、この自粛の間に、かねてから指摘されていたオーバーツーリズムが反省されたり、多様化する個人の旅のニーズやスタイルに対応するためのコンテンツとは何かといった考察が行われていて、そうした流れの一つとして、私が長年追求してきた「聖地観光」という観点にも関心を向けてもらえるようになったようです。
私が計画していたツアーやセミナーなども、コロナ禍の影響ですべて中止になりましたが、状況を見ながら、ぼちぼちと少人数から再開していこうと思っています。
ところで、今回は、この暑さの中で、学術的な話に触れても頭の中に入りづらいですし、そもそも論理的な思考に走ると、私の脳が溶けてしまいそうですので、最近経験したちょっと不思議な話などから、神話へと辿ってみたいと思います。
●ハグロトンボとダンブリ長者●
毎年、梅雨になるとキッチンやリビングの窓の外側にヤモリが張り付いて、吸盤のついた趾を広げたユーモラスな姿を見せてくれるのですが、この夏は姿をずっと見かけませんでした。ヤモリはゴキブリなどを捕食してくれる益虫ですので大歓迎なのですが、その姿が見えなくて、なんだか寂しい気がしていました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.194
2020年7月16日号
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◆今回の内容
○新しい実在論と聖地・聖性
・聖性の感じ方
・身体性
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新しい実在論と聖地・聖性
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私自身も「聖地」という言葉を普通に使い、こうして聖地学講座なるメールマガジンを発行しているわけですが、そもそも聖地とは何なのかと問われると、単純明確に答えることは困難です。
聖地という「存在」や「現象」を多角的な視点から捉えようというのが、この講座のメインテーマで、「聖地とは何か」という究極的な問いの答えは、全体を通して、それぞれに読み取ってもらうしかありません…もしかすると、あるときヒョイとその答えが飛び出すかもしれませんが。ともあれ、漠然としたこの全体性の根底には、「実在性」の問題が横たわっているといえます。
去年から今年にかけて、NHKのBSチャンネルで『欲望の資本主義』や『欲望の時代の哲学2020』といった、現代社会を取り巻く哲学問題に取り組む番組が放映されました。その中でリポーターとして中心的な役割を担っていたのはマルクス・ガブリエルでした。
現代ヨーロッパを代表する哲学者であるマルクス・ガブリエルは、『なぜ世界は存在しないのか』という刺激的なタイトルの著書によって、新しい観点の実在論を展開しています。それは、一般的に「新しい実在論」と呼ばれています。
哲学にしろ宗教にしろ、そして神秘主義やスピリチュアルな思想にしろ、それらはあらゆる事物を包含する「世界」や「宇宙」というものを想定し、その中に含まれる「人」という対置関係の中で神性や人間性が語られてきました。それは形而上的な概念といえます。
また、カントやニーチェに始まる近代西洋哲学は、「神は死んだ」と宣言して観念的な「世界」や「宇宙」といった概念を否定し、哲学を人間主体にシフトさせます。さらに、それを引き継いだ構造主義やポストモダン思想は、あらゆる事象は人間の主観が生み出すものであって、幻にすぎず、重要なのは事象を繋ぐ関係性なのだとします(ちょっと乱暴なまとめ方ですが)。これは構築主義と呼ばれます。
マルクス・ガブリエルは、形而上的な世界は存在せず、個々の人間や集団が抱くイメージとしての「世界像」のみが存在していて、それが寄せ集まっているのが今私たちが生きている社会(リアルな世界)だとします。
『なぜ世界は存在しないのか』という著書のタイトルは、すべての事象を包含するとされる形而上的な世界が存在するとするならば、それを包含するさらに包括的な世界が存在しなければならないことを意味し、それが存在するとするならば、さらに包括的な世界…と無限連鎖に陥ってしまうので、結局、そうした世界は存在し得ないということを指しています。
「世界像」しか存在しないというガブリエルの論理は、一見、構築主義と同じに見えますが、構築主義が世界像そのものが人間の主観が生み出す幻に過ぎないと履き捨てるのに対して、ガブリエルは世界像そのものは存在するものとして位置づけるところに決定的な違いがあります。ここから、「新しい実在論」と言われるわけですが、彼は、そうした無数の世界像を突き合わせていくことで、社会を動かしていこう、進化させていこうと主張します。
こうした考え方は、近年、急速にあらゆる社会・人文科学の分野に広がっています。
そして、この新しい実在論は、「聖地」や聖地のバックボーンを成す「聖なるもの」について考える上でも有用です。
宗教にしろ神秘主義にしろ、古い実在論である形而上学を元に、大いなる存在や人間にとって不可知の神秘が存在するという前提を置いて、様々な神話や物語によって「聖性」を説明し、それによって信仰を生み出してきました。
これを新しい実在論から見ると、大いなる存在や人類共通の不可知の神秘といったものは存在せず、しかし、個々の人間が感じる「聖性」は存在するということになります。みんなで幻想の聖性を崇めるのではなく、個々の人間が、それぞれの聖性を感じ、その意味を考え、他者と突き合わせていけばいいということになります。
そうしたことによって、聖地や聖性の具体的な様相が明らかになっていくことが期待できるのです。
●聖性の感じ方●
ところで、「個々の人間が感じる聖性は存在する」という認識が、特段に新しいものに感じられない人も多いでしょう。
それは、東洋思想的世界、とくに日本では、もともと神や聖性といった概念が曖昧であり、それを漠然とした「何ものか」という形で受け入れてきたからです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.191
2020年6月4日号
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◆今回の内容
○聖なるものの変遷と復権
・一神教と多神教
・聖なるものの成り立ちと変遷
・聖なるものの復権
◯お知らせ
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聖なるものの変遷と復権
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つい先週のこと、鉱山・資源開発の大手多国籍企業であるリオ・ティント(Rio Tint)が、4万年以前に遡るアボリジニの遺跡を破壊し、謝罪したというニュースが流れました。
西オーストラリアで鉱山開発を行っていたリオ・ティントが、氷河期にまで遡るアボリジニの洞窟遺跡「ジューカン・ゴージ」で鉄鉱石を採掘するための爆破作業を行って、この遺跡を全壊させてしまったというものです。この遺跡からは、2万8000年前のものと推定されるカンガルーの骨で作られた骨角器や、髪の毛を編んで作られた4000年前のベルト、その他の磨製石器などが見つかっていて、オーストラリアで最古の一つに数えられるだけでなく、世界的に見ても非常に貴重な先史時代遺跡でした。
この遺跡を含む一体は、プートゥ・クンティ・クラマとピニクラというアボリジニ部族の所有地で、その一部を西オーストラリア州がリオ・ティントに採掘許可を与えていましたが、その範囲を越えて採掘を行って破壊されたものでした。
西オーストラリア州では、昨年の10月に、アボリジニの聖地である「ウルル(通称エアーズロック)」を恒久的な入山禁止とされましたが、古来の聖地を保護する政策をオーストラリア政府が拡大実施していく中で起きた出来事でした。
オーストラリアに限らず、近年は、自然と共生してきた世界各地のマイノリティの価値観が見直され、自然保護とともに彼らの聖地を守ろうという考えも定着してきました。しかし、その反面、現代産業社会のニーズに答えるための資源開発も拡大していて、こうした事件が各地で起こっています。
こうした保護と開発のせめぎ合いの背後には、経済優先主義とエコロジーの考え方の違い、さらにその背後にある宗教的な精神土壌の違いがあります。さらにいえば、モノの価値の背景を成す「聖なるもの」という概念が歴史的な意味や社会背景によって異なる点があげられます。
世界がコロナ禍に襲われて経済活動が大きく停滞した影響で、自然が本来の姿を取り戻したといった報告が世界各地から挙がっています。また、人口が集中する都市の脆弱性が明らかになったことで、ライフスタイルを根本的に変えて田舎への移住を検討する人も増えています。
今回は、そんな今の状況なども考え合わせながら、人の価値観に大きな影響を与える「聖なるもの」の概念について触れてみたいと思います。
●一神教と多神教●
この講座でも何度も取り上げてきましたが、宗教の性格を区別する一番大きな分類項目は、一神教と多神教です。一神教はあらゆるものの造物主として絶対唯一の神を頂点として、その元に人や自然を置きます。一方、多神教は自然そのものの中に神性を見いだして、多くの神の存在を認め、すべてを含めた「自然」というエコシステムに神も人間も含まれていると考えます。
冒頭引用した事件を当てはめれば、リオ・ティントは一神教世界の西洋の価値観で動く企業であり、アボリジニは多神教世界に生きているといえます。アボリジニにとってジューカン・ゴージは、神聖不可侵な聖地だったわけですが、西洋的一神教から生まれた資本主義的な価値観を行動原理とするリオ・ティントにとっては、そこに聖性=聖なるものの価値はなく、神の命を受けた人間による開発を待つ資源の収穫場にしか映らなかったのです。
今でこそ、資源の枯渇ゃ環境破壊から異常気象や経済格差といった深刻な問題を突きつけられて、資本主義のあり方そのものに疑問が持たれるようになってきましたが、20世紀中葉までは、自然を切り開いて消費財を大量に生み出して豊かな生活を追求していくことは、善であり美であるとさえ考えられていました。「消費は美徳」などというキャッチフレーズがメディアに溢れていたのは、そんなに遠い昔ではありません。
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2020/06/07 カテゴリー: 08.スーパーネイチャー, 11.人, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.190
2020年5月21日号
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◆今回の内容
○潜在意識の中の聖地
・ユングが辿った道
・潜在意識の中の聖地にたどり着く方法
◯お知らせ
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潜在意識の中の聖地
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前回は、外出自粛を余儀なくされるコロナ禍の中で、鬱々と落ち込んでしまうことを避け、逆にこの機会を利用して、あえて自分と向き合うことで精神・内的体験を充実させることをテーマにしてみました。そして、どんな状況にあっても精神を高揚させる方法として「至高体験」を紹介しました
依然として続くコロナ禍の中で、今回は、もう少し自己と向き合うことについて掘り下げてみたいと思います。テーマとするのは潜在意識です。
至高体験ももちろん潜在意識と深いつながりがあります。それは潜在意識と触れ合うことで、一瞬のスパークが顕在意識にもたらされ、意識が覚醒するような体験だからです。今回は、それとは反対のベクトルに向かい、潜在意識そのものに沈潜していくことで、何かが変わるような例を取り上げ、自分の内面と向き合うことの意味を考えてみたいと思います。
● ユングが辿った道 ●
私は、かねてから聖地とは、自分の内に秘められた内的体験を外的環境によって引き出すような場所だと考えてきました。すでに自分の心の中にありながら意識できていなかった啓示的な事柄を引き出す何らかの環境を有した場所が聖地ではないかと。
そして、聖地は必ずしも物理的な場所だけではなく、自分がある聖地を訪ねたときのことを思い出して、その陽射しや空気、そこに生息する動植物が醸し出す雰囲気を脳裏に描き出すことで、実際にそこにいるのと同じような啓示的効果を発揮するようなものでもあると思うのです。いわば、記憶の中の聖地も現実の聖地と同等ものものだと。
さらにいえば、実在の聖地の記憶だけでなく、潜在意識の中に独立して存在するものもあって、それにアクセスすることで聖地体験が得られると思うのです。
潜在意識といえば、まっ先に思い浮かぶのは、ユングです。
ユングは、フロイトとの確執で追い詰められノイローゼのような状態になりました。フロイトは、人間はコンプレックスの虜であり、そのコンプレックスが隠れ潜んでいるのが潜在意識だとしました。コンプレックスを潜在意識の中から引き出し、これを患者と対峙させることで、病理的な精神状態から開放されると考え、それを精神分析で実践していました。
これに対して、ユングは、潜在意識はフロイトがイメージするようなコンプレックスが閉じ込められている地下牢のようなものではなく、人間の精神の可能性が詰まった広大な未開領域だと考えました。そして、潜在意識そのものを探検し、そこから人間精神の進化を導き出すのが心理学に課された使命だと考えるようになりました。
フロイトは、人間の精神は病的な状態にあるのが通例で、平常な生活を送るために治療を必要とすると考えていました。ユングは、治療を必要とする精神もあるけれど、それも含めてすべての人は、潜在意識の豊穣な世界に触れ、それを知ることで精神的に大きな進化を遂げると信じるようになったのです。二人の対立は避けられませんでした。
ユングは恩師であるフロイトと対立し、激しく叱責されたことで、ノイローゼに陥ったのです。しかし、それを克服して、自らが信じる潜在意識の可能性を追求する方向へ進んでいきます。そして、自らの精神の奥底に降りていって、そこでフィレモン=賢者という存在に出会い、潜在意識の広大さと奥深さを知り、ついには「個人」を超えた人類共通の集合意識といったものにまで辿り着きました。ユングにとって、潜在意識は一大聖地だったわけです。
今、私たちは、コロナ禍によって、逼塞を余儀なくされ、さらにこの先、世界がどうなっていくのか、自らが行きていくための収入を得るためにどうすればいいのか見当もつかず、不安に苛まれています。しかも、行動することもできず、八方塞がり状態です。
パンデミックという状態に陥ったのも、そのために経済的に困難な状況に追い込まれたのも、大きな原因は現代の社会経済システムにある。ポストコロナでは、同じ轍を踏まず、人間本来の幸福を実現するために、今までの社会とは違った社会を作らなければいけないと思う反面、なんとか元の経済を取り戻したいという思いのジレンマに挟まれています。
これは、コンプレックス理論をベースにしたフロイトの精神分析学に疑問を持ち、人間の精神が進歩する可能性を追求したいのに、その方法が見つけられずにいたユングが置かれた状況にある意味似ています。
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2020/05/22 カテゴリー: 02.ライフスタイル, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.189
2020年5月7日号
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◆今回の内容
○危機を乗り越える術 『至高体験と自己実現指向』
・至高体験と意味感覚
・自己実現指向型人間
◯お知らせ
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危機を乗り越える術 『至高体験と自己実現指向』
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誰も想像していなかった形になった今年のゴールデンウィークが明けました。
例年のゴールデンウィークなら、SNS上では国内外の観光地に出かけて楽しむ人たちの投稿で百花繚乱となるところですが、今年は、それも一変しました。引きこもり生活の中で、室内で様々に楽しむ姿や庭先で見つけた小さな自然を投稿したり、自分が好きな本のブックカバーや手料理の写真を7日間連続で投稿するリレー、同じく幼い頃の写真を投稿するリレーが俄に広がったりしました。
私も、庭先で花を咲かせだした花々の写真や野草を摘んでお茶にしたりする様子を投稿したり、巡ってきたブックカバーリレーに参加したり、これもトレンドになった有志でのオンライン飲み会も開催しました。そんなことをしながら、じっくりと身の回りのことに目を向けたり、新しいネットの使い方を模索していくことを楽しく感じていました。
同時に、どんな状況にあっても楽しみを見つけ出す人間という種のしたたかさというか、楽観的な強さを垣間見た思いがしました。前回の最後にユヴァル・ノア・ハラリの『サピエンス全史』の中の記述を引用しましたが、動物界の中で非力な人間が地球の主役となった原動力である、想像力とネットワーク力がまさに今でも息づいていることを、身を持って感じたわけですから。
そうはいっても、まだまだコロナ禍は去ったわけではなく、明確な出口を見いだせずにいます。経済活動停滞の影響も甚大になってきて、企業の倒産や廃業も増えてきました。また、経済的に追い詰められて死を選んでしまう人も増えています。こうしたことはもちろん他人事ではなく、私自身にも現実的な問題として迫ってきています。
こうした危機に直面して、ふと思い出すのは、20年前に自暴自棄になって、半ば死のうとしたときのことです。その時の私は、やることなすこと上手く行かず、人間関係のトラブルも重なって、生きることにまったく希望を見い出せませんでした。そんなある晩、オートバイで事故を起こしたのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.188
2020年4月16日号
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◆今回の内容
○コロナ後の聖地(観光)
・そもそも「聖地観光」とは
・コロナ後の社会と聖地
・あとがき的に
◯お知らせ
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コロナ後の聖地(観光)
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新型コロナウイルスのパンデミックは、出口が見えない様相を呈してきました。とくに、日本の状況は基本的な対処方針もはっきりせず、まだまだ危機感を持たない人もいて、諸外国が長いトンネルの先の出口の微かな光を見出しはじめている中で、一人真っ暗闇を手探りしているように感じます。
個人的にも、3月と4月に予定していたツアーや講座がすべてキャンセルとなり、6月に予定していた夏至の太陽を追いかけるツアーもキャンセルとなってスケジュール帳は空白になってしまいました。今の状況を考えれば仕方のないことですが、やはり痛手は大きいです。
講座に関しては、オンラインでの実施という方法もあるので、新たな展開が期待できますが、ツアーのほうは当分は見合わせが続きそうです。
私のメインの仕事は、観光関連の行政や会社とのコラボレーションですが、行政はともかくとして、観光に関わる企業は存亡の危機に立たされてしまっています。かりに、「今」を乗り越えたとしても、コロナ後の世界では、社会の状況も価値観も大きく変わり、観光のあり方やユーザーの求めるものも当然変わって、いままでのようなインバウンド主体のものや、集客することに焦点を当てたプロモーション的なツアーは下火になるでしょうから、その先のニーズを考えないと、結局は生き残れないでしょう。
そんな状況にあって、ただ悲観しているわけにもいきませんから、このところ、コロナ後には、社会はどう変化し、どんなニーズが生まれてくるだろうかと考えを巡らせています。
●そもそも「聖地観光」とは●
そもそも、私が取り組んできた「聖地観光」は、個々の土地が持つ独自の雰囲気を表出するものが聖地であるととらえ、その雰囲気……この講座でもよく使う用語でいえば、ゲニウス・ロキ(地霊)……を明瞭にして、それを観光資源として活かそうというものです。そのための一つの糸口として「レイライン」という概念を用いるのです。レイラインとは、聖地を繋ぐアライメントや聖地そのものの構造分析です。
古くから信仰を集めている聖地は、いずれも明確な意図のもとに形作られています。それは、一年の太陽の動きや天体の動きを地上に写し取ったり、複数の聖地と自然のランドマークを結びつけて、「結界」と呼ばれるようなジオポリティクス的構造を作り出しています。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.187
2020年4月2日号
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◆今回の内容
○疫病除けの神と風習
・疫病除けの神と聖地
・疫病除けの風習
◯お知らせ
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疫病除けの神と風習
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前回は、世界が今までに経験したパンデミックと、それをきっかけに世界がどのように変化したかを人々の信仰や聖地の観点から辿ってみました。
あれから二週間、新型コロナウイルスの感染は衰えを見せるどころか、世界中をさらなる恐怖のるつぼに巻き込んでいます。この疫病の犠牲者が増えないことと、いち早い収束を願いつつ、今回は日本での疫病神の信仰について見ていきたいと思います。
つい先日、ネット上で「アマビエ」という半人半漁の妖怪の絵が飛び交いました。水木しげるも「ゲゲゲの鬼太郎」の中で登場させているこの妖怪は、海の中から光り輝きながら現れ、稲作の豊凶や疫病の流行を予言したとされます。
