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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.237
2022年5月5日号
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◆今回の内容
○鎌倉と陰陽道
・鎌倉の結界と陰陽道
・鎌倉陰陽師
・土御門本所の成立と陰陽道の消滅
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鎌倉と陰陽道
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2010年から10年あまり、藤沢にあった朝日カルチャーセンター湘南教室で定期的に講座を持たせてもらっていました。そのとき、鎌倉から江ノ島にかけては教室の地元ということもあり、何度かテーマとして取り上げ、野外講座も開催しました。
「結界」というと、すぐに思い浮かぶのは、平安京創建にあたって桓武天皇が実弟の早良親王の怨霊を鎮め抑えるために張り巡らせた結界が残る京都や、徳川家康のブレーンだった天台僧の天海僧正が東国を武士の王国として築こうとした江戸の結界が思い浮かびますが、じつは鎌倉も具体的な意図がはっきりした緻密な結界が残されている場所なのです。
数度の座学と野外講座で、おおまかな鎌倉の結界を把握し、今度はそれを誰が仕掛けたのかを探究していこうと準備していた矢先に、コロナ禍となり、ホームベースであった湘南教室が閉鎖の憂き目にあい、立ち消えとなってしまいました。
このゴールデンウィークは、コロナ関連の厳しい制約が解かれて、全国各地で数年ぶりの人手が戻ってきましたが、このまま以前のように自由に人が往来できるようになって、講座も再開できればと願いつつ、講座再開を見据えて、鎌倉の結界がどのような経緯で築かれたのか、それにはどのような陰陽師が関わったのか、さらに、その後の陰陽道に与えた影響について触れてみたいと思います。
●鎌倉の結界と陰陽道●
鎌倉の結界に関しては、この講座の第20回でもテーマとして取り上げていますので、詳細はそちらをご参照いただくとして、ここでは、まずその概要を振り返ってみましょう。
鎌倉の市街地から若宮大路を辿っていくと、鶴岡八幡宮に突き当たります。その背後には北鎌倉の丘陵が屏風のように連なっています。
鶴岡八幡宮を起点にして、この屏風の裾野をまっすぐ東に辿っていくと、鎌倉幕府を起こした源頼朝の墓、幕府の本拠であった大蔵の鬼門を封じる荏柄天神、明治政府が創建した鎌倉宮、建武の新政で鎌倉幕府倒幕に貢献した護良(もりよし)親王の墓が並んでいます。鎌倉宮は元は東光寺という寺院で、護良親王の墓所がある高台には理智光寺がありました。これらはいずれも、荏柄天神と同様に鎌倉幕府守護の性格を帯びた場所でした。
康平六年(1063)、河内源氏二代目の源頼義が、陸奥守・鎮守府将軍として東国討伐を行い、前九年の役で勝利した帰りに、河内源氏の氏神である石清水八幡宮を鎌倉の由比郷鶴岡に由比若宮(鶴岡若宮)として勧請。これが鶴岡八幡宮の前身といわれます。
治承四年(1180)、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、鶴岡若宮から八幡神を現在地の小林郷北山に遷し、鎌倉幕府成立後は幕府の守護神として祀りました。
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