ウクライナの無惨に破壊された国土、ガザの焼けただれ瓦礫となった街並み。ニュース映像の中で、私たちは現実が音を立てて崩壊する瞬間を見せつけられている。そこに映るのは、もはやどこの国という限定を超えた、現代文明の断面である。
その瓦礫の光景に対して、ある者は「神の罰」や「終末の予兆」として意味づけるかもしれない。だが別の者は、神の名のもとに正当化されるその破壊を、ただの断絶、ただの痛みとして受け取るかもしれない。
同じ現実に、異なる倫理的な解釈が共存する。その差異の深層には、「原罪」という観念の有無が潜んでいる。そして、それは同時に、アニミズム的な祈りやシャーマニズムの感受性と、いかに異なるかという問いにもつながっている。
「その木の実を食べると、あなたたちの目は開け、神のように善悪を知る者となる」――(創世記3:5)
旧約聖書に記されたこの一節は、人類の知性の目覚めを「罪」として語る構造を象徴する。
善悪の知識の木の実を食べたアダムとイブは、自らの裸を恥じるようになり、神から追放される。ここで語られるのは、自由意志の獲得と引き換えに支払われる存在論的罰、すなわち原罪である。
この神話の根底には、「絶対的な神」と「それに従属する人間」という明確なヒエラルキーが据えられている。人間は創造された存在であり、神の命令に背くことはすなわち存在の本質的背信を意味する。
この上下関係こそが、一神教的宗教構造の核心であり、神の絶対性は人間の罪性と表裏一体の関係にある。
原罪の神話は、人間の知・選択・自己判断を「神の権威への挑戦」として語る。倫理とは神の命令に従うことであり、人間の側にあるのは服従と悔悟である。こうして、神と人間の関係は「主」と「僕」という非対称的構図において固定化される。
アウグスティヌスは、アダムの罪を全人類に遺伝的に伝播する「普遍的堕落」として捉え、救いは神の恩寵によってのみ与えられるとした。ここに、「努力しても救われない人間」という構図が成立する。
この神学的構造はやがて社会倫理へと浸透し、自然界との関係性にも投影されてゆく。
「地を従わせよ。空の鳥、海の魚、地の生き物すべてを支配せよ」(創世記1:28)
この言葉は、神が人間に与えた「自然征服の命令」として、聖典に刻まれた原理である。この命令は、ヒエラルキーの構図を自然界にまで拡張し、神→人間→自然という三層の垂直関係を形成する。
ここでは、自然は神が人間のために創造した従属的な資源とされ、人間がそれを支配・管理することは倫理的に肯定される行為であるとされる。征服と支配は神の意志に適うものとして、正義化される。
この構造は、近代以降の科学技術による自然支配と強く共鳴し、文明の発展と倫理的善とを重ね合わせる下地となった。
これに対し、アニミズムやシャーマニズムにおいては、世界はヒエラルキー的ではない。
アニミズムは、すべての存在に霊性が宿るとする世界観であり、人間・動物・植物・鉱物・風・水に至るまで、すべてが生きており、意志を持つ存在として捉えられている。
このような世界では、「上位者」は存在せず、関係性は水平的である。倫理とは命令に従うことではなく、関係性のなかで調和を保つことである。
シャーマンは、こうした多層的な存在のネットワークの中に身を置き、病や災いが関係の断裂から起こると捉える。そして、その断裂を修復するために祈り、歌い、旅をする。
ここでは、祈りは「命令の遂行」ではなく、「関係の再統合のための行為」である。
たとえば、アイヌの口承神話においては、カムイ(神)が人間の忠告によって自らの誤りに気づき、謝罪するというエピソードが存在する。神が人間と対等な存在でありうるという想像力こそが、非ヒエラルキー的世界観を体現している。
ネイティブ・アメリカンの言葉 "All my relations" にも示されるように、人間は他者に対して優越する者ではなく、共に存在する者としての責任を持つ。
このような世界では、自然との関係は征服でも管理でもなく、聴取と応答の関係である。
冒頭で述べた、戦争によって破壊された都市の映像に話を戻そう。
その光景を、一神教的倫理観の中では「人間の罪に対する罰」として、あるいは「再生の前触れ」として受け止める構造がある。バベルの塔の崩壊や、ソドムとゴモラの滅亡、黙示録に語られる終末のビジョンが、それを裏打ちする象徴体系として機能している。
だが、アニミズムやシャーマニズムのまなざしにおいて、瓦礫とは、自然界との関係が断たれた結果であり、祈りによって回復されるべき「傷口」として映る。
それは、浄化のための犠牲ではなく、断絶された声を聴き取り、もう一度語り直すべき物語の中に置かれる。
私たちは今、語られすぎた「罪の物語」から、語られてこなかった「共生の声」へと耳を傾けるべき時に立っている。
原罪という語りは、人間の尊厳を「罪を背負う存在」として構築した。しかしそれは、自然との断絶を正当化し、他者を「裁く視線」に置き換える契機ともなってきた。
それに対し、アニミズムやシャーマニズムにおける世界は、そもそも罪という観念を中心に据えず、あらゆる存在を平等な「語りの主体」として尊重する。そこでは人間は中心でもなく、神の代理者でもなく、ただ「聞き手」であり「祈り手」として存在する。
破壊の正当化ではなく、痛みと共に在る祈りへ。
断罪の物語ではなく、再び語り直すための静かな沈黙へ。
いま必要なのは、支配と命令の倫理から、共鳴と関係の倫理への転換ではないだろうか。