弘化三年四月中旬(1846年5月上旬)、肥後国(熊本県)の海岸に数日に渡って現れ、調査にやってきた役人に向かって、「当年より六ヶ年の間は諸国で豊作が続くが疫病も流行する。私の姿を描いた絵を人々に早々に見せよ」と言い残して姿を消したとされます。その話が江戸まで伝わり、挿絵付きの瓦版で紹介されると、たちまち評判になりました。江戸の庶民は、その瓦版の挿絵を切り抜いて、軒や柱に貼り付けて疫病除けを願いました。
先日、ネットで飛び交ったアマビエの絵は、京都大学が所蔵するこの瓦版の挿絵と、それを元に水木しげるが描き起こしたものでした。得体のしれない疫病というのは、いつの時代でも人間の根源的な恐怖を掻き立てるものです。科学技術が進んでも、未知の疫病が現れれば、それに恐れおののいて、藁をも縋ろうと考える心性は昔と変わりありません。ネットからダウンロードした絵をプリントアウトして貼った人は、はからずも江戸の庶民の感覚を追体験したわけです。
疫病除けの護符といえば、昔はほとんどの家に、角大師(元三大師)の札が貼られていたものでした。じつはかくいう私の家でも、いまだに、毎年正月に配られるこの御札を北東鬼門に面したリビングの壁に貼り付けています。長い角を生やし痩せさらばえた角大師の姿は、それ自体が妖怪そのもので、子供心にこの御札を恐れたものでした。後に、これが角大師の化身した夜叉の姿だと知っても、やはり壁の隅にその姿を見るとドキリとします。
これは、天台宗中興の祖である慈恵大師・良源が夜叉の姿に変身して疫病神を追い払ったという伝説に因んだもので、はじめは比叡山麓の坂本の集落で魔除け、疫病除けとして貼られ、それが京都市中から全国へと広まってゆきました。
年末の大祓や夏越の祓で潜る茅の輪も、その由来は、蘇民将来伝説の疫病除けですし、村や集落の外れに祀られる塞の神も、疫病がそこから内へ入って来ないようにと願って置かれたものでした。
前回も触れたように、ヨーロッパでは中世から近世にかけてペストに何度も襲われていますが、日本では、古代から近世にかけて、痘瘡(天然痘)やらい病、百日咳、赤痢などが流行し、そうした疫病が疫神や怨霊の祟りによるものとして恐れられました。そして、疫神を除けたり祓ったりする様々な信仰が生み出されていきました。
今回は、そんな日本の疫神信仰についてまとめてみました。今回の新型コロナ肺炎は、拝めば治るというものではもちろんありませんが、過去、私たちの祖先がどのように疫病をとらえ、その恐怖を克服し、さらに疫病の恐怖を後世に伝えてきたかを知ることは、この新しい疫病を克服する上でも役に立つのではないかと思います。
3.11の津波の後、その到達線に沿って神社が並び、地元では「津波が来たら、あの社まで逃げろ」という伝承が受け継がれていたといった事例は記憶に新しいところです。明治以降に神社合祀の政策によって、村の鎮守や、集落の外れに置かれた小さな祠のようなものが一纏めに合祀されてしまったり、津波除けの言い伝えのようなものが淫祠邪教や迷信として排斥されてしまったために、昔の人が残してくれたこうした警鐘は、残念ながらすべての人に周知していたというわけではありませんでした。
そんなことも念頭に置いて、読んでいただけたら幸いです。
●疫病除けの神と聖地●
★牛頭天王、八坂神社
新型コロナ肺炎が日本でも流行りだしてから、京都の八坂神社をはじめ、各地の八坂神社にお参りに行く人が増えているそうです。八坂神社といえば、先に挙げた茅の輪くぐり=蘇民将来伝説と深い関係があります。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.186
2020年3月19日号
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◆今回の内容
○パンデミックが告げるコト
・鞭打ち苦行とコペルニクス
・革新と反動
◯お知らせ
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パンデミックが告げるコト
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今回の新型コロナウイルスの広がりは、ついにWHOがパンデミックを宣言し、世界全体が閉鎖状態になるまでに発展してしまいました。とくにヨーロッパでは、恐ろしいほどに緊張感が高まっています。
日本もこれからどう推移するかまったく予想がつきませんが、今のヨーロッパの対応はエキセントリックとも思えるほどです。しかし、それは中世にヨーロッパが経験したペストによるパンデミックを考えれば、当然の反応ともいえます。
14世紀半ばから15世紀半ばにかけての最初の大流行では、イギリスやイタリアでは、人口の80%が死亡して文字通りゴーストタウンと化した都市だらけで、ヨーロッパ全体で見ると人口の30から60%が失われたと推定されています。
この流行は猖獗を極めた後に収束しましたが、再び、17世紀から18世紀にかけて襲いかかります。イタリアのミラノでは、当初は事態を軽く見ていて、恒例のカーニバルが実施されました。ところが、これが仇となり、カーニバルがクラスターとなって、イタリア全土に一気に広がってしまいました。ピーク時には一日に3500人が死亡するという惨事になりました。さらにヨーロッパ各国に飛び火して、ロンドンだけでも死者7万人、フランスのマルセイユでも5万人が亡くなりました。
最近よく目にする不気味な絵、鳥の嘴のようなマスクをつけて体全体を厚い布のコートで覆った人物の姿は、この時代のペスト患者の治療にあたった医師の防護服姿です。
今回、新型コロナウイルスのパンデミックに直面したヨーロッパでは、中世に世界を滅亡の瀬戸際まで追い込んだペストの記憶が生々しく蘇っているのです。
ところで、この「パンデミック」という言葉は、ギリシア語の"pandemia(パンデミア)"、"pan(全て)+ demos(人々)"に由来します。panには、牧神という意味もあり、これは羊飼いの神であると同時に全ての自然を象徴する神でもありました。
牧神(パン)は、森の中で静かに昼寝をしているときに、人間にその眠りを妨げられ、その仕返しに、森の中に一人でいる人間の前に突然現れてその者を恐怖に陥れたとされます。このパンに取り憑かれた状態が「パニック」です。
キリスト教では、異教の神である牧神は制圧されるべきものとされ、キリストが十字架に架けられて昇天したときに自然を支配していた牧神を滅ぼしてこれに入れ替わったとされます。キリストの磔刑はキリストの神格化の象徴であり、全能の神とその僕たるキリストの名のもとに、自然を支配するという宣言だったわけです。
最初のペストのパンデミックでは、ポーランドだけがたいした被害を受けませんでした。それは、ポーランドではアルコール度数の高い蒸留酒で食器や家具を消毒したり、体を拭く習慣が定着していたこと、それに、国土の多くがまだ農地化されずに原生林のまま残り、そこにネズミを食べるオオカミや猛禽類などが多く生息していたからだといわれます。
自然霊である牧神を滅ぼし、自然を制圧した都市ではペストが猖獗を極め、牧神がまだ生き残っていたポーランドのようなところではペストから守られた。それは、現代にも活かすべき大切な教訓を物語っているように思えます。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.185
2020年3月5日号
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◆今回の内容
○建築と聖地
・大黒柱
・神明造りの二重構造
◯お知らせ
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建築と聖地
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先月の後半から日本でも始まった新型コロナウイルスのドタバタで、社会は混乱を極めていますね。個人的にも、15年目を迎える予定だった若狭のお水送りのツアーや春分の日のいわきでのツアーが中止になるなど、大きな影響を受けています。
今回は、ウイルス自体の毒性は低く、中世のペストのように人類の三分の一が死亡するようなカタストロフィに繋がることはなさそうですが、見方を変えれば、そうした脅威が登場したときに、今の人類でも対処する術はないのではないかということを露呈したようにも思います。
NASAのゴダード宇宙センターでは、大気汚染監視衛星を用いて地球の大気汚染の推移を観測していますが、新型コロナウイルスの猛威によって、封鎖された武漢周辺で大気汚染物質である二酸化窒素(NO2)の濃度が著しく低下したと発表しました。担当者は、「観測を初めて以来、大気汚染物質の低下を観測したこと自体が初めての経験であり、しかも短期間でここまで著しく低下することに驚いている」とコメントしています。
オーストラリアで未曾有の山林火災が発生して、人の手での鎮火が困難とされていた(結局、豪雨によって自然鎮火しましたが)のも、記憶に新しいところですが、近年増えている異常気象も、人間による環境破壊がどれほど大きいものかを突きつけられたように思います。新型コロナウイルスの発生も、元をただせば、環境破壊がトリガーになっているといえそうです。
今回のパンデミックは、今この時点で、これからの文明のあり方や経済の意味について真剣に考えなければいけないということを人類に突きつけているともいえるでしょう。いずれにせよ、これからの推移を冷静に見つめつつ対処していかなければいけませんね。
ところで、今回は、建築と聖地をテーマにしようと思います。第183回の最後の章も同じタイトルでしたが、そこでは、天体の動きを意識した聖地や大地が発する雰囲気であるゲニウス・ロキ(地霊)を意識した聖地について触れました。そこでは、いわばマクロな視点から、宇宙の営みや地球の営みと連動した聖地全体の構造について見たわけです。
今回は、同じ聖地でも、その内側の構造に目を向けて、どのような意味がそこに込められているのか、それが具体的に人とどのように関わるのかといった視点から、とくに日本の聖地=神社を取り上げたいと思います。
環境破壊やそれにともなう様々な災害、新しい感染症の発生と蔓延といった、今私たちが現実に突きつけられている問題も、その根本には、自然の営みから私たちの意識が切り離されてしまったことに原因していると思います。聖地の構造とそこに込められた意味を読み解くことは、再び自然の営みに意識を向けるということです。そんな思いも、今回だけでなくこの講座全体を通じてお伝えしていけたらと思っています。
●大黒柱●
最近は、というかもうだいぶ前から見なくなってしまいましたが、かつての田舎の農家の母屋には、かならず大黒柱がありました。また、これも死語に近い薄い言葉になってしまいましたが、一家の家計を支えるお父さんも「大黒柱」と呼ばれていました。大黒柱は家の中心にあるいちばん太い柱で、それが家を支えているからそんなふうに呼ばれたわけです。
大黒柱が腐ったり、折れたりしてしまえば、家全体が崩壊してしまう……そんなイメージがあります。ところが、建築構造からみると、大黒柱を取り除いてしまっても家はびくともしないのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.184
2020年2月20日号
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◆今回の内容
○黄門様と巨石
・宇宙から見えたパワースポット?
・光圀の巨石信仰の意味
◯お知らせ
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黄門様と巨石
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先日、東国三社と奥東国三社を巡るツアーのアテンドをさせていただきました。
東国三社は記紀神話中の「国譲り神話」のエピソードに登場する三神、タケミカヅチ、フツヌシ、アメノトリフネを祀った鹿島神宮、香取神宮、息栖神社を指し、茨城県南部から利根川を挟んで千葉県側に跨り、それぞれが10kmあまりの距離を隔てて立地しています。かつてその配列は大地に正三角形を描いていたと伝えられています。
奥東国三社という名称は、じつは存在しません。これは私の造語で、性格的に東国三社と対峙する茨城県内の三つの神社を勝手に「奥東国三社」と呼んでいるのです。具体的には、大洗磯前神社(おおあらいいそざきじんじゃ)、酒列磯前神社(さかつらいそざきじんじゃ)、大甕神社(おおみかじんじゃ)の三つを指します。
東国三社が大和朝廷の東国進出の足掛かりであったのに対して、その北方にあって、対峙するような形で立地している出雲・蝦夷系の祭神を祀る神社です。レイライン的な見方をすれば、蝦夷を威嚇するように北を向いた鹿島神宮の本殿の向き合う先に奥東国三社は立地しています。
大洗磯前神社と酒列磯前神社の祭神はそれぞれオオクニヌシとスクナビコナで、出雲系の神社です。大甕神社は主祭神を天孫系のタケハヅチとしていますが、併祭される地主神ミカボシカガセオ(アマツミカボシ)のほうから「甕=ミカ」の名がとられていることや、社殿の背後にあるご神体山ともいえる宿魂石そのものがミカボシカガセオとして神聖視されていることから、本来はこちらが主祭神であったと考えられます。
ミカボシカガセオはオオクニヌシの別名とも言われますが、わざわざミカボシカガセオとするのは東国=東北に特徴的で、蝦夷が信仰した石神と出雲から伝わってきたオオクニヌシの信仰が習合したものと考えられます。
『日本書紀』神代には、鹿島神宮の祭神タケミカヅチと香取神宮の祭神フツヌシが東国の邪神をほとんど平定したものの、ミカボシカガセオは最後まで抵抗を続け、タケミカヅチが打ち破られてしまったために、タケハヅチが遣わされたとあります。タケハヅチと対峙したミカボシカガセオは、石名坂の峠にあって、巨大な石の姿となり、押しつぶそうとしたものの、タケハヅチが鉄の靴を履いて蹴ったために砕けて、大小の岩が累々と重なる宿魂石てなり、欠片のひとつは河原子の浜(日立市)に、もう一つは石神(東海村)に落ちたとされています。
古代の蝦夷は、現在の鹿島神宮近くまでを勢力範囲にしていました。鹿島に上陸した朝廷軍は、まずこれを平定します。鹿島神宮の北東には境外禁足地の「鬼塚」がありますが、これがそのときに滅ぼされた蝦夷の頭領の首を埋めたところです。その後、蝦夷の勢力は徐々に北へと後退していきました。
そして、常陸国=茨城県内で最後の大規模な抵抗を試みたのが大甕神社付近でした。大甕神社の宿魂石は、「石」とはいいながら、立派な岩山です。この岩山からはかつては海岸を間近に眺め下ろせましたから、蝦夷岩城を築いて拠点としていたのでしょう。ここで朝廷軍と蝦夷軍がぶつかり合い、破れた蝦夷軍の頭領の首が宿魂石の頂上に安置されたというのが実相だと考えられます。
東国三社の鹿島神宮と香取神宮には、宿魂石同様に蝦夷の巨石信仰を伝える要石があります。前置きが少し長くなりましたが、今回は、そんな蝦夷由来の巨石信仰に注目した人物にフォーカスし、古代から近世にかけての東国の巨石信仰の意味を掘り下げてみようと思います。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.183
2020年2月6日号
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◆今回の内容
○2020年立春の雑感
・空海と大日
・付喪神
・建築と聖地
◯お知らせ
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2020年立春の雑感
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去る2月3日の節分とその翌日の立春の日、香川県にある善通寺に滞在して星供結願祭と節分会に参加し、立春の夕陽を拝みました。
善通寺では、毎年、冬至の日から星供養が始まり節分で結願を迎え、同時に節分会が行われます。日が変われば立春ですが、この日は四国八十八ヶ所巡りの先達が一同に会しての立春会となります。
今年は暖冬で、関東でもすでに梅の花がほころんできていますが、こちらでは梅は満開を迎え、さらに菜の花も咲き誇り、立春というより春真っ盛りといった陽気でした。
世界は中国で猛威をふるうコロナウイルスに戦々恐々としていますが、今回の聖地学講座は、これから迎える春とともに、この脅威が去ってくれることを願いつつ、新たな春を迎えるこの節目に、善通寺の儀式の意味からはじめて、雑感を綴ってみたいと思います。
●空海と大日●
善通寺は、四国に縁のある方以外、あまり馴染みかない方も多いかもしれませんが、空海生誕の場所であり、幼時代を過ごした実家=故郷です。空海の本名は佐伯真魚(さえきのまお)と言いますが、佐伯氏はこの地に古くから定着して、土地を治めてきた豪族で、善通寺は佐伯氏の氏寺でした。
今では四国八十八ヶ所の75番札所であり、また空海縁の三大聖地として、高野山、東寺とともに挙げられる名刹です。四国札所の中で唯一境内に温泉が湧き、真魚はこの温泉で産湯を使いました。その産屋があったところに、空海の自画像が祀られた御影堂が建っています。この自画像(御影)は、空海が遣唐使として旅立つ直前に、今生の別れとなるかもしれないと思い、堂の前にある御影の池に自分の姿を写して描き、それを母に残したと伝えられるものです。
鎌倉時代初期、土御門天皇が拝観した際に、この像が瞬きしたことから「瞬目大師像」とも呼ばれるようになりました。今は秘仏とされ、50年毎に御開帳されます。
ちなみに次の御開帳は2035年ですから、もうまもなく空海自筆の尊顔が拝めるわけです。書では「三筆」の一人に数えられる空海が、いったいどのような絵を描いたのか、楽しみです。
御影堂は香色山と筆ノ山という二つの山が折り重なるちょうどその真中を背にしています。冬至の夕陽は南側の香色山頂に沈み、それを合図に星供養が始まるのです。そして、日を追う毎に夕陽は香色山の稜線を北へと辿り、節分から立春にかけての二日間は、御影堂のまん真ん中、二つの山が重なる谷間に沈んでゆくのです。つまり、星供養はこの夕陽の動きに合わせて行われるわけです。
立春を過ぎると夕陽はさらに北へと移っていき、夏至で反転して戻ってくると、立冬には再び二山の間に沈み、冬至を迎えるとまた北へ反転するというサイクルを繰り返していきます。
二至二分の太陽の動きを意識した場所の多くは、かつて縄文遺跡がそこに存在していたケースが多いのですが、善通寺も同様に境内の北側に「練兵場遺跡」という広大な縄文集落の遺跡が広がっていました。また、香色山頂には佐伯家の祖霊が祀られていますが、ここも縄文から弥生、古墳時代にかけての祭祀場でした。
御影堂から真っ直ぐ前方に伸びる参道の先に立って、御影堂のほうを見やると、節分・立春の夕陽は、御影堂とその背後の谷間に吸い込まれるように落ちていきます。そして、完全に没する刹那、日に照らされた参道が燦然と輝き、冥界との通路が一瞬開かれたかのように感じられます。幼い真魚もこの同じ光景を見て、自らが太陽をその身に吸い込んだように感じたのではないかと思えてきます。
空海の生涯を辿ると、彼と大日如来と縁の深さを物語るエピソードがたくさん見られます。中でも有名なのは、遣唐使として唐に渡り、長安の青龍寺の恵果和尚の元で結縁灌頂を施されたときのものです。胎蔵界、金剛界との二度の結縁灌頂で、空海が投げた花弁は二度とも曼荼羅の中心にある大日如来の上に落ち、恵果が空海こそが密教の正当な伝承者であると確信する場面です。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.182
2020年1月16日号
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◆今回の内容
○神と仏・神仏習合について
・神と仏は同体
・仏を守護する神
・怪しい神々の習合
◯お知らせ
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神と仏・神仏習合について
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前回の神道の解説の中でも「神仏習合」という言葉を使いましたが、日本の寺社、とくに神社や神道について理解しようとするときに重要になるのが神仏習合というキーワードです。
「なんだか、この神社はあまり神社らしくないけれど、どうしてでしょう?」と、ツアーで神社を案内しているときに質問されることがあります。たしかに、参道には鳥居があるものの、社殿の方に目を向けると、神社らしい千木や鰹木がなく、寺の本堂のような造りをしていることがあります。それを不思議に思ってこういった質問をされたわけです。そんなときに、私は、「それはここが寺でもあったからですよ」と答えます。
寺と神社が画然と分けられたのは、明治時代に神仏分離令が発布されて以降のことで、それ以前は神仏が入れ混じり、画然とできないという形が当たり前でした。むしろこうした寺だか神社だかわからないのが、明治より前の古い時代の面影を留めているわけです。ところが、神仏分離の刷り込みが強かったために、今では、多くの人が寺と神社の雰囲気が入り混じっていることを不思議に思ってしまうのです。
そうした違和感も、神仏習合について知れば、それがむしろ自然なことであったと思えるようになります。そして、明治以降に無理やり附会された由緒ではなく、本来、その場所に刻まれてきた歴史に触れるきっかけにもなるはずです。
今回は、そうしたことを踏まえて、神仏習合について解説したいと思います。
●神と仏は同体
前回、茨城県にある大洗磯前(いそざき)神社が、明治になる前には「大洗磯前薬師菩薩明神社」と呼ばれていた話を書きました。この神社の祭神であるオオナムチが海から上陸してきて、それをここに祀ったという由緒を元に、オオナムチを東の海の彼方にあるとされた東方浄瑠璃浄土を治める薬師如来に見立て、薬師菩薩明神を祀る社と名付けたわけです。
本来は悟りを開いた「如来」であるはずの薬師をわざわざ「菩薩」としたのは、天界に座す如来ではなく、人間界にあって衆生を救う役目を帯びた菩薩であり、自らもまだ修行する身であることを暗示したものでした。
