真夏の早暁に目が覚めて、ふと、トポロジーという言葉が浮かんだ。たんに位相空間というのではなく、鎌田東二が提唱した「意識の位相空間」という意味でのトポロジー。
情報が過剰に流れ続ける社会にあって、私たちは静けさを感じる力を徐々に失っているように、ふと感じる。一つひとつの出来事が、深まる前に流れ去り、場所や記憶に刻まれる余地がない。
このざわつきのなかで、かつて私たちの感覚の奥底にあった「静かで深いトポス」のようなものが、今では手の届かないものになりつつあるのではないか―そう思えてならない。
鎌田東二は『聖トポロジー』の中で、「聖なるもの」はあらかじめどこかにあるのではなく、身体と場との相互作用のなかで生成されるものだと語った。それは、何か神秘的な力を持った場所が人間を変えるということではなく、人間の身体そのものが、声を発し、歩き、祈り、舞うことで場に意味を刻み込む、という逆向きの視点である。
神楽、能、修験の行―これらはすべて、身体が「意味の場」を生み出す具体的な技法であると言える。山に登り、川を渡り、峰を駆け、九字を切り、経を朗唱するという修験の身体行為は、まさに、空間を「聖なるものが立ち現れるトポス」へと変えるといえる。
だが、今の私たちはどうだろうか。
「聖地」と呼ばれる場所が、あまりにも軽やかに消費されてはいないか。「パワースポット」などという名前で、安易な効能が付与され、ソーシャルメディアの背景としてのみ機能していく。マーケティングの対象とされた瞬間から、それはもはや「聖なる場所」ではなくなる。そこには意味の希薄化、そして聖性の脱トポス化とも言えるような現象が起こっている。
トポスとは、記憶や行為が積層することによって初めて立ち現れるものだ。単にそこに「行く」だけではなく、どうそこに「いるか」が問われる。ざわつきから距離を取り、沈黙のなかで耳を澄ますとき、ようやく空間は応答を始める。
鎌田は「身体がトポスを生成する」と言った。私はこの言葉を、今の私たち自身のあり方への問いとして受け取りたい。
巧妙なマーケティングやソーシャルメディアの垢にまみれてしまった空間ではなく、身体と場が相互に作用し合い、深い意味が立ち上がってくる場所を、私たちは取り戻すことができるのか。そして、私たちは自らの行為によって、あらたなトポスを創出することができるのか。
たとえば、誰もいない浜辺にただ立ち尽くすという行為。
あるいは、ただひたすら森の中を黙って歩くという行為。
そのとき、場所は少しずつこちらに向かって開いてくる。意味をつくるのは、私たちの身体であり、時間であり、沈黙である。
静けさを感じる感性を持ち直すこと。ざわつきに巻き込まれたままでは、何も深まらない。情報の洪水のなかで、あえて「遅く、静かに意味を刻む行為」こそが、今、最も切実に求められているように思う。
それができるかどうかは、特別な才能や宗教性などとはままったく関係がない。ただ、いま自分が立っている場所と、そこにある風の音や光と、どれだけ真摯に交わることができるか。それだけのことのはずだ。