竹中平蔵氏が主催するライフスタイルサロンで、江戸時代を題材にした小説や文化論、 エネルギー論で知られる石川英輔氏の講演を聞いた。
「ダモクレス」 、「earth」 でも触れたように、地球温暖化による人類存亡の危機が刻々と迫る中で、江戸時代の洗練されたリサイクル社会についての石川氏の紹介は、 とても刺激を受ける内容だった。
「ハイブリッドにしようが、電気にしようが、クルマほど無駄な移動手段はありません。だって考えてもみなさい、 私は体重68kgですけど、その自分の体と、ちょっとした荷物を運ぶために、1tとか2tの『物体』を動かさなければならないんですよ。 電気だろうがガソリンだろうが、2000kg-68kg分のエネルギーは、まったくの無駄になっているわけですからね」
といった調子で、身近なものの事例をたくさんあげて、現代がいかに非効率な社会で、 リサイクルやサステイナブルからいかに遠いかを教えてくれる。
「昭和35年くらいまでは、江戸率は70%くらいだったんですよ。この当時は、 日本人一人当たりのエネルギー消費率は1万キロカロリー/日で、今の10分の一以下。それが大阪万博の頃には、5万キロカロリー/日で、 今の半分のレベルになる」
「杉の風呂桶」 でも書いたように、ぼくが子どもの頃は、ペットボトルなどなくて、市販の飲料は、すべて使いまわしできるガラス瓶に入っていたし、 着るものは天然素材のものがほとんどだった。小さな畑で祖母と野菜を育てていたが、 それだけで一家五人が食べる野菜の半分以上はまかなえていた。手漕ぎの井戸から溢れる水はとても冷たくて、旨いミネラルウォーターだった。 田んぼや畑には、下肥が使われ、畑に踏み込んで遊んでいると肥溜めに落ちたりしたものだった。
子どもの頃の朝のぼくの日課は、味噌汁に入れるためのニラやらほうれん草やらを畑に取りに行き、鶏小屋に入って、 けたたましく威嚇してくる雌鳥を半泣きになって追い散らして、生みたてのタマゴを強奪してくることだった。
あの頃は、たしかに石川氏が言うように、「江戸率=リサイクル率」がとても濃い時代だった。
便利になったようで、逆に、物事の意味が希薄になり、いつも気ぜわしく追い立てられている今に生きていると、一つの理想郷として、 子ども時代が思い起こされる。
今と比べて、何か不自由だったかという、とくに思い至らない。あの頃は、もっと季節感がはっきりしていて、人の生き方も、 季節の変化との一体感があった。
江戸時代に逆戻りして、質素で穏やかな暮らしができればいいとは思わないし、それが可能だとも思わない。 車がここまで普及した世の中では、それを一気に公共交通機関や自転車に切り替えようというのも現実的ではないし、 より燃費のいい車に切り替えたり、代替燃料を使ったりすることもとても大切だと思う。
「私が住んでいる家は、もうだいぶ古くて、この前、タイル張りの風呂が壊れてしまったんですけど、昔の家は、 最初に風呂を作ってから周りを造作していくから、今までの大きさの風呂は入らない。
そこで、建物を壊さずに入れられる風呂にしたら、これがもう、座棺のように膝を曲げないと入れなくてね。最初は、 風呂で足を伸ばすこともできなくて情けないと思ったんですけどね。
使う水が少ないから、風呂はすぐ沸いて、ガス代も浮くし、もちろん水道代も安くなった。洗濯機に残り湯を移すと、 風呂桶の1/3くらいは使うので、水を有効利用している満足感もあってね、逆に楽しくなってきたんですよ」
『風呂は、手足を伸ばしてゆったりと浸かりたい』といった、価値観というには大げさだけれど、 当たり前のように思っているイメージをいったん払拭して、小さい風呂ならではの利点を見つけ出して楽しむように、生活の様々な局面で、 『足るを知る』といった視点でライフスタイルを見直していけば、案外、楽しく生きていけるし、それが波及すれば、今、 人類にとって差し迫った課題になっているサステイナブルな世の中というのが、実現できるのかもしれない。
最近のコメント