神仏習合の中心には本地垂迹という考え方があります。八百万の神の正体は、本来は仏であり、これを「本地仏」と呼びます。そして、神話や神社の由緒などに登場する神というのは、その本地仏が姿を変えてこの世に現れた「垂迹神」であるとするものです。「大洗磯前薬師菩薩明神社」は、オオナムチという垂迹神の正体は薬師菩薩で、神まだ菩提修行の途中であるから、「如来」ではなく「菩薩」なのだというわけです。
八幡神も「八幡大菩薩」として祀られますが、八幡神は古来の神ではなく、中世初期に登場しますが(応神天皇と八幡神が同化するのは、さらに後代のことです)、新しい神であるためか、仏教の仏を本地仏とするのではなく、そのまま八幡大菩薩という独自の仏が本地仏とされました。岩清水八幡宮は創建時から明治に至る前までは「石清水八幡宮護国寺」という名称でした。ここは、当初は神主もなく(創建10年後に神主が置かれましたが、それは象徴的な存在でした)、僧侶を中心に運営されてきました。このように神社の体裁を取りながら僧侶が運営する形態は「宮寺」と呼ばれました。
如来は悟りを開いて輪廻から脱した仏の姿です。菩薩とは菩提心を開いて如来へと至るための菩薩道を歩み始めたものであって、まだ輪廻に囚われています。神もまた未熟であり、輪廻に囚われていると本地垂迹説では考えられています。アマテラスもその例外ではなく、当初は観音菩薩を本地仏としていました。のちに空海が観音菩薩を大日如来に置き換え、悟りを開いたということになりました。
如来という仏は、輪廻という最後の軛から解脱した完全な存在です。その姿は薄絹を一枚纏っただけで表現されますが、それはこの世を超越したものであるから、いかなる欲とも無縁であることを象徴しているのです。本地垂迹説では、神もまた大いなる存在ですが、神の世界の輪廻という軛に繋がれているとされます。神は自力で輪廻から脱することはできず、人間に拝んでもらわなければなりません。そんな神を解脱させるという名目で作られたのが神宮寺でした。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.181
2020年1月2日号
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◆今回の内容
○自然信仰と神道
・淫祠邪教
・国学の功罪
◯お知らせ
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自然信仰と神道
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昨年末、私の住まいに近い大洗磯前神社の海に面した磯鳥居の側で、人が海に転落して溺死するという事故がありました。
数年前から観光客が急に増え、それまではなかった磯鳥居への立入禁止の看板なども設置されたのを異様に思っていました。なにしろ、子供の頃から馴染んできたこの神社は、地味な神社で、普段は参拝客もまばらなところでしたから。急に人が増えたのは、『ガールズ&パンツァー』という人気のアニメの舞台になって、「アニメの聖地」として人気が出たからだと最近知りました。海に転落して亡くなったのは、このアニメのファンで、アニメに登場するシーンと同じ構図で写真を取ろうとして磯鳥居の先まで踏み込み、波にのまれたとのことでした。
この磯鳥居は、大洗磯前神社の祭神であるオオナムチが上陸した場所と伝えられています。高台にある社殿と参道はこの鳥居の方を向き、ちょうど鳥居の真ん中から登ってくる冬至の朝日を迎え入れる形になっています。そうしたことを知っていたかどうかわかりませんが、「神域につき立入禁止」と明記された新しい看板の先でおきたなんとも皮肉な事故でした。
ところで、この大洗磯前神社は、明治の神仏分離によって現在の名前になりましたが、それより前は、「大洗磯前薬師菩薩明神社」と呼ばれていました。これは、典型的な神仏習合の名称です。
「我是れ大奈母知(オオナムチ)・少名比古奈命(スクナビコナノミコト)なり。昔此の国を造り終わり、去りて東海に往けり。今民を済(すく)はんが為に、更に亦来たり帰る」と『日本文徳天皇実録』にある記述が神社の由来で、ニニギが天降ったときに隠れ去った二神が、飢饉と疫病に苦しむ民の様子を見かねて、救うために帰ってきたと伝えています(この二神のうちオオナムチが大洗磯前神社の祭神で、スクナビコナはこの北にある酒列磯前神社に祀られています)。
仏教では、東方は薬師如来が治める浄瑠璃浄土がある方向で、東海から帰ってきたニ神は、薬師に見立てられたわけです。本来、薬師は浄土にいるので如来ですが、その薬師が此岸に戻ってきたので、人間界に留まって人を浄土に導く菩薩になったと解釈されています。それに明神という神格がつけられて、なんとも不思議な神名になっています。しかし、こうした神仏習合的な形こそ、奈良時代から江戸時代の長きに渡って神社の自然な姿でした。
去年は、天皇が譲位したこともあり、天皇や伊勢神宮に関心が集まった年でもありました。そんな中、天皇の皇統が神武から続く「万世一系」であるといった間違った言説も見られました。神武から第九代の開化までは神話のみの存在で、実在した可能性のある天皇は第十代の崇神以降です。神武から続く皇統というのは、「大洗磯前神社」という名前が明治の神仏分離によってつけられたものであるのと同様に、明治政府が恣意的に作り上げた話です。
明治政府は、日本各地で独自に信仰されていた神道的な自然信仰を「淫祠邪教」として廃し、また廃仏毀釈によって仏教を弾圧しましたが、本来の日本的な信仰は、その廃され弾圧されたもののほうにありました。日本古来の信仰は、自然現象そのものを神格化し、それを畏れ敬うことで自然との共生を図ろうとするもので、じつに多様性に満ちたものでした。さらに、他所から入ってきた仏教や道教などもそんな精神土壌の中の中にどんどん吸い込まれ、習合化して、日本独自のものに変質していきます。
一神教は、一個の絶対神の元で、人間は選ばれた存在として、自然を制圧する権限を与えられます。また人間以外の生き物は、神とその下僕たる人間の下位に置かれ、その生殺与奪は人間の当然の権利とされました。また、異教徒は邪神を崇拝する迷える民たちなので、その間違いを正すことは正しい神を信じるものにとっての使命であり、改信できない異教徒は討ち滅ぼさねばならないとされます。社会科学的に見ると、一神教は不寛容で独善的かつ好戦的なのが特徴です。
明治政府によって整備された国家神道は、天孫を先祖とする万世一系の天皇を「現人神」として戴き、国民はその下僕たる臣民として現人神に仕えるものとされました。簡単にいえばキリストを天皇に置き換えた「天皇教」を日本神話をバイブルとして作り上げたわけです。寛容で多様な多神教では、好戦的な一神教の世界と対峙するには弱すぎるので、日本も一神教世界に作り変えて、思想的にタフにしなければならないと考えたわけでした。
それは時代的な背景を考えれば、仕方のない選択だったのかもしれません。しかし、国家神道=天皇教を国教とした日本は、不寛容な国粋主義と好戦性をむき出しにして、暴走していく運命にありました。その末路を見れば、それが間違った選択だったことは明らかです。
「日本は、世界一長い歴史を誇る由緒正しい皇統を繋ぐ神の国である」という文句は、明治政府が唱え、自滅へと進んでいったお題目そのものです。日本は世界でも図抜けた歴史を誇る国でもないし、由緒正しい皇統を繋ぐ天皇をいただく素晴らしい国でもありません。そんなことを自慢するのではなく、自慢とすべきは、寛容さと多様性を持っていた神道的な自然観、自然信仰だと私は思います。そして、それがどのようなものだったかを、今だからこそ思い出す必要があると思うのです。
2019年の年の暮れから年明けにかけて、そんなことを考えていました。世界を見渡すと格差の拡大や環境破壊、それに軍拡化など、明るい未来を予想させるような兆候が見当たりません。だけれど、ここで諦めてしまえば、悪い方向へ向かう歯止めを失って、たちまち最悪の状況に陥ってしまうでしょう。そうならないためにも、過去を振り返って、間違いを正し、また未来へ繋がる叡智を見出す努力をしなければいけないと思います。
今回は、そんな思いからこの稿を起こしました。すでに前置きから本題に踏み込んでいますが、もう少し、日本の神道の歴史を考察してみたいと思います。
●淫祠邪教
私がフィールドワークで神社を調査するとき、最初に注目するのはそこに祀られている祭神です。客観的な資料で主祭神が古くから祀られてきたものと判断できればそれでいいのですが、客観的な証拠や傍証がなく、アマテラスやアメノミナカヌシやあるいは八幡神といった頻出する神が主祭神とされている場合は疑って掛かかるのです。それは、アマテラスやアメノミナカヌシといった天津神(アマツカミ=伊勢系神)は、天皇の祖神として明治以降の国家神道=天皇教の元に主祭神ととして据えられたものが多く、八幡神は鎌倉時代以降に武家の間で信仰が広まり、もともと祀られていた神に代わって主祭神にされたケースが多いからです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.180
2019年12月19日号
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◆今回の内容
○宝珠が表す神話の力
・ドラゴンボール
・宇治の宝蔵
・追記
◯お知らせ
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宝珠が表す神話の力
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神社にお参りに行って、境内を見て歩くと、灯籠に玉のようなものが彫り込まれていたり、あるいは神紋の中に描かれていたりするのをよく見かけます。見方によっては桃太郎の桃のようにも見えるこの玉は「宝珠」と呼ばれます。
毎年、3月2日に行われる「お水送り」の由来地である若狭姫神社の神紋は、波間に浮かぶ宝珠ですが、何も知らずに見ればドンブラコと流れてきた桃太郎の桃そのままなので、ここには桃太郎が祀られているのかと思ってしまいます。じつは、桃太郎の桃もその意味合いは宝珠と同じなので、これが桃に見えても完全な間違いではないのですが。
桃太郎は山の上のほうから流れてきた大きな桃の中から誕生しますが、この桃は、上流の桃の木から落ちたものではなく、異界から流れてきたもので、桃太郎が異界が秘めた尋常ではない能力を持っていることを暗示しています。道教では、異界に広がる楽園には、桃の花が咲き誇り、たわわに実が生る光景をイメージして『桃源郷』と呼びますが、これも桃の形が宝珠を連想させることに由来しているのでしょう。同様に、浦島太郎が龍宮城から持ち帰る玉手箱も、すでにその名前の中に異界との強い繋がりを示す「玉=珠」が含まれていて、強い霊力が秘められていることを暗示しています。
日本の天皇位を象徴し、それを保持することが天皇の権威の裏づけとされる三種の神器にも玉が含まれています。これもやはり異界との繋がりを象徴するものです。天叢雲剣もしくは草薙剣と呼ばれる神剣は、スサノオがヤマタノオロチを退治した際に、その尾から出てきたものをアマテラスに献上したものとされますが、ここには、単に異界からもたらされる物だけでなく、異界の者から奪い取ることによって力を得るという、神器(レガリア)に通底するモチーフが表れています。
今回は、そうした異界と繋がる神器、とくに宝珠について、その由来や機能を掘り下げながら、なぜ神話の重要な要素として宝珠が登場するのか考えたいと思います。
●ドラゴンボール
宝珠という言葉から、真っ先に龍を思い浮かべる人も多いでしょう。龍が描かれた絵のほとんどは、その顎下に宝珠を保持したり、鋭い鉤爪で宝珠を鷲づかみにしています。この宝珠は如意宝珠です。如意宝珠はその名のとおり、これを持つものに如意自在の力を授けてくれるとされます。龍王はこの宝珠を帯びることによって、畜生身の苦を逃れ、あらゆる神通力を得るのです。
漫画の「ドラゴンボール」は、どんな願いでも叶うという「ドラゴンボール=龍が保持する宝珠」を求めていく冒険物語です。作者の鳥山明は、『南総里見八犬伝』から想を得てこの漫画を描きましたが、原典である『南総里見八犬伝』も特別な力を持つ玉を保持する八犬士の冒険物語であり、異界の力を秘めた宝珠が重要な役割を果たします。
幸若舞の演目のひとつである『大職冠』にも、宝珠が持つ力とそれをめぐる龍と人間との戦いが詳しく描かれています。
大職冠とは大宝律令における最上位の官位で、史上、藤原鎌足ただ一人に与えられたものなので、「大職冠」といえば鎌足を指します。鎌足が創始となる藤原家は天皇家と密接に関わりながら、次第に融合して、中世以降、実質的な日本の支配一族となっていきます。この物語では、天皇家の三種の神器の玉と同様に、藤原家の権力の源泉も異界と繋がるエレメントとして由緒正しい「宝珠」にあるとされるのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.179
2019年12月5日号
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◆今回の内容
○呪いと救い
・稲荷と犬神
・呪いの名所
◯お知らせ
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呪いと救い
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「呪い(のろい)」というと、なにやら怨念じみた禍々しいことのようですが、これを「呪い(まじない)」と読み変えるとだいぶ印象が異なります。子供が軽い怪我をしたときに「痛いの痛いの飛んでけ」と言ったり、雷が鳴りだしたときに「遠くの桑原、遠くの桑原」と唱えるようなものを呪い(まじない)と呼びますが、これらも、その意味を考えてみると、傷の痛みを与えている神仏を祓ったり、雷神に対して遠くへ行けと念じる呪い(のろい)そのものなのです。
そんな視点で見ると、私たちの周囲には、呪い(のろい)がたくさんあることがわかります。
今、寺社を巡って御朱印を集めることがブームになっていますが、この御朱印もそうですし、護符も悪霊や悪鬼を呪い祓うものです。「棚上げ」という言葉がありますが、これも本来は呪いに関係した言葉でした。怨霊や邪気に対して、神棚に上げて、神として祀るから祟らないでほしいと念じて(呪って)、それから逃れることを指したものだったのです。年末に行う「煤払い」も、もとは「呪詛(すそ)祓い」と言い、生きて生活していれば、自然に溜まってしまう業=呪いを一年の締めくくりに精進潔斎して祓い落とすという意味でした。
今回は、こうした身近に溢れている呪いを見つめ、呪いとはなにかということを考えてみたいと思います。
●稲荷と犬神
先に棚上げについて触れましたが、怨霊や邪気を神祀りして神棚に上げることはじつは少なく、ほとんどの場合、神祀りして簡易的な神棚を作ったら、それは集落の外れや辻に置き去りにされました。私が幼い頃の田舎では、時々そんな打ち捨てられた小さな神棚を見かけました。好奇心いっぱいにそんなものに近づいていくと、祖母に厳しく制されたことを思い出します。
今では、そんな打ち捨てられた神棚などは見なくなりましたが、若宮様と呼ばれる小さな祠は、集落の外れや屋敷の角でしばしば見かけます。これも同様に神祀りした悪霊や怨霊を封じ込めたものです。小松和彦は『呪いと日本人』の中で、六部(りくぶ)殺しの名残としても若宮が祀られることが多かったと紹介しています。かつて、貧しい地方では、旅人や遊行の僧を家に泊めて、その金品を奪って殺すといったことがしばしばありました。殺した旅人や遊行僧が祟り、怨霊となったのが六部で、その六部を弔い、神上げして若宮として祀る例が多かったというのです。
若宮様と同じように、小さな稲荷を祀った祠もよく見かけます。こうした稲荷の多くは江戸時代に設けられたものですが、これは稲荷神社を勧請したものではなく、いわゆる「狐憑き」として取り憑いた狐の霊をお祓いした後に、それを閉じ込めるために設けた祠がほとんどです。若宮様と同じように屋敷の敷地の角にお稲荷様の祠が置かれていたりもしますが、これも同様です。上野寛永寺の境内には「お円稲荷」がありますが、これは、お円という娘に取り憑いた狐の霊を祀ったものです。
狐憑きのようなものは、古代、陰陽師が登場する以前に呪術師として活躍した呪禁師(じゅごんじ)たちが使ったとされる蠱毒(こどく)と呼ばれる呪いに由来します。蠱毒とは、動物霊を使役して人に呪いをかけるもので、蛇、犬、狐、トカゲ、カマキリ、ムカデ、イナゴなどの動物を何十匹もひとつの容器に閉じ込めて共食いをさせて、最後まで生き残ったものを使役神とした呪術の方法です。『本草綱目』には、生き残った動物に怨念を込めて殺し、それを焼いた灰を呪殺したい相手に飲ませれば、効果を発揮すると記されています。
また蠱毒は呪殺に用いられるだけでなく、これを使って秘術を行うことで、富を得ることができたとも伝えられています。横溝正史の小説で後に映画化された『犬神家の一族』がありますが、この犬神というのも、まさに蠱毒から連なるものです。昔の田舎では、犬神筋とか猿神筋、長縄(蛇)筋と呼ばれる家系がありました。いずれも富裕な家系ですが、その富の源泉が犬や猿、蛇などを神上げして利用した結果だとして、忌み嫌われもしたのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.178
2019年11月21日号
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◆今回の内容
○大地の営みと聖地
・フォッサマグナ
・大地の躍動を感じる何か
・プレート境界に並ぶ縄文遺跡
◯お知らせ
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大地の営みと聖地
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前回、八ヶ岳の西麓から南麓にかけて、縄文時代のストーンサークルが多く見られることに触れました。それらのストーンサークルは、いずれも八ヶ岳をいちばん重要なランドマークとしてとらえていますから、一種の「八ヶ岳信仰」を示しているようにも見えます。
一般的な山岳信仰は、山を自分たちの祖霊がいる場所であり、死んだらそこへ帰っていくと考えるものです。縄文時代にも葬送の儀式は見られますから、心霊の帰る場所としての八ヶ岳が意識されたこともあったかもしれません。しかし、縄文時代の山岳信仰といえば火山信仰のほうがポピュラーですから、八ヶ岳を火山として崇めていたと考えるのが自然な気がします。
八ヶ岳にはこんな神話が伝わっています。「昔、富士山の女神(浅間様)と八ヶ岳の男神(権現様)が高さを競って争った。阿弥陀如来が、この喧嘩の仲裁に入り、高さ比べをするために、両方の山の頂上に樋を渡して、その中央から水を流した。すると、水は富士山の方へ流れていった。これで、八ヶ岳のほうが高いことがわかったけれど、富士山は自分が負けた悔しさのあまり、八ヶ岳を蹴り飛ばし、そのせいで八ヶ岳は頭が割れて吹っ飛んで、八つの峰の山となった」。
この神話は、山体崩壊を伴う巨大な噴火で頂上部分が吹き飛ぶ様子を想像させます。地質学的には「古阿弥陀岳」と呼ばれる太古の八ヶ岳は、今のような峰を連ねる形ではなくて、富士山のような一つの峰の山で、標高は3400メートルあまりあったと推定されています。現在の富士山の標高は3776メートルですが、古阿弥陀岳と同じ地質年代の古富士山は標高2400メートルと推定されていますから、古阿弥陀岳のほうが1000メートルも高く、神話の内容に一致します。
古阿弥陀岳は現在の阿弥陀岳付近を火口として山体崩壊を伴う激しい噴火が起き、現在のような連峰型の八ヶ岳になりました。これはまさに巨大な何かが古阿弥陀岳を蹴り飛ばして頭が吹き飛んだような様相ですから、これも神話に符合します。
ところが、古阿弥陀岳のこの噴火は、約20万年前の出来事なのです。縄文時代どころか現生人類が登場する15万年以上前です。そんな時代のエポックを神話が語っているのはどうしてでしょう。地質学的に八ヶ岳の噴火史が解明されたのは昭和に入ってからのことで、この八ヶ岳創生の神話は、それ以前から伝えられてきました。ですから、八ヶ岳の生成史が解明されてから作られた新しい神話というわけでもないのです。
神話や伝説が、太古の地質学的なエポックを奇妙なほど正確に語る例は、伊豆の創世神話や琉球の創世神話などにも見られます。今回は、それがどうしてなのかについて試論を展開してみるつもりですが、その前に、もう一つのストーンサークルについて触れてみたいと思います。
八ヶ岳山麓だけでなく、富士山周辺や東京の西部にストーンサークルが多く見られることも前回触れましたが、八ヶ岳の北方、北アルプスの麓の大町市にも「上原(わっぱら)遺跡」と呼ばれる縄文時代前期(およそ5000年前)のストーンサークルがあるのです。
上原遺跡は北アルプスの東麓に位置します。そこから両側を山岳に挟まれた溝状の地形を南に下って来ると八ヶ岳山麓のストーンサークル群があり、さらにそのまま南下していくと、富士山麓から東京西部にストーンサークルが点在するという格好になっています。ストーンサークルだけでなく、一般的な縄文遺跡を見ても、この地域にかなり集中しているのがわかります。じつは、この分布は、ほぼフォッサマグナに合致しているのです。
●フォッサマグナ
「フォッサマグナ」という言葉は、地理で習ったはずですが、正確に理解している人はあまりいないと思います。それも当然で、フォッサマグナの成り立ちとその性質が明らかになったのは、ここ数年といってもいいくらい新しいのです。フォッサマグナは地質学的にとても珍しい地質構造で、世界中でここにしか見られないものです。地球深部の複雑なマントルの働きと、それに連動したプレートの動きに関係していて、日本列島の成り立ちそのものを決定づけるものでもあるのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.177
2019年11月7日号
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◆今回の内容
○ストーンサークルの秘密
・ストーンサークルと聖山と太陽
・ストーンサークルと神社
・ストーンサークルは通信装置?
