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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.79
2015年10月1日号
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◆今回の内容
1 聖地の基本を伝える「いわきの聖地」
縄文の聖地から受け継がれる「岬聖地」
龍燈と磁気異常
活断層と聖地
古代・中世の鉱山技術者の痕跡
2 お知らせ
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聖地の基本を伝える「いわきの聖地」
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この講座の第75回で、福島県いわき市の市政施行50周年記念事業の一つとしてレイラインハンティングによる聖地の観光資源化事業がはじまると書きましたが、いよいよ本格的な調査に入りました。
いわき市は、小豆島を除いた香川県とほぼ同じ広さを誇り、太平
洋に面した平野部と阿武隈山地に深く食い込む山間部でまったく異なる自然環境と文化を持っています。歴史的には大和朝廷と蝦夷とのせめぎ合いの場所であり、黒潮に乗ってやって来た海洋民のプロムナードであり、さらには奥州藤原氏に連なると思われる古代鉱山技術者たちの痕跡も散見されます。
聖地とされる場所には、いくつかの代表的なパターンがあります。例えば、太古の太陽信仰の祭祀場や巨石信仰の名残がある場所、活断層の周辺や磁気異常のような地学的に特殊な条件の場所です。いわきには、そうした聖地が成り立つためのファクターが明確に表れています。いわきは聖地の見本帳といってもいいような場所なのです。
今回は、そんないわきの聖地を例に、聖地が成り立つパターンについて、あらためて考察してみたいと思います。
【縄文の聖地から受け継がれる「岬聖地」】
中沢新一は『アースダイバー』で、東京の神社仏閣や遺跡の多くが立地する場所が、縄文時代の海進期に海に突き出た岬の上であったことを太古の地形図と現代の地図をレイヤーすることで証明しました。
現代でも海に突き出た岬の上に寺社が立つ光景はよく見られます。その多くは、縄文時代の祭祀遺跡の上に建てられていたり、あるいは社殿の背後に縄文遺跡を背負う形になっています。
岬の先に広がる海は、朝日が昇り、夕陽が沈んでいくところです。太古の太陽信仰では、朝に太陽が生まれ、夕方には太陽は死んでいくと考えられていました。海は太陽が生まれ、死んでいくところなのです。暦を用いるようになると、冬至に太陽が死に、翌日蘇ってくると考えられました。そうした、太陽の生没を望む岬は、太陽に思いを届ける聖なる場所でした。
一年でもっとも太陽の力が強くなる夏至の日は、太陽の光が強い生命力をもたらし、この光を浴びることで子宝と五穀豊穣がもたらされると考えられました。とくにそれを意識した聖地では、男根を象ったご神体が単体か女陰型のご神体とセットで据えられていました。
以前紹介した伊豆の稲取は、勃起した男根型の稲取半島が夏至の日の出の方向を指していることから、子孫繁栄と五穀豊穣の聖地とされ、夏至の日に、男根を象ったご神体を神輿に据えて街を練り歩くような祭りが伝えられています。
海に面している岬ならすぐに見分けがつきますが、中沢が『アースダイバー』で取り上げた東京のように、太古の岬が海が後退して陸の中の丘になった場合は、「岬の聖地」という観点になかなか結びつかないものです。
ところが、いわき市の調査では、海岸に近い地域の聖地が、まさに『アースダイバー』で示されたものと同じ条件になっていることに、比較的容易に気づきました。
いわき市の中心街から東へ4kmあまり、海岸線が見渡せる丘の連なりの上に、大國魂神社と水守神社があります。
大國魂神社は、延暦年間に坂上田村麻呂が東夷を討つため当地を通過する際に荒れた古祠を発見し、土地の者に聞いたところ大國魂神社であると教えられて、ここで戦勝祈願したのが始まりと伝えられています。この伝承からは、この場所が平安時代初期よりも古い時代から聖地とされていたことがわかります。
参道と本殿は南向きなので、一見、ノーマルな神社に見えます。ところが、本殿から北東方向に300m離れた畑の中に、特別目立つ円錐形の古墳があり、この古墳との位置関係に着目すると、隠された意味が見えてきます。この古墳は通称甲塚と呼ばれています。本殿から甲塚の方向を見ると、夏至の日の出に一致します。反対に甲塚から本殿の方向は冬至の入日方向になります。甲塚古墳は、古代にこの地方を治めた国造建許呂命の墳墓と伝えられていますが、はっきりしたことはわかっていません。
かつて岬の先端だったところに神社があり、それと夏至冬至のラインを形成するように古墳が配置されているところを見ると、両者がセットで太陽信仰の祭祀場を形成したと考えるのが妥当でしょう。
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