・
◯お知らせ
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ストーンサークルの秘密
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ストーンサークルといえば、イギリスのストーンヘンジを思い浮かべますが、日本にもたくさんあることはあまり知られていません。とくに関東甲信から東北、北海道にかけては数多くのストーンサークル(日本では「環状列石」という呼び方が一般的ですが、本稿では世界共通のストーンサークルを使います)が存在します。
それらは、いずれも縄文時代の祭祀遺跡と考えられていて、二至二分の太陽の出没に合わせて正確に石が配置されていることから、縄文人が高度な測量技術を持っていたことがわかります。さらに、それらの規模の大きさから、高度な土木技術も合わせ持っていました。
ちなみに、日本の西のほうにはストーンサークルがほとんど見られませんが、これは弥生人やその後の渡来人が縄文時代の祭祀遺跡の上に新たな祭祀場を作り、その時にストーンサークルが破壊されたものだろうと考えられています。関東以北は、かなり後の時代まで縄文的な文化が生き残り、また自然が色濃く、都市化があまり進まなかったために多くが現存したのでしょう。
ストーンサークルは、日の出とともに活動を開始し日没とともにねぐらに戻る生活をしていた縄文人たちの身近にあって、日頃からストーンサークルの配石の間を太陽の出没が移動していくのを目にしていたでしょう。季節の節目である二至二分には祭りが行われ、日の移ろいを見やりながら祭りを心待ちにしていた者もいたでしょう。
私も各地でストーンサールに出会ううちに、縄文人たちのように日の移ろいを日常的に感じるために、身近にストーンサークルを置きたいと思うようになりました。といっても、大きなストーンサークルを設置するスペースもないですから、卓上サイズのミニストーンサークルでも作ろうかと考えていました。
最近、そんな構想を商品化するパートナーが見つかり、俄然、具体的な話になってきました。
太陽の出没方位は、緯度によって変わるだけでなく、周囲の地形によっても変わってきます。そこで、居住地における二至二分の太陽の出没方位をシミュレーションし、さらに他の要素も入れて、その人だけのパーソナルなストーンサークルを作れるキットにしようというわけです。
そのサンプルとして、今、私が住んでいる場所のシミュレーションを行いました。すると、ここは、冬至の日没が富士山頂ぴったり重なる場所だったことがわかりました。まさに灯台下暗しの典型です。自宅から富士山までは直線距離で180キロメートル以上あり、間には障害物もあるので、今では富士山を目視することはできません。しかし、縄文時代にこのあたりに住んでいた人たちは、遠くに特徴的な富士山の山影を認め、それが冬至の日没と重なる光景を見ていたことでしょう。そして、ストーンサークルを築いていたかもしれません。
そんなことを知った後では、自分が富士山をランドマークとするストーンサークルがあった場所に住んだことで、太古の土地の記憶に触れたのかもしれないとも思えてきます。だから、ストーンサークル熱が再燃するとともに、具体的な計画に結びついてきたのではないかと。来月の冬至には、自宅上空にドローンを飛ばして富士山への日没を確認しようとも思っています。
ということで、今回は、ストーンサークルに焦点を当ててみることにしました。
●ストーンサークルと聖山と太陽
私の自宅が冬至の日没と富士山が重なる位置にあるように、ほとんどのストーンサークルは、その地方でもっとも特徴的な山岳と二至二分の太陽の出没が重なる場所に置かれています。
地図上に私の自宅と富士山を結ぶラインを引くと、それは東京の多摩丘陵を横切ります。そこには、立川市の向郷遺跡、日野市の七ツ塚遺跡、八王子の捫田遺跡といったいずれもストーンサークルを擁する縄文遺跡が並んでいます。これらの遺跡からは、富士山が目視でき、いずれもその方向を意識した構造になっています。富士山の噴火史を辿ると、縄文時代後期に爆発的噴火を繰り返していましたから、これらの場所にストーンサークルを設置した縄文人たちは、当然、富士山を畏敬スべき聖山として意識したでしょう。噴煙を上げる富士山とその山頂に冬至の太陽が重なったときは、当然、盛大な祭祀が執り行われたでしょう(七ツ塚遺跡からのシミュレーションは、聖地学講座第177回「ストーンサークルと太陽信仰」図版資料=https://obtweb.typepad.jp/obt/2019/11/holy177data.html 図01-03参照)。
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図01
**私の自宅は富士山頂に冬至の太陽が沈む位置にあるが、そのラインを伸ばしていくと、立川の向郷遺跡、日野の日野宮神社(日奉氏の氏神社)、七ツ塚遺跡、八王子の捫田遺跡と繋がっていく。いずれの遺跡も縄文時代のストーンサークルを擁し、冬至に富士山頂に沈む夕日の方角を意識している**
図02、03
**日野の七ツ塚遺跡におけるシミュレーション**
図04(図版は『神と人との古代学』より)
図05(図版は『神と人との古代学』より)
図06,07
**青森市の南にある小牧野遺跡は、尾根上に造成して作られたストーンサークルで、冬至の朝日が八甲田山から昇るのが観測できる**
図08,09
**弘前市の大森勝山遺跡のストーンサークルから見た冬至の入日。仰角が正確に計算されている**
**図10-12は、阿久遺跡から見た太陽の移動。夏至の朝日から冬至の朝日までが八ヶ岳の連峰を往復する形になっている**
地図図版はいずれも『スーパー地形』を用いてシミュレーションしたものです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.176
2019年10月17日号
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◆今回の内容
○シャーマンとアルタード・ステーツ
・シャーマンとは何か
・どうやってシャーマンになるのか
・ダライ・ラマと天皇
・アルタード・ステーツに入る試み
◯お知らせ
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シャーマンとアルタード・ステーツ
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1979年に公開されたケン・ラッセル監督の映画『アルタード・ステーツ/未知への挑戦』は、主人公が幻覚剤とアイソレーションタンクを用いてアルタード・ステーツ(変性意識)に入り、そこで人類誕生の歴史を遡って、宇宙意識ともいえる根源的な「存在」との一体感を体験するという内容でした。これは、脳神経学者ジョン・C・リリーの実体験を元にしています。
リリーは、1960年代後半からLSDやペヨーテ、ケタミンといった幻覚剤を服用して、自らが開発したアイソレーションタンクに入り、人の意識がどのように変容するかを実験していました。その中で、映画でも描かれたような神秘的な体験をして、そこに人類が精神的に進化する大きな可能性を見出しました。
ところが、これが軍部や諜報機関によって洗脳の技術として応用されるようになったことに幻滅し、自らはこの研究から遠ざかります。その後、イルカとのコミュニケーションという分野に転身しますが、これもイルカを兵器として利用しようとする軍部に圧力を加えられたことから、途中で中止し、公の研究からは遠ざかってしまいました。その顛末は、『イルカの日』という映画で描かれています。余談ですがここで、ジョン・C・リリーの役を演じたのはジョージ・C・スコットでした。
リリーがアルタード・ステーツの研究に取り組んでいた頃には、ティモシー・リアリーやリチャード・アルパートといった心理学者たちも同じ研究に取り組んでいました。彼らがアルタード・ステーツの研究に惹かれたのは、この講座の第169回でも取り上げたヒッピームーヴメントを背景とした文化運動の中から、プリミティヴな文化や価値観に目を向けようという機運が高まり、シャーマニズムが脚光を浴びるようになったからでした。
それまでは、シャーマニズムといえばもっぱら宗教学が研究対象としていて、しかもメインストリームからは外れたアニミズムから一歩進化しただけの信仰形態としてとらえられていました。シャーマニズムは現代にも残っていますが、それはその社会の後進性を示すものだととらえられていました。
リリーたちは、シャーマニズムの文化的な位置づけではなく、シャーマニズムの本質ともいえるそのメカニズムと効果に焦点を当てました。シャーマンがトランス(忘我状態)に至ったり、シャーマンに頼る人がトランスに導かれたりするそのメカニズムとトランス状態で経験するものを明らかにしようとしたのです。トランス状態で経験するものこそアルタード・ステーツであり、それが人間の精神を進化させる可能性があると信じて。
今回は、21日のトークサロンに先立ち、トークサロンで取り上げるシャーマニズムとアルタード・ステーツについて掘り下げてみようと思います。
●シャーマンとは何か
リリーたちの研究よりも早くシャーマニズムに興味を抱き、自らシャーマンの弟子となってその奥義を極めようとした人類学者がいます。彼の名は、カルロス・カスタネダ。UCLAで人類学を修め、フィールドワークに赴いたメキシコの片田舎で、ヤキ・インディアンのシャーマンであるドンファンの弟子となり、自らシャーマンとなる修行を重ねていきます。その様子を記した『ドンファンの教え』という著作は大ヒット作となり、一躍、世界中でシャーマニズムが注目を浴びていくことになります。
ところが、カスタネダはメディアなどに登場することがなく、常に一方通行の発信だったため、彼の著作は、ドンファンという人物をはじめすべてが創作ではないかとも考えられました。しかし、その内容はとても具体的で、意識変容の様子の描写もリアルで、たとえ創作だとしても、そこには多くの実体験が含まれていることは確かでした。
カスタネダの最初の著作からちょうど40年後、クストファー・マクドゥーガルが『Born to Run』を発表します。メキシコ北部に暮らすタラウマラ族の生活と文化を紹介したドキュメンタリーともいえるこの作品に登場するグルは、カスタネダが著したドンファンに極似していました。ヤキ族はタラウマラ族と非常に近い種族でしたから、図らずも、マクドゥーガルはカスタネダの著作の信憑性を別な形で証明することとなりました。
そもそもシャーマンとは何でしょうか。
その語源は、ツングース語で呪術師を意味する「Saman」に由来します。ツングースのシャーマンはベニテングタケを擦り潰してそのエキスを飲み、手にした太鼓を激しく鳴らしてトランス状態に入ります。そして、狩猟の獲物の動向を予知したり、悪霊を払って病気の治療をしたり、様々な呪術を行います。さらに、祭祀を取り仕切り、そこで参加者にもベニテングタケのエキスを飲ませてトランス状態に誘導して、自らが進むべきビジョンを見させたりもします。
神官や僧侶といった宗教職能者も、霊界や霊的存在といったものに関わる専門家ですが、こうした職能者は、自らが霊界と交通したり、霊的存在と直に接触するわけではなく、あくまでも儀礼的にそういったものと接触するだけです。僧侶は儀礼的に死霊を弔い、冥府に導いて成仏させますが、冥府で死霊がきちんと成仏しているか、遺族や縁者にどんな気持ちを抱いているかを具体的に知ることはできません。神官は、神々に祈りを捧げることはしても、それを神々がどのように受け止め、どんな反応をするかを直接知ることはできません。
これに対して、シャーマンはこの世と霊界を自由に行き来し、霊的存在と直に接して、その意思を聞き取ることができます。もちろん、それはあくまでも観念的なものであって、客観的に説明できるものではあませんが、シャーマンがそうした職能者であると認識されていることに、シャーマンの社会的存在意義があります。
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2019/10/17 カテゴリー: 08.スーパーネイチャー, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.175
2019年10月3日号
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◆今回の内容
○聖なるものの結びつき
・古代の動物神
・様々な宗教に残るゾロアスター教の記憶
◯お知らせ
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聖なるものの結びつき
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前回は、聖獣として登場する牛(丑)の意味について、それが元々月神の象徴であり、それは西洋でも東洋でも、共通のイメージでとらえられていることを紹介しました。
今回は、牛に限らず、広く世界で同様のイメージでとらえられている動物神を見渡し、さらに、各地の神話の中にも共通するイメージをピックアップして、宗教と信仰の繋がりを明らかにしたいと思います。
●古代の動物神
前回、古代メソポタミアでは、「シン」と呼ばれる月神が最高神であり、その姿は牡牛として表されたと紹介しました。自然信仰における神の序列では、通例は太陽神が最高神に位置づけられます。ところが、古代メソポタミアでは月神が最高神とされ、太陽神はそれを補佐する神に位置づけられていました。
古代メソポタミアを構成したシュメル社会では、太陰暦が用いられていました。月の満ち欠けで一ヶ月を測り、新月の前後に見られる三日月が牡牛の角と同じ形であることから、牡牛を月神のシンボルとしたのでした。
古代メソポタミアは、すでに農業を基盤とする社会でしたから、種まきや刈り入れの時期が季節と一致していないと不都合が生じます。太陰暦のままでは、暦と実際の季節がどんどんズレていってしまいますから、農事暦としては使えません。そこで、このズレを補正するために、閏月を挿入する太陰太陽暦が用いられるようになりました。最高神である月神(太陰暦)を太陽神(太陽暦)が補佐するという図式がここに生まれ、それが信仰にもそのまま持ち込まれたのです。
また牡牛は天候神アダドの随獣としても描かれていることから、降雨や雷が農作物の豊作をもたらす恵みの神の使いとしてもイメージされていたと考えられます。
紀元前7500年前まで遡ると推定されているトルコのチャタル・ヒュユク遺跡では、大規模な村落とともに、牡牛の頭部を祀った祠やバッファローのようなたくましい牡牛が描かれた壁画が発見されています。それらは、男性がペニスを屹立させた絵とともにあることから、力と豊穣を象徴するものであることがわかります。
さらに、チャタル・ヒュユク遺跡からは、豊満な肉体の女神像も見つかっています。それは地母神を象ったとされる旧石器時代のヴィレンドルフのヴィーナスや日本の女性を象った土偶とそっくりで、やはり地母神を表していることが明らかです。
この女神像はとてもユニークで、他の地母神像と違って立像ではなく、椅子に腰掛けています。そして、その肘掛けの部分にはライオンと思われるネコ科の動物の頭部が象られています。豊満な肉体をゆったりと椅子に沈めて、長い両手をライオンの頭に載せているのです。
この像は穀物倉と推定される建物の中で見つかりました。古代オリエント世界では、ネコ科の動物の鳴き声は雷鳴を連想させ、雷は雨をもたらすことから農作物の豊作につながると信じられていました。つまり、地母神に対して豊作を祈願するという意味が明確に見て取れます。
豊作祈願といえば、日本では稲荷神が思い浮かびます。稲荷神は眷属として狐を従えますが、狐は田畑を荒らす獣を襲うことから眷属として祀られるようになったとされています。さらに狐は性愛の象徴ともされます。農作物の豊穣を祈るということは、同時に子孫繁栄への祈りも含まれているので、単純な子孫繁栄の象徴なら違和感はないのですが、性愛でもとくに淫靡なイメージが結びつけられているのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.174
2019年9月19日号
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◆今回の内容
○牛(丑)とは何か
・聖なる牛
・祟り神としての牛
・28という神秘数
◯お知らせ
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牛(丑)とは何か
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先週末の14日は、都内のセミナールームで、京都の結界と近畿の五芒星の話をしました。これは、6月の夏至の日に京都で行ったセミナーと同内容で、東京でも開催してほしいという要望に答えたものでした。
京都といえば結界のメッカのようなところですし、これと近畿を包むように存在する五芒星の結界との結びつきは、歴史的にも深いものがあって、一回ではなかなか説明しきれません。それでも平安遷都の経緯と五芒星との符号や、怨霊封じ込めの装置としての洛北の結界などは、他ではあまり取り上げられない…着目されていない…視点なので、参加された方々は、斬新に感じられたようです。
このセミナーの最後のほうで、面白い質問をいただきました。「京都は、牛がよく登場しますけど、牛と結界、あるいは牛と聖地とは何か関係があるのですか」と。
京都=平安京には確かに牛がよく登場します。牛頭天王=スサノオの怒りを鎮めるために行われる祇園祭、これと対を成すように行われるのが葵祭ですが、この葵祭を主催する上賀茂神社の神紋「二葉葵」は牛の角を模式化したのが初めといわれています。貴船神社の祭神は、丑の年の丑の月の丑の日の丑の刻に降臨したと伝えられ、かつて貴船神社は丑の刻参りが正式な参拝方法とされていました…それがなぜか、呪いのほうの丑の刻参りで有名になってしまいましたが。さらには、平安貴族たちは牛車に乗って京の街を静々と移動していました。そして、鞍馬寺に預けられた源義経の幼名は牛若丸…。
何故、京都=平安京には、牛がよく登場するのでしょう? 質問をいただいたときには、時間も残り少なく、「牛は、世界各地の宗教や神話などで生命力や再生を象徴する『聖なる動物』と考えられていて、それは日本も例外ではないんです。とくに陰陽道が色濃い平安京では目立つのです」としか答えられませんでした。
そもそも、どうして世界に共通して、聖なる動物として牛を崇める傾向があるのでしょうか。丑年生まれの私としては(笑)、中途半端にできない問題ですので、この場で続きの解説をしたいと思います。
●聖なる牛
神話学者のジョーゼフ・キャンベルは、『神話の生成』という論文(*下記の参考文献に収録)の中で、ネイティヴアメリカンのスー族のメディスンマン(シャーマン)であるブラックエルクが語った話として、バッファローが神聖視される理由を説明しています。
「バッファローには肋骨が28本あります。そのため、バッファロー自体が月を象徴し、さらには宇宙を象徴していると考えられたのです。月は28日周期で満ち欠けを繰り返します。スー族にとってバッファローは貴重な食料ですが、その群れは定期的に現れました。28本の肋骨という刻印は、月の化身の意味であり、だから再生してくるのです」
また、バッファローの猛々しさの源泉は宇宙の原理に通じるものであるとも考えられました。
ラテン文化圏で盛んな闘牛では、闘牛場が街の中心に設けられましたが、それも、牛のたくましい生命力と再生の力がそこから溢れ出し、街に全体に行き渡ると考えたからでした。
エナジードリンクの「レッドブル」は、今や先鋭的なスポーツの冠スポンサーとしてそのロゴを見ない日はないくらいで、登場して僅かな間にエナジードリンクの代名詞として認知されましたが、これも、古来から持たれていた牛の霊力のイメージをうまく取り入れたものといえるでしょう。エナジードリンクの力と再生を喚起するイメージとして、これに取って代わるものはなかなか見つかりそうもありません。
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先週の土曜日は、高松でのトークサロンとフィールドワークツアーが開催された。
四国八十八ヶ所第83番霊場一宮寺で、レイラインに関する簡単なレクチャーと、周辺の聖地、とくに歴代高松藩主の菩提寺である仏生山法然寺を中心に、その構造や浄土宗ならではの彼岸を意識した配置について解説した。そして、フィールドワークツアーは、四国発の世界ブランドバイクであるタイレルの最新モデルに跨って、トークサロンで解説したポイントを巡り、スマホのコンパスや他のアプリを使って、実際に検証した。
これから彼岸の中日(秋分)にかけて、法然寺からは、参道の真っ直ぐ先から登ってくる太陽を拝むことができる。さらには、眼前に聳える日山の頂上から指す朝日も、この数日拝することができる。また、反対に日山のほうから拝めば、夕日は仏生山の頂上に沈んでいく。
春分の日前後も同じ光景が見られるが、これは二分(春分と秋分)が昼と夜の長さが同じになる日で、古代から、この日はあの世とこの世が繋がる日と考えられたからだった。
こうした構造は、拙著『レイラインハンター』でも取り上げた「ご来光の道」とのように、日本列島を横断する長大なものも、さらにローカルなものもたくさんある。
「お彼岸」とは文字通り彼岸=あの世と繋がる日であり、この日、「日想観」といって真西に沈む太陽拝んで、先祖と交信するといった風習も、大阪の四天王寺をはじめ、各地に残っている。
秋分以降は夜のほうが長くなり、古代の人間は、これから彼岸の力が増していくと考えた。秋の夜長には、そんなことを意識しながら、祖先の歴史に想いを馳せてみるのもいいかもしれない。
次回の「四国レイライン・トークサロン&フィールドワークツアー」は冬至前日の12月21日に、空海の出生地である善通寺を起点に、冬至にしか見られない景色を拝み、金毘羅山なども巡る予定。
**問い合わせ・詳細は下記へ**
㈱四国遍路 https://shikokuhenro.co.jp
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.173
2019年9月5日号
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◆今回の内容
○聖地と観光
・「観光」の意味
・観光と観音
◯お知らせ
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聖地と観光
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8月31日と9月1日の両日、福島県いわき市にある閼伽井嶽薬師・常福寺の例大祭に参列してきました。
31日は、聖地を紹介するプロモーションビデオの完成披露の講演がいわき市内であり、それを終えてから、閼伽井嶽山頂近くにある常福寺まで移動しました。常福寺では、春分と秋分に、朝日が参道を真っ直ぐ進んで薬師堂に差し込む光景が見られます。この二分のご来光を拝むツアーでは何度もご厄介になっていて、いわば馴染みの場所なのですが、夜に訪れるとまったく雰囲気が異なります。
早朝の境内は、山寺らしく爽やかな空気に賑やかな鳥の声が響き渡り、真っ先に一日が始まる活気が山全体から発散されるのを感じます。いっぽう、宵の境内はしっとりとした空気に包まれ、闇が重く横たわっているように感じられます。その闇の中、参道から急な階段から薬師堂まで、さらに階段の途中から迂回する観音巡りの参道にも万燈会の燈明が並べられています。それは、闇を照らす明かりというよりも、闇に溶け込み、闇の一部となって、白日の下では感じられない気配を炎の揺らめきで伝えている装置のように見えます。常福寺は、海からここまで龍燈という陰火が昇ってきたという伝説が残る場所でもありますが、ふと、この境内に並ぶ燈明は龍燈そのものなのではないかという思いが過ります。
両側に燈明が揺れる階段を登っていくと、なぜか登っているのではなく深い闇の底、冥界へと降りていっているような逆転した感覚に囚われてきます。何度か立ち止まって階段の上を見上げても、闇へ降りていく感覚が強くなってきます。
薬師堂まで登り詰め、そこで、自分が間違いなく現実の風景の中に足を置いていることを確かめて、ホッとしました。しばらく待っていると、手持ち鐘の透き通る音とともに、住職の一行が登ってきました。薬師堂の前に並んだ一行が般若心経を唱和し始めると、聲明が闇に沈んだ森の中で木霊し、参道に並ぶ燈明がそれに靡くように揺れます。
こうした深い森の中に響き渡る聲明や祝詞は、自然そのものに何かの作用を及ぼして、場の空気を一変させるような気がするものですが、閼伽井嶽の森に響き渡る般若心経は、あたりを秋の気配に切り替えたようでした。
住職の一行が降りていくと、入れ替わりに、じゃんがら念仏踊りの連が鉦と太鼓を鳴らしながら参道を登ってきます。お盆にこの世に訪れた先祖を迎えられたことを寿ぎ、秋風が吹き始めた今、あの世に去っていく先祖を送る、そんな詠歌とともに打ち鳴らされる太鼓と鉦は、どこか物悲しく、季節の切り替わった夜にしみこんでゆきました。
翌9月1日は、柴灯護摩の儀式に参列しました。山伏が境内に参集し、盛大に護摩が焚かれます。渦を巻いて閼伽井嶽の山全体を包み込んでいく浄化の煙、そして、その後に立ち上る破魔の力を漲らせる昇龍のごとき紅蓮の炎。東は彼方の海まで開け、背後には閼伽井嶽を前衛とした阿武隈の山並みが続いていくこの場所は、龍燈が海から遡上してくるだけでなく、海から吹き寄せる風が谷に集中して、一気に上昇気流となって吹き上げる、常に見えない昇竜がここにはいるのです。
護摩の火はあっという間に燃え尽き、この祭儀を締めくくる火渡りの儀となりました。これに私も参加させていただきました。この数年、いわきで行ってきた聖地調査を思い出しながら、しっかりと熾火を踏みしめ、最後に、いつもお世話になっている上野宅正住職からお祓いしていただくと、また、新たな気持で聖地を探索していこうという意欲が湧いてきました。
そして、火を渡りきった瞬間、この二日間の体験がフラッシュバックして、「聖地と観光」というテーマが思い浮かんできました。
常福寺は、二分(春分と秋分)の太陽という光、龍燈という光、さらに万燈の光、柴灯護摩の紅蓮の炎という光もある。ここは、「観光」という言葉をまさに体現する場所であり、そもそも聖地には「光」の属性が本来的に備わっていることに気づいたのです。
●「観光」の意味
「観光」という言葉は、とても身近な言葉として使われていますが、その本来の意味をご存知でしょうか。
観光という言葉は、易経の「国の光を観る、もって王に賓たるに利(さと)し」という記述に由来します。国王が国見の丘に立って、国の威光を観察するという意味です。
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今月は講演やセミナーが集中しています。
今週末は高松でレイラインを辿るサイクリングツアー。その後、毎週、セミナー、講座が開かれます。ご都合のいい場所、日時を選んでお越しください。
●「近畿の五芒星と京都の結界の秘密」 2019年9月14日
6月22日の夏至の日に京都で開催されたセミナーにご好評いただき、東京でも同内容のセミナーを開催します。
奈良の仏教勢力の伸長を避け、独自の親政を打ち立てようとした桓武天皇は、長岡京という都を創建しましたが、打ち続く不幸や天変地異に恐れ をなし、これを怨霊の祟りとして10年で長岡京を捨て、新たに平安京を創建します。
そこは怨霊封じの結界を張り巡らせた「屈指の風水都市」であり、安倍晴明に代表される陰陽師たちの活躍する場所でした。
桓武天皇がおそれた怨霊とは? 平安京=京都の結界とはどんなものなのか? 近畿に横たわる巨大な五芒星の結界との関連も紐解きながら解説していきます。
**お申込み、詳細、お問い合わせ**
トータルヘルスデザインセミナー
http://seminar.thd-web.jp/e24589.html
●内田一成トークセッション 9月24日
聖地と聖地を結ぶ不思議なネットワーク"レイライン"を長年追い続けてきたレイラインハンター内田一成が、神社仏閣や遺跡などの「聖地」に秘められた意味を解き明かす手法をご紹介します。
近年、レイラインという言葉がスピリチュアルな意味合いで使われているケースが目立ちますが、レイラインとは聖地に関わるアライメント(構造や配置)のことであり、科学的に測量や分析が可能なものです。
その第一人者である内田一成が、デジタルマップや様々なデータを駆使して聖地を分析する方法としてのレイラインハンティングという手法とともに、豊富な事例(日本神話所縁の場所を結ぶと現れる巨大な近畿の五芒星、江戸や京都の緻密な結界、おびただしい数の聖地を結びながら日本を横断する「ご来光の道」等々)をご紹介します。
誰でも客観的に観測できるレイラインハンティングの手法を用いることで、聖地に秘められた歴史や神話に込められた意味が、はっきりと浮かび上がってきます。
フィールドワークの中で経験したこぼれ話などもご紹介します。また、デジタルマップを用いて、参加された方々との検証セッションも行う予定です。
**詳細・お申込みは、下記フェイスブックページにて**
https://www.facebook.com/events/653104691857213/
●朝日カルチャーセンター湘南教室 シリーズ聖地を巡る・考える
「鹿島神宮と富士山を結ぶレイライン」 9月28日
14:00~の回では、鹿島神宮から富士山のつながりを解説します。
東洋思想の中でも、とくに風水や陰陽道では「結界」という考え方を重視し、都市計画などでこれを応用しました。一方、西洋では太陽信仰を ベースにした「レイライン」という聖地を結ぶ一種の結界があることが知られています。結界という理論はとても難解なものですが、レイラインと いう観点から見ると、とても明快に理解できます。
この講座では、日本における代表的な結界取り上げ、レイライン的な観点から結界の意味と法則を解き明かしてみたいと思います。
**詳細・お申し込み**
https://www.asahiculture.jp/course/shonan/c2e6c5bf-b6cc-771f-dd8a-5cc94081239f
●朝日カルチャーセンター湘南教室 シリーズ聖地を巡る・考える
「江戸の結界と東照宮ライン」 9月28日
15:50~の②では、江戸から日光東照宮へのつながりを解説します。
江戸は、結界という考え方が随所に取り入れられて都市計画が行われました。その基本は、江戸(東京)を北東から南西に貫くレイラインであ り、これに江戸幕府を開いた徳川家康を東照大権現として守り神に据えることで、江戸という都市と徳川家の繁栄が祈願されました。
この講座では、今でも残る江戸の結界と家康を神として祀った東照宮の構造を対照しながら、結界という考え方の深層を明らかにしていきたいと 思います。
**詳細・お申し込み**
https://www.asahiculture.jp/course/shonan/a87817a7-cb6b-abbd-5a9e-5cc9456207c9
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.172
2019年8月15日号
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◆今回の内容
○お盆を契機に生命や意識に思いを馳せる
・盂蘭盆
・前世、輪廻、解脱、DNA
・量子脳という発想
◯お知らせ
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お盆を契機に生命や意識に思いを馳せる
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これを書いている今、大型の台風10号が豊後水道から九州、四国に上陸しようとしています。東日本にまで強い湿気を運んできているこの台風は、速度も遅く、今まで考えられなかったような大雨が懸念されています。年々、こうした異常気象のケースが増え、さらにそれが極端になっていく中で、それを招いたのが私たち人間による文明化と乱開発による温暖化だということを心して、様々なシステムを変えていかなければならないと痛感させられます。
台風10号は、ちょうどお盆の期間に当たり、帰省やUターンラッシュも重なって、大混乱が予想されています。かつてのお盆を思い返してみると、それは夏の終りを告げるものでした。
太平洋に面した私の故郷では、昔は、夏休みに入ると、子どもたちは喜び勇んで海に行き、へとへとになるまで水遊びをしていました。夏の間に二度も三度も日焼けで皮膚が剥け、真っ黒を通り越してコガネムシのように、光の当たり方によって七色に輝くような肌色になって、髪も赤茶けて、まるでアフリカの荒野を駆け回っている裸族の子供のようでした。
月遅れのお盆の入りには、地元では三角波と呼ぶ土用波が立つようになり、曳き波にさらわれやすくなるのと、毒を持ったクラゲが多くなるので、海から足が遠のきます。その頃になって、ようやく溜まった宿題に手をつけなければと、急に現実を思い出して焦りはじめます。
朝から遊びに飛び出していくこともなく、宿題のドリルと向き合ってもやる気がおきなくて鉛筆を咥えていると、お盆の飾り付けの手伝いを祖母に言いつけられます。野菜で先祖の魂が乗る馬を作り、提灯に火を入れて、迎え火を焚き、先祖を迎えに墓参りに行きます。お盆の間は、一年で一番、家の中がにぎやかになります。親戚が一同に集まり、従兄弟たちと遊んでいるうちに、やがてお盆も過ぎていきます。みんなが帰り、潮が引くように静かになって、迎え火をしたときと同じように祖母と二人で送り火をすると、空気はもう完全に秋に。夜は秋虫の鳴き声が響き、夏を懐かしむまもなく新学期が始まる。
高校を卒業してからずっと都会暮らしをしている間、そんな夏の機微というか風情をすっかり忘れていました。今年は、4月に義理の弟がなくなり、私の妹が墓所を整えたり、新盆を迎える準備などをしているのを傍らで見ていて、昔のお盆の情景を懐かしく思い出していました。
昔集まっていた伯父や伯母、従兄弟の何人かは鬼籍に入り、お盆に集まる顔ぶれは変わりました。でも、今度は甥や姪がいて、縁が繋がった義弟の兄弟も訪ねてくる。あらたな顔ぶれで、「家」は受け継がれていきます。一人で生きているようで、じつは受け継がれて来た命と縁を繋いで、人は生きているということをお盆のおかげで実感させられます。
そんなことから、この数日は、お盆の意味や輪廻などについて考えていたのでした。
●盂蘭盆
私たちが「お盆」と呼んでいる行事は、正式には「盂蘭盆(うらぼん)」です。旧暦7月15日を中心に行われる先祖供養の仏事で、盂蘭盆とは梵語で倒懸(さかさづり)になっている死者を救うという意味です。
釈迦の弟子に目蓮(もくれん)という人がいました。彼の母親が亡くなった後、心眼によってその死後の様子を覗うと、哀れにも母は餓鬼道に落ちて、逆さ吊りにされた挙げ句、非情な責め苦に苛まれていました。目蓮は、これをなんとか救いたいと、釈迦に相談します。すると、釈迦は、目蓮一人の力ではどうすることも出来ないから、7月15日に衆僧を集めて供養し、その功徳で母を餓鬼道から救うように命じました。それが、盂蘭盆の起源と伝えられています。
いっぽう道教では、旧暦の7月15日は十五夜であり、一年の半分が経過する日であることから、この日を「中元」と呼び、半年の贖罪とともに神を崇め、先祖を祀る日としてきました。中元には、庭で火を焚き、神に祈り、近隣の人が集まって持ち寄った供物などを交換して宴を開きました。ちなみに、道教では旧暦の正月15日を上元、旧暦の10月15日を下元として先祖の霊を祀る行事が行われます。
日本のお盆は、宗教的な意味合いとしては仏教の盂蘭盆であり、行事の形態は道教の中元に近いものになっています。また、もともと夏から秋に変わる節目に行われていた祖霊祭の要素も含まれていて、かなりハイブリッドな習俗といえます。極東の日本は、宗教や様々な文化の終着点ですから、こうしたハイブリッドはお家芸ともいえます。
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2019/08/15 カテゴリー: 02.ライフスタイル, 09.生命, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.171
2019年8月1日号
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◆今回の内容
○体感するということ、オートバイの話など
・峠を越えると空気感が変わる
・感覚・意識が拡張される瞬間
◯お知らせ
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体感するということ、オートバイの話など
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これを書いている今は7月29日の夜ですが、つい先ほど、関東地方も梅雨明けが宣言されました。例年より10日遅く、昨年と比べるとじつに50日も遅い梅雨明けでした。
例年ならば、太平洋高気圧が張り出してきて、梅雨前線を北へ押し上げることで梅雨明けになるのですが、今年は、日本の南海上に発生した台風「ナーリー」が紀伊半島に上陸して、そのまま中部を通過して関東に抜け、梅雨前線を消滅させる形となりました。日本近海で台風が発生するのも異例なら、そのコースも異例でした。いっぽう、ヨーロッパではでは、観測史上初という45℃を越す熱波に見舞われています。
現代の気象は、今まで経験したことない推移を示し、まったく予測がつかなくなってしまいました。たしかに、気象衛星や超高速コンピュータのシミュレーション技術などは、昔よりもはるかに発達しましたが、まるでそれを嘲笑するかのように、とんでもないところで台風が発生したり、迷走したりします。今回の台風「ナーリー」も、まさにその典型のようなものでした。
そのナーリーがまさに紀伊半島に上陸しようという時、私は北陸をオートバイで走っていました。数日前に自宅がある茨城県から出発して、長野県の諏訪、岐阜県の高山と巡り、富山に抜けて、そのまま能登半島へ足を伸ばそうと考えていたのです。台風は、太平洋岸をかすめて東に逸れると予想されていたので、進路がそのままなら台風の影響は受けないはずでした。ところが、台風は東に逸れずに北上してきたので、直撃が免れそうにありません。
これはもう、予報などあてにできないと判断して、自分の観天望気の経験と勘に頼りながら、なんとか台風を避けて進んでいくことにしました。富山湾に面した海岸から対岸の能登半島を眺めて、その山並みの濃さの変化を気にかけ、さらに、空全体を見渡して、雲の種類とその動き、そして空気の湿度や微かな匂いなど、五感を総動員して、関東へ帰還するためのルートとタイミングを判断しながら走りはじめました。
結局、台風を取り巻く雨雲塊の端をかすめるようにして帰ってきました。局地的にパラパラと小雨に降られることはありましたが、懸念していた雷雨などには遭わず、レインウェアを着ることもありませんでした。
不思議なもので、オートバイに乗っていると、予報よりも自分の勘を信じたほうが雨や嵐に遭わずに済むことがよくあります。それは、全身を外気に晒す乗り物だから、環境の変化にとても敏感になることはもちろん、五感を総動員しつつ、また危険をなるべく早く察知しようという意識が強力に働くことで、感覚や意識が通常の状態よりも大きく拡張されるためであるように思えます。
聖地を巡っていていつも思うのは、聖地があるその場所が、昔の人にとっては、あからさまに他とは異なる「何か」を感じさせる場所だったのだろうということです。また、彼らは今の私たちよりも、ずっと感覚が鋭敏で、他と異なる性質をもった土地を嗅ぎ分ける能力に長けていたのだろうと。さらにそれは、オートバイ乗りとしての私の体感に、とても近いのではないかと思うのです。
●峠を越えると空気感が変わる
峠に向かって登っていけば、高度を上げるに従って涼しくなっていくし、乾いた里の匂いが薄れていって、代わりに潤いのある緑の匂いが強くなっていきます。そして、峠では、里の匂いは感じられなくなり、自然の香りが濃厚になります。昔、里人は、峠を越えることは一つの冒険で、峠では魔に出くわすことが多いから、足早に通り過ぎたといいます。以前、山の民の話でも書きましたが、山の民は山の稜線を辿っているので、峠は里人と山の民が遭遇する場所でした。里人は、稜線を獣のように駆け抜ける山の民を目撃して、人ではないと恐れたのでした。
岐阜県と福井県を分ける温見峠は、泉鏡花がここで『高野聖』の発想を得たところとして知られています。どちら側の里からも20km以上も離れ、鏡花が訪れた往時を偲ばせる場所です。今でも、この峠を越えていく車はほとんどなく、峠に達して、オートバイのエンジンを切ると、途端に、高野聖のように物の怪の使いである獣たちに取り囲まれそうな不安に襲われます。そんなとき、鏡花がここで抱いた気分や、昔の里人たちの気持ちが自分ごとのように蘇ってきます。
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2019/08/02 カテゴリー: 02.ライフスタイル, 06.ツーリズム, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.170
2019年7月18日号
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◆今回の内容
○流刑地と聖地
・讃岐と花崗岩
・能楽と佐渡
・重力異常と伊豆
◯お知らせ
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流刑地と聖地
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今年の夏は雨が多くて、憂鬱な日が続いていますね。
この20年あまり、私は昭文社が発行している「ツーリングマップル」というライダー向け情報マップの中部北陸版を担当しています。この取材が、毎年6月から8月にかけてあります。
この数年は、オートバイで走っていると、酷暑で命の危険を感じるくらいだったのが、今年は、一転して雨続きの冷夏で、凍えながら走っています。酷暑も異常なら、この冷夏も異常です。日本とは逆に今年のヨーロッパは異常な熱波に襲われていますし、気象の変化や偏在が極端になっていることを如実に感じます。
過去にも、極端な気象の変化はありましたが、それは地球気象に大きな影響を与えるほどの火山の噴火やあるいは隕石の衝突といったトピックが引き金になることがほとんどでした。ですが、今の極端な気象現象はそうした特別なトピックによるものではなく、知らぬ間に潮が満ちるように、じわりじわりと進んできた温暖化が原因です。だからこそ、余計に不気味でもあります。
エアコンの効いた部屋で暮らし、電車や車で移動していると、そんな変化にも鈍感になってしまいますが、外気に身を晒す仕事をしている人やアウトドアアクティビティを楽しんでいる人は、異常さを体感しているはずです。
本来、人間の「体感」はとてもセンシティヴで、自然環境の変化を察知する能力が高いはずなのです。そんな感覚をみんなが取り戻せば、切迫している地球環境問題をよりリアルに意識し、悪化を食い止めようとするムーヴメントもより広がっていくだろうと思うのですが。政策決定者たちが、快適な環境に身を置いている限り、地球環境の悪化は他人事であり続けて、気がついたときには手遅れということになりそうな気がします(すでに温暖化は食い止められないという見解もあります)。
私が聖地に興味を持ち、精力的にフィールドワークを続けているのは、一つには、聖地が人と自然とを取り結ぶ場であるからです。聖地に祀られた「神」は、その場所の自然の特性を端的に表すイメージです。ただ自然を大切にしようと言っても、その思いは容易には人に伝わりませんが、自然を神という超越的な存在に置き換えることで、神を敬い、その神が宿る土地を大切にしようと言えば、伝わりやすくなります。聖地は、神のような超自然的イメージを媒介として、自然と人が共生していくことを促す装置なのです。そんな装置としての聖地の意図と構造、そして機能を理解すれば、地球環境問題と聖地を有機的に結びつけることができるのではないかと思うのです。
装置としての聖地という観点で見ると、意外な場所がじつは聖地としての機能を持っていることがわかります。今回取り上げる流刑地も、まさにそんな場所です。聖地と流刑地というと、イメージとしては正反対のような印象がありますが、かつて流刑地とされた場所をみると、他の場所よりも寺社が密集しているケースが多く、また、古い伝統を受け継ぎ、古来の文化を色濃く残している場所が多いのです。
また、今は人気の観光地となり、多くの人が訪ねたい場所に挙げている例も多くあります。それは、かつての流刑地が、他の場所とは明らかに異なる、人の感覚を刺激する場所だからです。
●讃岐と花崗岩
四国は代表的な流刑地の一つです。とくに、讃岐は崇徳上皇の流刑で有名です。第161回「御霊信仰」でも取り上げましたが、崇徳上皇は「日本三大怨霊」に数えられるほど朝廷に恐れられました。単純に考えれば、朝廷に仇なすと考えられれば、絶海の孤島に一人置き去りにして、あとは忘れ去ってしまえばいいはずですが、讃岐はそんな場所ではありません。都からさほど遠くもなく、古代から人も多く住み、文化的にも比較的進んだ土地でした。
讃岐は、空海の出身地でもあり、彼が幼い頃から山岳で修行したことでも知られるように、古代から山岳修験のメッカでした。崇徳帝が配流された讃岐府中も五色台という山岳修験の山があり、崇徳帝の御陵はその一角に設けられています。
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**関連記事**
第07回「磁場・活断層と聖地」
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第23回「伊豆半島の聖地」
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第39回「秦氏の痕跡」
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第56回「火山信仰の起源」
第63回「三島神を巡るミッシングリンク」
第77回「修験道について」
第80回「渡来民と土着の山の民」
第92回「ポリネシアの神と日本の神」
第93回「島への思いと信仰」
第122回「聖地と地理」
第161回「御霊信仰 --怨霊を守護神にする日本独特の信仰--」
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.169
2019年7月4日号
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◆今回の内容
○スピリチュアルとは何か?
・ヒッピームーヴメントが生み出したもの
・神秘主義思想とスピリチュアル
◯お知らせ
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スピリチュアルとは何か?
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いつの頃からか「スピリチュアル」という言葉をよく耳にするようになりました。その使い方を見ると、精神世界に関わるようなことなら何でも「スピリチュアル」と言って、占星術も怪しげなセラピーも、果ては神社仏閣にお参りすることもスピリチュアルなるものに含まれるようになっているようです。ちょっと前までなら、「オカルト」と呼ばれていたようなことも、スピリチュアルと言い換えられています。
「オカルト」という言葉も原義は「秘められたモノ」という意味で、顕在するものの裏側に見え隠れする原理やシンボルなどを指していたもので、心霊主義とは一線を画すものでした。それが、不思議な現象はすべてオカルトと呼ばれて、この言葉で括られてしまったため、本来の「奥義」的な意味はすっかり失われてしまいました。
「スピリチュアル」という言葉は、かつてならオカルトに一括りにされたもののうち、ネガティヴな印象のあるものを排除して、幸福や明るさ、前向きさ、それにご利益に結びつくようなイメージのものだけを切り分けて、スピリチュアルと言っているようにも見えます。
日本で使われているスピリチュアルという言葉は、運命論や不可知論にすら行きつかず、幸福や前向きな生き方に繋がると考える(考えたい)事象をただ印象だけで語っているように思えます。例えば、神社にお参りするときに、その神社の成り立ちや歴史などを探求せず、ただ由緒や他の人がブログなどに書いている印象を受け売りしているだけです。ですから、同じ内容のブログなどが乱立しています。
この講座でも、神社はいろいろと取り上げていますが、奈良時代以前の雑多な信仰の時代から、長く続いた神仏習合の時代、そして明治から戦前にかけての国家神道による統制の時代、そして戦後の独立宗教以降では、一つの神社でも祭神から信仰形態まで様々に変化しています。神社の中には怨霊を祀ったものもありますし、東北に多く見かけるように、蝦夷の古い信仰の場所を呪うような形で神社に置き換えられたようなところもあります。そうした歴史や文化的な背景を考慮することなく、ただ神社は「ありがたい場所」として、ネット上に流布している画一的な情報が二次流通、三次流通されているケースがほとんどです。
つい最近、三社祭で御朱印を求める人のあまりのマナーの悪さに神社側が御朱印の配布を取りやめるといったことがありましたが、御朱印が参拝の証明であり、神社の祭神と自らが神秘的な何かで結びつきあうということの印であるという意味がどこかに飛んでしまって、ただ人気のスタンプを集めるのと同じことに堕しているわけで、この混乱自体がとても滑稽です。
「この世に偶然はない、すべては必然」といった言説も「スピリチュアル」同様に、よく聞きますが、これも違和感の強い言葉です。何事かの事象が生起し、それとの因果関係を取り結ぶ先行事象があれば、「Bという結果はAという原因によって起こった。これは必然的に起こったことだ」といえますが、先行する事象のない「必然」はありえません。ただ印象だけで、Aという事象とBという事象を結びつけるのはただのこじつけです。「この世に偶然はない、すべては必然」という言説は、一見、深遠な宇宙の原理でも語っているようですが、言葉として何の意味もなしていません。
スピリチュアルという言葉は、日本語では「霊的」と訳されますが、英語では霊的というだけではなく、精神的、宗教的、超自然的といった意味とともに、荘厳さや普遍性といったニュアンスが含まれています。そもそもは、ラテン語の"spiritus"が語源のキリスト教用語で、神秘主義的な意味合いを多分に含んでいます。
スピリチュアルに関連する言葉に「スピリチュアリティ」がありますが、これは「霊性」や「聖性」という意味で、とくに人間の属性としての霊性といった意味で用いられ始めたのは、1960年代後半のヒッピームーヴメント以降になります。話が少しややこしくなりますが「スピリチュアリズム」という言葉もあって、こちらは心霊主義や降霊術に意味が限定されます。
今回は、そんな「スピリチュアル」という言葉の使い方の違和感を解消する意味と、私自身の整理の意味も兼ねて、スピリチュアル=スピリチュアリティと神秘主義の関係、その系譜を考察してみたいと思います。
●ヒッピームーヴメントが生み出したもの
スピリチュアルやスピリチュアリティという言葉が、頻繁に使われだしたのは、1960年代後半から70年代にかけてのヒッピームーヴメントの時代です。私は、1961年の生まれですから、このムーヴメントの最盛期ともいえる1968年前後はまだ7,8歳で、鮮明な記憶はありませんが、高校生になった70年代半ばにも、ヒッピームヴメントによって生み出されたカウンターカルチャーの影響はいろいろなところに残っていて、少なからず影響を受けました。
アメリカがベトナム戦争の泥沼に入り込み、最後は屈辱的な敗北を喫してベトナムから撤退する時代であり(1975年4月30日のサイゴン陥落は、固唾を飲んで、そのテレビ中継を見守りました)、「武器よりも花を」というテーゼから、フラワーチルドレンとも呼ばれたヒッピームーヴメントは、反権力、自由、そして性の解放を掲げた巨大な文化運動(カウンターカルチャー)へと発展しました。また、このムーヴメントは、自由の概念を単なる権力による支配からの解放というだけでなく、文化的な制約や肉体的な制約をも越えた精神の解放にこそあるとして、ドラッグ・カルチャーも生み出しました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.168
2019年6月20日号
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◆今回の内容
○山の民と聖地
・木地師、鉱山技術者、産鉄民、修験者、鍛冶屋
・芸能民と忍者
◯お知らせ
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山の民と聖地
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かつて、「山の民」や「山窩」と呼ばれた山中に暮らす移動民たちがいたことは、柳田國男の研究などでも明らかです。修験道の聖地や神社の奥宮などを探して山奥に分け入っていくと、意外な場所にかなりの規模の集落跡があったり、炭焼や木地師が工房とした跡などに出会うことがあります。
白洲正子は『隠れ里』の中で、そんな民の痕跡が残る地方の話や、彼らの文化が伝統芸能と関わりが深かったことについて記しています。五木寛之は、山の民が現代に生き残り、古代から連綿と続く独自の文化とネットワークを持って社会の裏側で息づいているというモチーフの『風の王国』という作品を著しました。
日本霊異記に登場する『迷い家』なども山の民を暗示する物語です。里人が山に入って道に迷い、彷徨っていると、突然大きな屋敷が現れます。その中に入ってみると、今しがたまでそこで煮炊きをしていた様子なのに、人の気配がありません。そこで、空腹を満たし、椀などを持ち帰ると急に運気が上がり、裕福になるといった内容です。これは、全国に流布する朝日長者や東北に伝わるだんぶり長者などと同じ長者伝説です。迷い家は山の民の住処であり、朝日長者が深山で耳にした黄金を埋めた場所の話をしていたのも、そして、だんぶり長者を酒の泉に案内しただんぶり=トンボも山の民を暗示しています。
近代以降、急速に姿を消してしまった彼らは、いったいどんな人たちだったのでしょう。好奇心を刺激して止みません。
今回は、前々回の鬼の話にも通底する彼ら、ずっと影の存在でありながら、歴史の裏で活躍し、また日本文化に多大な影響を及ぼした山の民について、その歴史や聖地を紹介します。
●木地師、鉱山技術者、産鉄民、修験者、鍛冶屋
山の民や山窩は、職業としては、椀や皿などの什器を木から削り出す木地師や、鉱物資源を探査して発掘する鉱山技術者、その鉱物を精錬する産鉄民といった区分けができます。しかし、彼らはそれそれの職能に分かれて単独に活動するわけではなく、相互に補い合ったり、あるいは複数の職能を兼ねた者が集まって、山中での生活共同体を形成していました。
木地師たちは、自分たちのルーツを文徳天皇の第一王子・惟喬(これたか)親王であるという伝承を持っていました。惟喬親王は、皇位争いに破れて近江国の小涼谷に落ち延び、その子孫が自分たちであるというのです。同様の伝承は全国の木地師たちに共通していました。
もともと、惟喬親王は都の小野を拠点としていました。いったん朝廷に入り、要職を歴任したものの、皇位争いに破れてすぐに仏門に入り、本拠地の小野に隠棲しました。この小野の地を支配していた小野氏は鍛冶神の性格を持つ小野神を氏神とし、この神を奉斎しながら、全国に展開して鉱脈や水脈を探索していました。
木地師たちは、中世には「ゲザイ」と呼ばれ。「下在」「下財」「下才」「下細」「外在」などの様々な字が当てられていました。それは、彼らが様々な技術を駆使できる芸才の持ち主であるという意味でした。また、「木工の元は金工」といった言葉も伝えられていました。
惟喬親王に従って近江に移り住んだ小野の鉱山技術者たちは、木工の技術も持ち合わせていて、落ち着いた先で、この地方の木材を活かした木地師としての仕事を主としたため、惟喬親王をルーツとする木地師の伝承が生まれたのかもしれません。
以前、長野県の白馬村周辺の聖地調査をした際に、木地師が拠点とした場所が複数ありました。そのうちの一つは、姫川を挟んで北アルプスと向かい合う、東山と呼ばれる山中にありました。ここには天然ガスが湧き出していて、積雪期にもその蒸気で一帯は雪が少なく、明治期から戦前まではこのガスを利用してガラスを溶かして成形するガラス工場が運営されていました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.167
2019年6月6日号
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◆今回の内容
○電磁波感受性と進化について
・ドローン操縦不能の聖地
・デンキウナギと進化
◯お知らせ
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電磁波感受性と進化について
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前回配信した『鬼の視点から見た日本』には、たくさんの反響をいただきました。
近年、神社参りや御朱印集めがブームになり、古事記、日本書紀をはじめとした日本神話への関心も高まっています。しかし、そのブームは、ただご利益を求めるものであったり、スピリチュアルな意味を無理やり見出そうとするような傾向が強いものであったり、あるいは神話と史実の区別をつけないまま神話に登場する「神」が実在したという観点からスタートするようなものが多く、とても歪なものに感じます。
そんな神社ブームへの違和感もあって、あえて、「正史」である記紀神話で「鬼」とされた古代の権力闘争で敗れ去った者、最後まで大和王権に抵抗したまつろわぬ民たちの視点から、神話と聖地を見直したものでした。
スサノオが詠んだ日本最初の和歌と伝えられる「八雲立つ……」は、正史ではスサノオとクシイナダヒメの婚礼を寿ぐものとされていますが、どう読んでもそのようには解釈できません。漠然と読んだだけではまったく意味をなさない歌です。ところが、八雲の「雲」を「蜘蛛」に置き換えると、「土蜘蛛」とされたまつろわぬ民たちを怨嗟する内容がはっきりと浮かび上がってきます。
物事には裏と表がある。それはどんなことにも当てはまります。神社という聖地は、太古の自然信仰から始まり、様々な民族や時の権力と関わりを持って、それぞれに利用されてきました。そうした歴史を紐解いていくと、表立った「ご利益」ばかりではなく、そこに籠もる怨嗟や呪いとともに、その聖地が持つ性格がはっきりと見えてきます。
その上でお参りをすれば、そこに祀られた神だけでなく、その神の陰に本来の産土が息づいていることがわかります。聖地を訪ねることの意味は、その土地の記憶=歴史が凝縮された場所である聖地において、そこに宿る本来の地霊=ゲニウス・ロキと相見えることにあると思います。それは、日本というこの国の成り立ちを見据えることでもあります。
最近、私は御霊信仰にとくにこだわって、その聖地を訪ねていますが、この世と時の権力に強烈な怨嗟を抱いたまま亡くなり、怨霊として恐れられた御霊たちと向き合うと、彼らの無念ととともに、彼らを死地へと追いやった者たちの悔恨も見えてきます。それは、権力闘争の虚しさとともに、太古からこの列島で暮らしてきた人間の心の機微をも実感させてくれます。それも、いうなれば「鬼」の視点から日本を見つめ直すということです。
前回取り上げたような例は、まだまだたくさんありますので、それも折りに触れて取り上げていきたいと思います。
今回は、歴史的なテーマから少し離れて、聖地にまつわる科学の話をしたいと思います。
●ドローン操縦不能の聖地
以前、福島県いわき市の聖地調査の話を掲載しましたが、このプロジェクトも5年目を迎え、新たに聖地にまつわる逸話を動画コンテンツとして紹介するプログラムが加わります。そのロケで訪れたいわきの聖山・水石山でのことです。
この山の頂上には、円錐形の巨岩「水石」があり、それが山名の由来となっています。水石のてっぺんには窪みがあって、昔から、ここに水が溜まっていれば適度に雨が降り、この水が枯れると日照りになると言い伝えられてきました。
水石山は彼方に望む太平洋から龍燈と呼ばれる光が上ってきたとされる場所でもあります。この山の尾根筋直下には閼伽井嶽というピークがあり、そこに閼伽井嶽薬師があります。空気の澄んだ晩に、海に無数の蛍火のようなものが現れ、それが川を遡ってきて、閼伽井嶽薬師の境内にある龍燈杉に集まるというのです。江戸時代から明治初期にかけては、この閼伽井嶽薬師の龍燈は全国に知れ渡っていて、龍燈見物を目当てにした参拝客が大勢訪れたと伝えられています。
その龍燈をテーマにした作品のクライマックスシーンに、水石の傍らから飛び上がったドローンが、閼伽井嶽薬師とその先の海を一望する映像を撮ろうとしたのです。
それぞれに望遠と広角カメラを搭載した二機のドローンのセッティングを終えて、コントローラーのスイッチを入れると、突然、アラートが鳴り響きました。電波障害のため操縦不能であるというアラートでした。
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滝沢馬琴といえば『南総里見八犬伝』で知られるが、馬琴は好事家としても有名で、全国の不思議な話を集めた『兎園小説』というアンソロジーを著している。その中に「虚舟(うつろぶね)」というエピソードがある。
それは、常陸国のはらやどり浜というところに、お釜を二つ重ね合わせたような舟が流れ着き、中から玉手箱のような飾り絵の美しい物を携えた金髪碧眼の女が現れたという話だ。はじめ、漁師たちは物珍しそうに女を取り囲んで観察していたが、彼女の話す言葉がまったく理解できず、不気味に思って、舟に押し込んで、再び沖へ流してしまったという。同様のことが何度かあり、その舟を虚舟と呼ぶようになった。
この時代は、勝手に海外と交流してはならず、海岸線に怪しいものが漂着した場合には、代官所への届け出が義務付けられていた。漁師たちは、その手続が面倒なのと、密貿易の疑いをかけられるのが嫌で、何事もなかったかのように舟を流してしまったと記されている。
澁澤龍彦はこの虚舟のエヒソードからインスピレーションを受けて、『うつろ舟』という短編小説を書いた。
この虚舟が漂着したとされる「はらやどり浜」は、ぼくの故郷である茨城県鉾田市の大竹海岸のことだ。千葉県の銚子にある犬吠埼から茨城県の大洗の岬まで、ゆるく弧を描く砂浜の海岸線が80km続く鹿島灘の一角に当たる。古代には、この海岸線から神が上陸したという言い伝えがあり、それに基づいて鹿島神宮や大洗磯前神社・酒列磯前神社が創建された。
ここには、今でも様々なものが漂着する。子供の頃は、外国語のラベルが貼られた珍しい容器を拾うのが楽しかったが、3.11の直後は、津波の被災地から流されてきた様々なものが漂着した。遺体も多数揚がり、一時は、市内の小中学校で、子どもたちを海岸で遊ばせないようにと指導していた。
かつては、虚舟を記念したオブジェが海岸に設置されていたが、それも、3.11の津波で破壊され、今は残っていない。大竹海岸を見下ろす丘を中心に、「鹿島灘海浜公園」が整備され、その丘の上には恋人の鐘と鍵を吊るす金属網が設置されている。鐘も鍵を吊るすのも、どこかの観光地で流行ったものの二番煎じで、せっかく幻想的な逸話が伝わる場所に興ざめでしかない。
はらやどり浜から北へ少し行くと、「子生(こなぢ)海岸」がある。「こなぢ」は「子を生す=こなし」の訛化だろう。子が腹に宿り、そして生まれる。もしかすると、はらやどり浜で潮垢離をして、子生弁天にお参りするような子授けの信仰があったのかもしれない。
子生弁天は地元の通称で、正式には「厳島神社」だ。祭神は宗像三女神の一柱である市寸島比売命で、これは習合して弁天になるから、どちらでも正しい呼び方と言える。周辺の地域では、子授けと子育てに霊験あらたかと信じられていて、やはり、かつてははらやどり浜と一対の聖域とされていたように思われる。
国道51号線に面した一ノ鳥居を潜り、しばらく行くと杉の巨木の木立の先、見下ろす谷の中に社が散見される。二ノ鳥居を潜って、急な階段を降りていくと、池の中に優美な姿で浮かぶ社と対面する。
国道の通りは多いが、この谷間には騒音は届かず、ときおり池で跳ねる鯉の水音が反響するだけだ。近年は、神社ブームで、かなりな山奥の寂しい社でも参拝者をちらほら見かけるが、ここはほとんど知られていないせいか、雰囲気のある聖地なのに、まったく人を見かけない。
周囲を丘に囲まれて、丸く窪んだこうした地形の場所にある池は、風水では「龍穴」とされることが多い。それは、こうした地形のところに龍脈から気が流れ込んで集中すると考えたからだ。また、女陰に見立て、生命力が迸るいう考え方も風水の発想と同じだ。
はらやどり浜と子生弁天は、伊勢系の神社である鹿島神宮と出雲系である大洗磯前神社の間に位置する。かつては出雲系と習合した蝦夷の聖地だったから、その信仰は、さらに縄文時代にまで遡れるだろう。それは、夏至の日の出を背にし、冬至の日の入りを正面にする社殿の配置からも想像できる。
**能登島の夷穴古墳から石動山を望む。両者とも敗れ去った者たちの面影を色濃く残す場所**
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.166
2019年5月16日号
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◆今回の内容
○「鬼」の視点から見た日本
・千代に八千代に
・八雲立つ
◯お知らせ
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「鬼」の視点から見た日本
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前回の配信は、平成から令和への改元の翌日でした。改元前後、皇国史観的な雰囲気が社会に漂っていることに違和感を覚えたこともあり、そもそもの元号の意味を考えつつ、「大和朝廷=大和王権」側からは敵とされた立場の隼人や熊襲、出雲、そして蝦夷側から見た歴史観について触れました。
『常陸国風土記』の「行方郡」の条には、大和王権の入植者たちが、もともとこの地に住んで農耕を営んでいた一族から土地を取り上げて山へと追い上げ、夜刀神(やとのかみ)と呼んだと記されています。夜刀神が追い上げられた山と、入植者たちが暮らす里との境界は結界とされ、社が設けられます。その社は背後の山を御神体山として、里人たちは先住民を夜刀神として祀り、悪さをしないようにと拝んだと続きます。この意味を明確に言えば、もはやこの世の人ではなくなり、怨霊となった夜刀神の祟りを鎮めるということです。
このエピソードから、後に王権が謀殺した怨霊の怒りを鎮めるための日本独特の信仰である「御霊信仰」へと繋がっていくことが伺えます。
前回の最後に、私は次のように記しました。「私は地方ナショナリズムを訴えたいのではありません。異なる観点から見ることで、物事の意味は変わってくるということ、征服の歴史には、征服者と被征服者の観点があり、被征服者の観点が失われやすいということを指摘したいのです」。これに、さらに付け加えれば、被征服者=敗者の側の視点に立つことで、歴史が鮮明になってくる。「正史」の中の様々な矛盾や謎が明確になり、私たちは何者なのかということを客観的に自覚できると言いたかったのです。
キリスト教には、キリスト教が「敵」や「邪教」とみなした古い信仰の残滓が見られます。例えば古代ローマのサトゥルナリアや北欧の冬至祭が取り込まれてクリスマスに姿を変え、異教徒の夏至祭が聖体祭になり、さらにはケルトのサウィン祭は「邪教」そのままの形を維持したままハロウィンとなりました。それは、征服の過程で異文化をただ破壊するのではなく、逆に吸収してしまうことで、異文化に親しんだ先住民を懐柔しつつ取り込もうというキリスト教を国教としたローマ帝国と教会のしたたかな戦略でした。
大和王権も同様の戦略を用いて、本来異教であった「鬼」たちの神や信仰を取り込んでいきます。夜刀神として怨霊を祀り上げてしまうのも、そうした戦略の一つといえます。
今回は、そんなところに着目しつつ、我が国の成り立ちをもう少し「鬼」側の視点から見つめてみたいと思います。この講座で取り上げてきた聖地の中には、表に祀られている神とは違う神がひっそりと祀られていて、それが本来の地主神であったケースが少なからずありましたが、そういったものも「鬼」の視点から見れば、地主神が日陰へと追いやられた意味と経緯が表出してきます。
●千代に八千代に
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」。これは説明するまでもなく、日本の国歌です。この歌詞は、『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭にある「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(詠み人知らず)が出典であると言われています。
国歌の冒頭は「君が代は」ですが、『古今和歌集』では「我君は」と始まっています。これは、この歌が流布していくうちに読み替えられたと考えられています。それがいつなのか諸説ありますが、鎌倉時代には広く巷間で歌われるようになり、そのときは「君が代」に変わっていたので、すでに平安時代末には「我君は」から「君が代は」と変化していたという説が有力です。この歌は宮中でも庶民の間でも慶事に歌われ、江戸時代の庶民はエロティックな意味にとって小唄として親しみました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.164
2019年4月18日号
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◆今回の内容
○浄土について
・天国と地獄
・浄土というパラレルワールド
◯お知らせ
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浄土について
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先日、フェイスブックのタイムラインに下記のような話を書きました。
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「…死後も、自分の意識が存続するのかもしれないって信じたい。でも、もしかしたら、オン・オフのスイッチみたいなものなのかもしれない。パチン! その瞬間にさっと消えてしまうんだ。だからなのかもしれないね。アップル製品にオン・オフスイッチを付けたくないって思ったのは」
若い頃、禅やLSDが垣間見せるアルタードステーツに耽溺し、ずっとベジタリアンを貫いたジョブスが、亡くなる寸前に彼の伝記を書いたウォルター・アイザックソンに呟いた言葉。
いろいろな人の生きざまを見てきて、何もかもが消えてしまうことの恐怖に怯むよりも、自己の中にすでに「無」が内在されていることを意識しながら、物事をピュアに感じていたいなと思う。
それが、いちばん難しいことなんだろうけどね。
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この一年、身近な人間が生と死の境で闘う姿を見てきて、たまたま読んだジョブスの評伝の中に出てきたこの言葉にハッとさせられ、こんなことを書いたのでした。
これを投稿した翌日、三年に渡って闘病生活を送ってきた義弟が亡くなりました。昨年の春からの一年間は、私が実家に拠点を移し、管理職の教員として多忙な妹を手伝って、通院の送迎をしたりしてきました。
昨年の夏にはまだ元気だった義弟は、徐々に病が進行し、次第に衰えていきました。その間に定年を迎えて長年勤めた学校を退職し、最後に奉職したその学校は統廃合の対象となって、先月いっぱいで廃校となりました。体育教員だった義弟が手塩にかけた校庭を縁取る桜並木や花々は、春を盛りと、無人の校庭で咲き誇っていました。
片道一時間の道のりを病院へ送迎する途中、義弟といろいろな話をしましたが、彼は早い時期から自分の死期を感じ取っていたようで、残される家族が困らないように準備していることや、病院に付属する緩和病棟を指して、いずれそこに入って最期を迎えることになるだろうなどと話していました。ずっと死と向き合いながら暮らしていた彼がどんな気持ちでいたのか、私には想像しようもありませんでした。
私自身は、どこか見知らぬ荒野のようなところで、誰にも看取られず、ただパチンとスイッチを切るようにこと切れて、そのまま朽ちて砂になればいいと思っています。それを限りに「私」という存在のすべては、パチン! オフになる。でも、残される側の人間になってみると、あたりまえのように悲しみが湧き出してきます。そして、魂のようなものがあって、それが子孫を見守ってくれるとも考えたくなります。
私が実家に拠点を移したのは、妹に代わって弟の看病をするためというわけでもなかったのですが、昨年の初冬には母が脳梗塞で倒れて、こちらの世話もしなければならなくなり、妹一人ではとても二人の面倒を見ることはできなかったので、結果的に、介護や世話のために戻ったということになりました。
義弟とは対照的に、母のほうはいったんは助からないものと諦めたところから奇跡的に回復し、軽い言語障害が残るものの、観もなく退院となります。母は妹夫婦とずっと同居していましたので、ずっと義弟の病状を心配していたのですが、まさか自分の退院直前に亡くなるとは想像していなくて、大きなショックを受けていました。
私の父は、ちょうど40年前、私が18歳のときに亡くなりました。義弟は60歳でしたが、40年前の50歳に比べれば、今の60歳はまだまだ若く、これからリタイア後の生活を楽めるはずだったと思うと悔やまれてなりません。身内や友人、先輩や後輩、人生の師といえるような人…いろいろな人の死を間近に見てきましたが、義弟は、その最期に至る一年余りを身近に過ごし、彼の気持ちの揺れ動きもつぶさに見てきたので、なおさらです。
私自身は魂の存在やら、輪廻、天国や地獄、彼岸や浄土といったものの存在はまったく信じていませんが、こうした死に直面すると、この世でやり残したことや未練をすべて消し去り、魂の幸福をもたらしてくれる「浄土」という概念が作り出された心理を理解できます。
今回は、そんな個人的な体験も踏まえながら、地獄という概念がどのように生み出されたかという前回のテーマに引き続いて、浄土という概念について触れてみたいと思います。
●天国と地獄
前回記したように、人間の魂が死後に「他界」へ向かうというイメージは、すでに太古から見られました。縄文時代の土偶や埋葬の風習などには、死者がこの世を離れてもまた「他界」で存在するということを意識していたことがはっきり表れています。そこでイメージされている「他界」は、「天国と地獄」といったように完全に分割された善悪二元的な世界ではなく、現実の世界と背中合わせに身近に存在しているパラレルワールドのようなものでした。
死者の魂は、この世の鏡像のような他界へとスライドし、そこでもこの世にあるときと同じように生活していると考えられたのです。だから、生前に使用していた什器などは、向こうの生活でも必要なものだからと、壊されて、死者と一緒に埋葬されたり、送られたりしたのでした。アイヌには「カシオマンテ=家送り」という風習が伝わっていました。これは、死者とともに家を丸ごと焼き払う儀式でした。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.163
2019年4月4日号
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◆今回の内容
◯どうして「地獄」は生まれたのか?
・閻魔大王は善神だった
・果てしない輪廻が意味するもの
・民族的特性
◯お知らせ
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どうして「地獄」は生まれたのか?
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聖地というものは、この世にある特別な場所というだけでなく、そこが異界と結びついていて、普段、私たちには見えたり理解したりできない「何か」を感得したり、啓示やご利益を得られる場所であると考えられています。
その聖地が繋がる「異界」は、どんなところなのでしょう。「異界」という言葉からイメージするのは、天国と地獄、極楽浄土と地獄、天上界と冥界、天上の神々の世界と黄泉の国といった善悪二つの二元的世界ではないでしょうか。
一昨年の10月、私はNHKの"さし旅"という番組で、タレントの指原莉乃さんと都内の聖地巡りをしましたが、その中で、東京の下町、入谷にある小野照崎神社を訪ねました。ここは、小野篁(おののたかむら)を祭神として祀っていますが、小野篁といえば、この世と地獄を自由に行き来し、昼間は朝廷に仕え、夜は地獄へと続く井戸を降りて、閻魔大王の側に控えて裁判の補佐をしていたと伝説に語られています。
小野篁伝説のように明確に「地獄」がイメージされたのは、日本では仏教が普及し始めた6世紀以降のことです。それは、極楽浄土とセットになっていて、この世で善行を積めば極楽浄土へ上ることができ、悪行を積めば地獄に落ちて、悪行の度合いに応じた責め苦が待っているとされました。小野篁は、地獄の関門にいて、そこに落ちてきた人間の悪行を審査し、どんな責め苦がふさわしいか閻魔大王にアドバイスしていたわけです。しかし、そうした仏教的な二元論が入ってくる以前は、自然信仰や山岳信仰が主流で、明確な地獄のイメージも極楽浄土のイメージもありませんでした。
前々回の161回では「御霊信仰」をテーマにしましたが、御霊として祀られた怨霊も仏教的な地獄に落ちて、怨霊や鬼となったのではなく、浮かばれぬ魂が怨霊となって、この世に留まり、それが祟りをなすと考えられていました。その世界観は、天国と地獄という二元論的なものではなく、この世とあの世が相互に嵌入しているような、「万物霊」の世界、アニミズムに近いものです。それは、縄文的な世界観ともいえます。
今、世界中の宗教を見渡してみると、それぞれに信奉する神や教義、祭式は異なりますが、天国と地獄という二元論的世界観は共通しています。では、そうした二元論的世界観、とくに地獄のイメージは、いったいどうして生み出されたのでしょうか。
●閻魔大王は善神だった
冒頭、小野篁の話を書きましたが、小野篁が夜になると仕えた閻魔大王は、バラモンの権威が確立する以前はインド土着の神の一つでした。バラモン教普及以前のインドでは自然信仰的な色彩が強く、死者の魂は天上に登って、ヤマ天のいる国に生まれ変わると説かれていました。このヤマ天とは閻魔大王のことです。
ヤマ天は地獄の主ではなく…そもそもバラモン以前には地獄という観念がありませんでしたが…天国に座する有力な一神格でした。ヤマ天にはヤミという妹にして妻である女神が寄り添っていました。死者の霊魂は、天国に登ると、美しい樹林の中にいるヤマ天の元に導かれ、そこでヤマ天と女神ヤミに見守られながら、柔らかい日差しを浴びて寛いでいるうちに、下界で火葬にされた体を取り戻し、同様に体を取り戻して天国に暮らす祖霊たちと合流し、法悦と歓喜に包まれて永遠の魂を獲得するとされたのでした。この伝承からは、ヤマ天と閻魔大王との間に共通する性格は微塵もみられません。
インドの民間信仰には、天国はあっても地獄という概念は存在しませんでした。死者は、ただ水を注ぎ掛けられるか、火葬されて川か海にその灰が流されれば、そのまま祖霊の暮らす天上に行くと素朴に信じられてきました。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.162
2019年3月21日号
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◆今回の内容
◯龍燈と竜宮をつなぐモノ
・セットになった龍燈伝説と竜宮伝説
・乙姫の正体
◯お知らせ
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龍燈と竜宮をつなぐモノ
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この17日は福島県いわき市で、一足早い春分のツアーを実施しました。朝の5時に市役所に集合し、バスで出発。市街の西に聳える閼伽井嶽の頂上近くにある閼伽井嶽薬師常福寺で、夜明けを待ちました。
この閼伽井嶽薬師は、薬師堂からまっすぐ東に参道が伸びていて、春分の日はその真中から太陽が昇ってきます。17日は若干北から昇った太陽が、ちょうど6時に参道の真正面に来て、その光がまっすぐ薬師堂に差し込み、特別に開いていただいた堂の奥へと入っていきました。
本尊の薬師如来像は秘仏なので、朝日はその前立ちの仏を浮かび上がらせ、その反射光が堂内に踊って神々しい光に満たされました。元朝参りや夏の例祭が有名で、いわき市内やその周辺の地域在住の人にとってはお馴染みともいえるところなのですが、こんな光景が拝めることは、参加者の誰も知りませんでした。光が織りなす境内や堂内の光景にみんな一様に息を呑み、「この光景を拝むために、こんなふうにできていたんですね」と、よく知る場所のほんとうの意味をはじめて知ったことに感激していました。
本堂の中で、上野住職の話を伺う間、春分間近の朝日が背中を照らし、冷え込む山上の空気に包まれながらも、柔らかな日差しに背が温もるのを感じ、太陽の恵みを身をもって体験できました。
上野住職は、毎年、お彼岸にはこのようにお堂を開け、護摩壇に向かって護摩木を焚き上げるのですが、その際に、背中に日差しを感じて、季節の巡りを実感すると同時に、護摩の炎の中に仏の姿を感知し、そのありがたみが染み入ってくるように思うのだそうです。霊気に包まれた早朝の閼伽井嶽で、前面に護摩の炎、背中に真っ直ぐ照らす彼岸の陽を感じたら……想像するだけで、無我の境地に入っていけそうです。
じつは数年前の秋分の日にも、ここで朝日を拝むのを皮切りにしたツアーを行ったのですが、そのときは生憎の雨で、光景と雰囲気を想像するだけにとどまりました。そんな雪辱もあったので、観光ビューローのスタッフと私にとっては、思い入れの深い悲願が適った瞬間でもありました。
17日のツアーは、その後、ずっと春分の太陽に照らされながら、以前、ここでも取り上げた龍燈伝説に縁の聖地を巡り、そこに竜宮伝説が重なってくることの意味を考えることをテーマとしました。
今回は、そんなツアーの話から、フィールドワークで確認した龍燈伝説と竜宮伝説の関連について掘り下げてみたいと思います。
●セットになった龍燈伝説と竜宮伝説
太古から雨乞いの祭祀が行われていた水石山に連なる閼伽井嶽は、閼伽井嶽の山頂近くにありながら清水が湧き出し、水石山と同様の水の聖地でもあり、また、磐座信仰を伝える「燕石」と呼ばれる白い花崗岩の岩塊もあり、さらには、古来、修験者たちが集う山岳道場の中心でもありました。
寺史によれば、創建は大同元年(806)で、法相宗を代表する僧であった徳一がこの地にやってきて堂宇を築いたとされています。徳一は、空海、最澄と同時代人であり、両者に対して教義上の疑義を質し、最澄との間では「三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん)」を繰り広げたことで有名です。
徳一は主に東国で布教活動に当たったため、都で活躍した空海や最澄に比べると目立たない存在ですが、理論家としては二人を凌駕していました。文献資料では、東国でも現在の茨城県筑波周辺と福島県会津周辺を拠点としていたことが確認できるだけで、いわきを訪れたという証拠は残っていませんが、坂上田村麻呂の東国遠征と連動していたふしがあり、いわきを訪れた可能性は非常に高いと考えられます。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.161
2019年3月7日号
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◆今回の内容
◯御霊信仰 --怨霊を守護神にする日本独特の信仰--
・朝廷がもっとも恐れた崇徳帝の怨霊
・天神さま
・御霊信仰のルーツ
◯お知らせ
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御霊信仰 --怨霊を守護神にする日本独特の信仰--
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先週の土曜日、3月2日は若狭のお水送りでした。お水送りの儀式をクライマックスに、若狭に伝わる不老不死の伝説ゆかりの地を巡るツアーも、今年で14年目。年々、参加してくださる方が増えて、今年は40人近くの大所帯になりました。
土曜日で、例年になく穏やかな日だったこともあり、行事への参加者もここ数年で一番多く、鄙びた夜の里に手松明の長い行列が光の川を作る様は、いつにも増して幻想的でした。
その翌日、火祭りの余韻も冷めやらぬまま、このツアーの主催者でもある若狭の宿・湖上館パムコの館主田辺さんと、宿の前に広がる水月湖でも何か光のページェントのようなイベントができないかと話していたら、昔は、お盆になるとこの湖で灯籠流しが行われ、きれいだったとのこと。それをぜひとも復活させたいねと盛り上がりました。
お水送りは若狭に春を呼ぶ火祭りですが、同じ若狭で灯籠流しが復活すれば、こちらは過ぎ行く夏を思い秋の到来を告げる火祭りとなるはずです。
同じ火祭りでも、お水送りは十一面観音に若水を捧げ、それをいただく清々しく透明感のある祭りですが、灯篭流しはどこかうら寂しいひっそりとした印象を与えます。それは、灯篭流しという風習が彼岸の先祖を思うだけでなく、さらにその根底に日本人独特の心性ともいえる御霊信仰を呼び覚ますからかもしれません。亡き人の生前を思い浮かべ、さらにはこの世に未練を残して彼岸へと去っていった人を思い起こし、その気持に寄り添う。そんな感覚は、日本独自のものなのです。
●朝廷がもっとも恐れた崇徳帝の怨霊
松山の 波に流れて 来し舟の やがて空しく なりにけるかな
松山の 波の景色は 変らじを かたなく君は なりましにけり
この二首は、西行が讃岐の崇徳院の御陵を訪ねた際に詠んだものです。崇徳院は保元の乱に破れて、天皇経験者としては異例ともいえる流罪になりました。歌にある松山とは、松山の津と呼ばれていた港で、今の香川県坂出市にあります。今は海水面が下がったために、海から少し離れた陸になっています。その松山の津を見下ろすように、五色台の中腹に崇徳帝の御陵があります。
讃岐へ配流された崇徳帝は、この松山の津から上陸し、讃岐で8年間暮らしました。その間、何度も都へ文を出して、免罪を請いましたが許されず、帰京を諦めて、せめて保元の乱の犠牲者たちの魂を弔いたいと、したためた経文を送りますが、これも受理されず、悲憤のもとに亡くなります。
西行は北面の武士として朝廷に仕えているときに、歳近い崇徳帝と歌を通して親しくなりました。保元の乱に敗れて崇徳帝が都の片隅に幽閉されているときにも、密かにその元を訪ね、話し相手になりました。崇徳帝が讃岐へ配流され、46歳の短い生涯を終えた後、その縁の場所を訪れて詠んだのが、先の二首でした。
「讃岐に詣でて、松山の津と申す所に、院おはしましけん御跡たづねけれど、かたも無かりければ……白峯と申しける所に、御墓の侍りけるに、まゐりて よしや君 昔の玉の ゆかとても かからん後は 何にかはせん」
西行は悲憤のうちに亡くなった崇徳帝の思いを汲み取り、魂の鎮魂を願ったのでした。
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月に二回、第一と第三木曜日に発行している(ときどき間に合わなくて翌日になることもあるが)「聖地学講座」が、先週の木曜日に第160号目となった。
2012年の5月に配信開始してほぼ7年。毎号、自分でもバックナンバーを参照しやすいように100枚綴のツバメノートにプリントアウトした記事をはりつけているのだが、それもちょうど4冊目がいっぱいになった(最初から三冊目までは30枚綴を使っていて、それは一冊に合わせた)。トータル780ページで、1ページあたり400字詰めの原稿用紙5枚強だから、ほぼ原稿用紙4000枚分になる。
4冊を一度に手にするとずっしりと重く、なんともいえない感慨が湧き上がってくる。この重さが、自分が接して、それなりに消化した「知」の重さだと思うと、自信も湧いてくる。
思い返せば、1995年から「Outdoor Basic Technique」を立ち上げ、そこでコラムのようなものを書き始めて、blogシステムを使うようになり、2001年からは「Leyline Hunting (現在の『聖地観光研究所』)」のサイトの運営をはじめて、アウトドアの話題に聖地の話題もないまぜになった形でコラムを書き続けた。
2011年、3.11の災害を経験して、ショックを受けた。2万人もの人の命がいともたやすく失われ、現代文明の象徴(負の象徴ともいえるが)である原発をまるであざ笑うかのように破壊して、放射能を撒き散らした自然。そんな自然の途方もない力を見せつけられて、結局、人間は巨大な自然の力を前にしてできることといえば、祈ること以外にないのではないかと思った。そして、blogに「祈りの風景」のタイトルで、自分が聖地を巡る中で出会った祈りの光景と、そこで感じたものを長文で10回あまり書き綴った。
その後、しばらく気が抜けたようになってしまって、無力感に囚われていたが、ある日、ふと「祈りの風景」の延長ともいえる体系的なテーマで、新たな知見を加えつつ何かを書きたいという衝動が湧いてきた。
そして始めたのが、「聖地学講座」だった。「聖地」とは何か? 自分で聖地を巡りながら自問自答を繰り返していたけれど、なかなかその答えは見つからない。それならいっそ、「聖地」とは何かということの探求自体をテーマとして、自分が学び、考えながら、その過程やその時々の知見をシリーズで書き綴ってみたらどうだろうと思ったのだ。
隔週ぐらいがいいだろうと、かなり安易に始めてみたものの、ただエッセイのように短文で想いのままを書くのでは意味がないと思い、それなりのまとまりのある論文という形を自分に課したのが、すぐに重い負担になってきた。
一回ごとの原稿枚数は20から30枚で、月に二回だからすくなくとも毎月50枚は書くことになる。商業誌にライターとして寄稿していたときも、毎月こんなに原稿は書かなかった。有料メルマガとはいっても、マイナーなものだから、数十人の読者で、収入は月に数千円にしかならない。
はじめのうちは、これでは続かないかなと、断念しようかという考えも過ぎった。たが一年あまり続けてみると、メルマガの記事が様々な場面で活きることに気がついた。たとえば、講座やツアーのガイドをするときには、聖地学講座で取り上げた一つのテーマを整理して、それでレジュメを作れば、一から構成を考えてレジュメを作るのよりはるかに楽にできる。そして、すでに考察したテーマを反芻しながらまとめるから、講座で話す肝を押さえながら、さらに理解を深めることができる。
聖地学講座をはじめるまでは、その時々で興味のあるテーマが偏ることが多かった。何かひとつのことに集中すると、そこから離れられなくなる性格なので、興味を引くテーマを見つけると、それにどんどんのめり込んでしまう。ところが、定期的にメルマガを発行しなければならなくなると、当然、読んでくれる人のことを意識しなければならないから、いろいろなテーマを見つけていこうとする。いったんこだわっているテーマから離れて、新しい視点を持とうとすると、今まであまり注目していなかった分野で面白いものを発見して、結果的に視野が広がっていく。そんな「効能」も合わせて、次第にメルマガを書き続けることをルーティンとしてこなせるようになった。
以前のぼくのように、商業誌での寄稿が専門のライターが、仕事が減ってしまったために、自ら活路を見出そうとして有料メルマガをはじめてみたものの、負担ばかりが多くて微々たる収入にしかならないのでやめてしまったという話をよく聞く。堀江貴文さんのようなビッグネームで、みんなが関心を持つようなテーマを追っているならいざしらず、商業誌の仕事がジリ貧だからといって有料メルマガをはじめても、読者がつくはずがない。あくまでも自己研鑽の場であり、他の仕事に活かす方途だと思って、苦しくても長く続ける意思がないと、虚しいつまみ食いで終わってしまうと思う。
ぼくが発行している「まぐまぐ」のシステムでは、通算200号を迎えるか、200人以上の読者がつけば「殿堂入り」の称号をもらえるのだという。200人の読者はちょっとハードルが高そうだが、200号はそろそろ視野に入ってきたので、それを目標に、また積み上げていきたいと思う。
2019/02/27 カテゴリー: 02.ライフスタイル, 11.近況, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.160
2019年2月21日号
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◆今回の内容
◯「風水」概略
・風水とは
・四神相応と羅盤による見立て
◯お知らせ
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「風水」概略
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前回は『生活のコスモロジーと聖地』と題して、先人たちが生活を取り巻く風景の中に、聖地の法則性やリズムを感じ、それを意識して暮らしてきたことに触れました。
かつて、生活圏と日々の生活のリズムは、取り巻く自然と調和させるべきであるという認識が行き渡り、それが安定したコスモロジーとなっていました。ところが、社会の変遷とともにそのコスモロジーが壊れ、そこから様々な歪みが生まれてしまいました。すると、今度はそうした歪みを克服しようというムーヴメントが起こり、その中から、古来のコスモロジーを反映した風水の考え方などを見直そうという機運が高まってきました。
前回テキストとして取り上げた、イーフー・トゥアン『トポフィリア』も、そんなムーヴメントの中から生み出されたものといえます。それは、「風景と人」言い換えれば「自然と人」との関係を西洋合理主義的な「人対自然」ではなく、人が自然の中に含まれているという視点に置き換えて見直そうというものでした。今回は、もともとそんな視点に立脚して、実践術として用いられてきた「風水」について、人文地理学の立場から風水を研究した渡邉欣雄の『風水・気の景観地理学』を参照しながら考察したいと思います。
●風水とは
漢代に記された風水書の一つ『青烏経』には、「陰と陽が合体し、天(陽)と地(陰)とが相互に作用しあえば、内なる気は萌え生じ、外なる気は形を成し、内外の気が相乗して、はじめて、風水がおのずから生じてくる」とあります。
これは風水思想だけでなく、東洋思想の根源的な部分をも語っています。陰陽とは西洋的な神と悪魔あるいは善悪といった二項対立の原理ではなく、対置的な二つの根本要素だと考えられています。その陰陽の相互作用によって、「気」という動きが生じ、気の動きによって、森羅万象が生み出されるというのです。
風水とは「蔵風得水」という言葉の短縮された言い方です。蔵風得水とは、良い風を蓄えて良い水を得るという意味です。景観に現れている気の流れを読み、それにもとづいて、都市計画や生活する場所を決め、心地よく健康に、そして豊かに暮らそうという考え方を示しています。さらに、「水は天地の血であり、石は天地の骨であり、川は山の動脈であり、草木はその髪の毛であり、霧や靄はその顔色である」として、景観の中に不可視である気の流れを読む体系を明示しています。
背後と両側の三方が緩やかな稜線を描く山に囲まれ、前方は開けて、そこに水の流れがあるような景観の場所が風水に適った良い場所とされます。龍脈である稜線をたどってきた気は、その場所の中心にある「龍穴」から湧き出して、健康や繁栄の力の源になると考えられていました。
風水書では、そうした場所を母親が両腕の中に優しく赤ちゃんを抱く姿や、女性性器の形に例えています。とくに女性の性器は、そこから新たな生命が生み出されるところでもあることから、「母なる大地」のイメージに直結し、現実の景観の中に同じような形の場所が求められました。
私が長年追い続けているレイラインも、聖地を結ぶネットワークであり、目には見えない大地の中を流れる力を象徴的に表したものですから、広義には風水の一つとも言えます。拙著『レイラインハンター』で、私は自分が聖地を結んでオートバイを走らせている時に、ふと、自分が「気」そのものとなったような感覚を抱いたエピソードを書きました。聖地とは人体でいえば鍼灸のツボに当たり、それを結ぶレイラインは経絡に相当します。その経絡に沿って移動していく自分が、経絡を流れる「気」そのものになったように感じたのです。それは、ただイメージが重なったというだけではありません。自分も大地を結ぶ大きなネットワークを構成する要素の一つであるという実感をもったのです。そして、自分が流れていくのは自分の意志というよりも、大きな自然の意志によるもののように感じたのです。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.159
2019年2月7日号
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◆今回の内容
◯生活のコスモロジーと聖地
・はじまりの島と山岳
・垂直軸と庭園の構造
・物語と都市
◯お知らせ
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生活のコスモロジーと聖地
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最近、個人の方から、住居や事業所について、立地する場所を見立ててほしいとか、家屋の構造などについてアドレスしてほしいといった依頼をいただくことが増えてきました。
そうしたことは、本来、家相や風水を鑑定する専門家の仕事で、聖地を専門とする私の範疇ではないと思っていたのですが、何例か手がけてみると、聖地の立地条件やその構造を援用することでかなり理想的な住環境や労働環境が実現できることがわかりました。
そもそも聖地とは、その場が、単に「聖なるもの」が顕現した場であるというだけではなく、土地の歴史や文化と密接に結びついていて、さらに、大きな自然や宇宙との結びつきが感じられるような構造を秘めています。そして、そこには、介在する「人間」の存在が不可欠です。人がそこを「聖地」として強く意識するからこそ聖地として存在しているともいえます。
そう考えれば、家屋が立地する場所と土地の歴史や文化が結びつく糸口を見つけ、自然や宇宙と結びつく構造を取り入れて、それを住む人がはっきりと自覚できるようにすれば、そこはまさに「聖地」となるといえます。万人が認める「聖なるもの」の顕現の場でなくても、そこにいることで、土地や宇宙と繋がっているという感覚がもたらされれば、人は大きなやすらぎと心のゆとりを感じることができます。それはパーソナルな聖地といっていいでしょう。
このことの詳しい話は、『トポスの個人鑑定』というタイトルで、ブログ記事にしましたので、ぜひ、そちらもご参照ください。
https://obtweb.typepad.jp/obt/2019/01/topos.html
人はかつて日々の営みの中で、周囲の環境との一体感やもっと大きな自然、宇宙との繋がりを意識していました。たとえば、季節の移ろいを四季として捉え、さらに二十四節気・七十二候として細分化し、自然の移ろいとそれにつれて出没位置を変えていく太陽や星々を意識して暮らしていたました。それは、「生活のコスモロジー」とでも呼べるようなものでしょう。
聖地も、そんな生活のコスモロジーと結びついています。
今回は、そんな観点から、いま一度、聖地の成り立ちを振り返り、生活のコスモロジーとどのように結びついているのか考えてみたいと思います。それは、現代社会で失われている生活のコスモロジーを取り戻すきっかけになるかもしれません。
●はじまりの島と山岳
世界中の創世神話を見渡してみると、その多くは混沌とした水の中から島が生み出されて始まります。さらにその原初の島は、もっとも重要な聖地として、不死の伝説と重なっていきます。
日本神話の最初は、イザナギとイザナミが別天津神(ことあまつがみ)たちから天沼矛(あめのぬぼこ)を授かり、それで大地が漂う混沌をかき混ぜ、その矛の先から滴った雫が、最初の国である淤能碁呂島(おのごろじま)になります。
ヒンドゥー教では、乳のような良い香りのする水を湛えた海を神々がかき混ぜると、女神ラクシュミーをはじめとして、太陽や月や宝石が現れ、最後に不老不死の妙薬である「アムリタ」の入った壷を手にした神ダンワタリが姿を現したとされます。仏教の宇宙観では、海の中に須弥山を中心として、その東西南北に、東勝身洲(とうしょうしんしゅう)、南贍部洲(なんせんぶしゅう)、西牛貨洲(さいごけしゅう)、北倶盧洲(ほくくるしゅう)という四つの島「四大洲(しだいしゅう)」があると考えます。
道教では、江蘇の海岸の先、東の海上に、仙人の住まう蓬莱山、方丈山、瀛洲(えいしゅう)山があると信じられていました。中でも蓬莱山は、秦の始皇帝の命を請けた徐福の一行が目指した聖地として有名です。マラヤ半島のジャングルに住むセマング族やサカイ族は、海の上に浮かぶ「果物の島」というパラダイスがあり、そこに行けば地上の人間を苦しめているすべての罪悪が洗い流されると考えました。さらに、それは、西から向かわなければ見ることができないと考えられていました。
聖地のイメージが島からはじまるというのは、島が生活の場である陸から隔てられていて、容易に近づけない場所であり、想像力を掻き立てられる存在であることから納得できます。今でも、海の中に孤立した島は、神秘的なイメージを漂わせています。謎の島で次々に起こる超常現象をテーマにしたアメリカのTVシリーズ"LOST"や現代のパラダイスとそこに起こる悲劇を描いたレオナルド・ディカプリオ主演の"ザ・ビーチ"に描かれるように、21世紀の今日でも、島が帯びる神秘性は色褪せていないのです。
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2019/02/08 カテゴリー: 02.ライフスタイル, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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昔から土地が漂わせる独特の雰囲気のようなものに興味があった。とくに登山やトレッキング、それにキャンピングなどで自然の中に身を置いていると、五感で感じ取るもの以外に、「気配」として感じられるものがあり、それが土地の個性そのものだと思え、それに惹きつけられた。
そうした土地の個性を醸し出す条件というのは、いったい何か。
地形はもちろんポイントとなる要素だし、地質も関係しているだろう。他に、その場所にまつわる歴史的な背景もあるだろうし、地域によって異なる文化的な背景も関係しているかもしれない。そんなことを考えているうちに、デジタルマップとGPSというツールが登場し、さらには様々な地質学的なデータや地球物理学的な知見が手軽に参照できるようになって、具体的に条件を絞り込めるようになった。また、そんな絞り込みを助けてくれるプログラムも使えるようになり、体系的に分析できるようになった。
それに、文化人類学や民俗学、宗教学、象徴学といった学問の体系を組み合わせると、その場所と関わりのあった人間や集団の意識が表出してくる。
神社仏閣や遺跡といった聖地や、奈良、京都、東京(江戸)のような古代から近世にかけて建設された都市を分析すると、土地が持つ「地勢」のようなものとそこに関わった人の意図がはっきりと見えてくる。そうした考察にフィールドワークでの検証も合わせて発表してみると、仕事に繋がるようになった。メディアで寄稿したりテレビに出演するだけでなく、地域や観光関連の企業からの依頼で、地域に眠っている聖地を調査し、その立地や構造の意味を明らかにして観光資源として活かしたり、「聖地観光」という観点からツアーコースを策定し、時によっては自分がガイドするといったようなことだ。
最近では、その幅が広がって、個人の住居や企業の事業所の立地や構造に関してアドバイスをしてほしいといった案件が増えてきた。昔なら風水や易占などに頼ったところだろうが、地域社会とそれが支えていた伝統というか因習が崩壊してしまい、一般には「得体の知れない」ことに関しての専門家がいなくなってしまったということがあるだろう。
近代以降は、効率優先の合理的な建築がメインとなり、かつてはそうした知識を多少なりとも持ち合わせていた建築士や開発業者も、非合理に見える風水や易などは無視するようになった。
それでも、家を建ててそこで家族が暮らしたり、事業所を設けようとなれば、リアルに自分と子どもたちの幸福を考え、事業の発展と従業員の幸福を願うから、単に合理的なだけではない安心できる「何か」の裏付け欲しくなる。その何かを求めても、昔のように合理性を欠いた占いのようなものを信じる心情は持てないし、「スピリチュアル」などと称するものには、運命を託したりできない不信感がある。そんな心情はよく理解できる。
トポロジー=位相学という言葉があるが、この言葉はギリシア語の「トポス」を元にしている。トポスとは位置や場所を意味するが、それは単なる場所ではなくて、そこで何かが喚起されるという意味を含んでいる。そうした「トポス」は、古来、哲学や地理学、宗教学の探求において、テーマとされることが多かった。それは、人が「場所」というものに特別な思いを持ってきたからにほかならない。個人が場所に対して抱くそんな思いは現代でも変わっていない。
これまでずっと聖地の構造やネットワークを調べ、それにまつわる科学や思想も研究してきたので、それを個人の住宅や事業所などにも援用できるという自信はあった。でも、パーソナルな問題となると、ただアカデミックに取り組み、推論を導き出して、それを物語として構成するといったやり方では済まなくなる。そんな思いもあって、「さすがに風水師や易者じゃないから頼られても困る」と断っていた。
ところが、知人の紹介で、どうしてもという依頼があり、初めて事業所の移転に関しての調査というか、「観立て」のようなことをすることになった。
その企業には、創業当時から顧問として風水や家相を観る専門家がいたのだが、その人が亡くなり、新たな事業拡大のために工場を設置する場所を確定できずに困っているのだという。今まで発展してきた過程で、事業所や工場をどこにどんな構造で展開してきたのかを詳しく聞き、それを地図上でシミュレーションしてみると、はっきり法則性があるのがわかった。基本的に南北のラインと二至のラインが目安になっていて、そのラインから外れないように、事業所を移転したり、工場を建てていた。また、そうした施設の構造も二至の太陽の運行ラインを意識して造られていて、さらに周辺の寺社などの聖地との位置関係も計算されていた。
この事例に出くわしたときに、ぼくが今駆使しているデジタルマップやGPSや地理学的なデータを用いずに、まさにドンピシャで計算できる先人がいたのだと感動してしまった。
そんなことがあってから、個人の依頼も受けてみるようになった。
別荘にある池を潰して敷地を有効活用したいのだけれど、大切にしていた池なので何か意味がないか調べてほしいといった話もあった。これは、敷地内の配置を調べてみると、おおまかに風水を意識した上で、池を二至のラインの上に設け、池の畔に置いた不動明王像に冬至の朝日が反射するようになっていた。こうした例は、不動明王を祀った寺院によく見られるもので、魔除けの意味があると伝えた。さらに、不動明王にこの日の朝日が当たるのが主眼だから、必ずしも池でなくてもいいのではないかとアドバイスした。
また、最近の事例では、新たな事業所の用地の地勢をシミュレーションしてほしいというケースがあった。まず、必要な情報として用地の住所と図面を用意してもらい、その敷地の方位的な特徴を解析した。場所は、太古からの安定した丘陵上で、東から南方向が開けていて、環境的にはのびのびとして明るいところである事がわかる。建物の構造も、豊かな日照の恩恵を十分に受けられるようにうまく設計されている。
そうしたことを見越したうえで、立地する土地周辺の歴史を掘り下げてみた。用地の近くには縄文から古墳時代にかけての遺跡が点在していて、太陽信仰の祭祀が太古から行われていたことが想像できた。そして、戦国時代にはこの地方の有力武将がその本拠地となる城郭を築いたが、その城を中心とした結界の構造を調べてみると、事業用地がその二至ライン上に位置していることがわかった。
城は、南東にある自然地形のランドマークから冬至の太陽が昇り、反対の北西側にあるこれも自然地形のランドマークの方向に夏至の太陽が沈むように、二つのランドマークを結ぶライン上に築かれている。そのライン上にぴったりと用地も載っていた。さらには、城が築かれたのは安定した丘陵の頂上部で、それも共通していた。このラインに沿って今は県道が直線を描いているが、それは古い街道で、まさに街道そのものがこのラインになっている。こうしたことがわかれば、先例を基準にして、その土地に刻まれた物語を正確に描き出すことができる。
古来の魔術的思考では、ミクロコスモスとマクロコスモスは構造的にコレスポンデンス(照応)関係にあるとする。マクロな構造がミクロな構造の中に折り畳まれているのはフラクタルでも同じだ。かつては都市計画の中に組み込まれた区画の中にも、さらにはその中にある住居も、共通の仕組みや構造を意識していて、それが全体の調和を形作っていたのだろう。
今まで、仕事のメインは地域全体や比較的広い区画を対象にしてきたけれど、それと並行して「ミクロな部分=個人や企業に関わる部分」にも目を向けていかなければならないなと感じている。地域おこしというのも、そんなコレスポンデンスな視点と施策が必要だろう。
2019/01/30 カテゴリー: 02.ライフスタイル, 聖地学 | 個別ページ | コメント (0)
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.158
2019年1月17日号
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◆今回の内容
◯大嘗祭の意味
・大嘗祭と日本神話
・大嘗祭が祀る神とは
◯お知らせ
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大嘗祭の意味
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昨年の11月、天皇の代替わりの後に行われる践祚大嘗祭(せんそだいじょうさい)について、秋篠宮が疑義を呈したにもかかわらず、宮内庁がこれに取り合わなかったことがわかり、物議をかもしたのは記憶に新しいところです。
秋篠宮は、践祚大嘗祭が宗教色が強い儀式であることから、新たに神殿を建てたりせずに宮中の神嘉殿(しんかでん)を活用して費用を抑え、これを天皇家の私費である内廷費で賄うという具体案を示していたのですが、宮内庁はこれを本格的に検討せずに、公費である宮廷費を使って新たに大嘗宮を設けて執り行うことにしていたという問題です。
神嘉殿は、毎年11月に「新嘗祭(にいなめさい)」と呼ばれる天皇が行う収穫祭の行われる場所です。践祚大嘗祭は天皇が交替して初めて行われる新嘗祭のことですから、秋篠宮の主張は的を射たものといえます。結局、神嘉殿を使って践祚大嘗祭を行えば、天皇家の私的な内廷費の積み立てから3億円程度を支出すれば賄えるはずなのですが、新たに大嘗宮を造営して行うという当初の方針が貫かれ、費用はその10倍近くあるいはそれ以上になるだろうと予想されています。
そもそも践祚大嘗祭とは、どのような意味を持つ儀式なのでしょうか。今回は、天皇家にとって最大の儀式であるこの践祚大嘗祭について掘り下げてみたいと思います。
●大嘗祭と日本神話
先にも書きましたが、そもそも践祚大嘗祭は新しい天皇が即位して初めて行われる新嘗祭のことです。この新嘗祭は宮廷の中でもっとも重要な収穫祭なので大嘗祭とも呼ばれていました。践祚とは天子が位を受け継ぐことを意味しますから、践祚大嘗祭はその名の通りの意味となります。
大嘗祭は7世紀の皇極帝の時代から始まったとされています。占いによって選ばれた斎田で穫れた新米を天皇が神に捧げ、それを自らも頂いて神と共食し、収穫を祝います。さらに践祚大嘗祭では、その後に新しい天子となるための秘儀がとり行われます。
源高明によって撰述された『西宮記』や大江匡房が著した『江家次第』には、新王は天の羽衣なるものを着て湯浴みした後に,悠紀(ゆき)殿・主基(すき)殿で新穀を食した後に、神座に設けた御衾(おふすま=寝具)に伏すと記されています。
新穀を共食するというのは、収穫祭という性格上ごく一般的な儀式といえますが、その後の神座に上がって御衾で神と同衾するという神事はかなり特殊です。これは、日本神話の中の天孫降臨のエピソードになぞらえられた儀式だといわれています。
日本書紀本文の天孫降臨の段では、天皇の祖先とされる瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)が高天原から地上に降臨する際、高皇産霊尊(タカミムスビノミコト)が真床追衾(まとこおふすま)で瓊瓊杵尊を包んだと記されています。
践祚大嘗祭で新天皇が神座に設けた御衾に伏すのは、天孫降臨を再現し、新天皇が真床追衾に包まった瓊瓊杵尊に擬態しているのは明らかです。これは秘儀であるため、その儀式の詳細は不明ですが、その目的は天孫降臨における瓊瓊杵尊の姿を擬態するだけでなく、瓊瓊杵尊の神霊を降ろし、これと同衾することで新天皇に瓊瓊杵尊の神霊が乗り移ることで、正式に皇孫に連なるということを表していると考えられます。
大嘗宮に天皇が入御する際には、行列の先頭に采女(宮廷女官)が先頭に立って先導しますが、これも瓊瓊杵尊が天下る際に、ウズメがその行列の先導をしたという天孫降臨神話を再現したものといえます。
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