白濱神社参道に沈む2013年の冬至の夕陽(伊豆急・鈴木正人氏撮影)
白濱神社の浜鳥居は、本殿から見て祭神の出身地である三宅島を指す位置に置かれている
寝姿山山頂から見た伊豆急下田駅。伊豆急下田駅は、白濱神社から見て冬至の入り日の方向に位置する。さらに、夏至の夕陽は、下田駅から見ると下田富士の背後に沈む
白濱神社境内の構造図。ここが太古の太陽信仰の聖地であったことを物語っている
白濱神社と伊豆急下田駅の位置関係。伊豆急行線は白濱神社に守護される形に配置されている
今年の冬至は、12月22日。
この日の夕刻、伊豆下田の白濱神社では、本殿から見て参道の真ん中に太陽が沈んでいきます。
冬至は、太陽の再生を願うと同時に、生命がリセットされる「浄化の日」として、太古から祝われてきました。クリスマスは元々ケルトなどの古い民族の冬至の祭りが変化したものです。また、日本で冬至に柚子湯に入り、唐茄子汁粉を食べるのは、太陽を柚子に見立て、太陽とともに再生することを意味し、オレンジ色の唐茄子(かぼちゃ)は太陽の力を象徴して、それを体に取り込んで一年の無病息災を祈るという意味がありました。
伊豆では、縄文時代から太陽信仰が盛んで、白濱神社も縄文時代の祭祀が行われた聖地がそのまま受け継がれてきたものでした。白濱神社の冬至太陽祭祀は、1万年近くも遡る古い信仰を伝えているのです。
白濱神社から見た冬至の夕陽の沈む方向には、伊豆急下田駅があります。下田駅は太古からの太陽信仰に縁の場所に置かれ、伊豆の守護神である白濱神社を伊豆急行の守り神としているのです。
12月22日は、白濱神社での夕陽参拝をクライマックスとして、役行者縁の石室神社や下田市内の聖地を巡って、冬至の雰囲気を存分に味わいます。
2015年を爽やかに迎えるために、ぜひ、マジカルな浄化の一日を伊豆で過ごしましょう!!
ツアーは一日ですが、連休ですので、前日は伊豆の他の聖地巡りをして、仕上げに下田もお勧めです。
http://www.izukyu.co.jp/kanko/leyline_3rd/index.html さらに、20日には、朝日カルチャーセンター湘南教室で、「伊豆の太陽信仰」の講座を開催します。ご興味のある方は、ぜひ、ツアーとダブルで!!
http://www.asahiculture.com/LES/detail.asp?CNO=260771&userflg=0
-----以下、参考記事----
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.23
2013年6月6日号
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◆今週のメニュー
1 伊豆半島の聖地
・伊豆山と富士山を結ぶもの
・来宮=木宮=紀宮
・伊豆の太陽信仰
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気象庁は、5月のうちに早々と関東の梅雨入り宣言をしましたが、梅雨前線は南に下がって、梅雨入り直前よりもいい天気が続いています。
私がまだ学生だった30年以上前には、登山の時は小型の天気図帳を持っていて、テントの中で短波の気象通報を聞きながら天気図を起こして、その日の行動を決定したものでした。当時はまだ今ほど異常気象が顕著ではなくて、「梅雨明け十日(梅雨前線が太平洋高気圧に押し上げられ、日本列島が太平洋高気圧に覆われて梅雨明けすると、その後十日間は天気が安定する)」のセオリーも当てはまる、比較的安定した気象でしたが、それでも天気図から天気の変化を正確に予測するのはとても難しいものでした。
観測技術や機器は飛躍的に進化しましたが、地球の生理が大きく変化して、過去のセオリーが当てはまらなくなってしまったことで、トレードオフのように予測は難しくなりました。梅雨入りをはぐらかすような梅雨前線の南下を見て、今の予報担当者の苦労が目に浮かびます。
と言いつつも、ちょうどこのタイミングで、伊豆半島のレイラインの本格的な取材がはじまり、予想しなかった晴れ間に喜んでおります。
この講座の18回と19回で、伊豆半島のフィールドワークの話を掲載しましたが、その後、伊豆急沿線でレイラインのポイントを調査し、それを結ぶツアーを開発していく契約が正式に決定し、その調査を開始したのです。
これから三ヶ月あまり、頻繁に伊豆に通って克明な調査を行なっていきますので、しばらくはその具体的な成果を元に、聖地の本質に迫っていきたいと思います。
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伊豆半島の聖地
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【伊豆山と富士山を結ぶもの】
伊豆半島の聖地は、熱海の伊豆山を中心とする修験道系、やはり熱海の来宮神社を中心とする来迎神もしくは漂泊神系、さらに三嶋大社を中心とする太陽・火山信仰系の三種類に大別できます。
これら三つの信仰をバックボーンとした聖地が、半島全体、特に東海岸に多く点在しています。
この三つの系統のうち、まず伊豆山系について見てみましょう。
熱海駅から北北東へ1.5kmあまり、緩く弧を描きながら北西へ折れていく道を辿ると、鬱蒼とした緑に覆われた丘陵に吸い込まれるような伊豆山神社の参道へと続きます。急な階段を登り切ると、落ち着いた社殿が出迎えてくれます。今は本殿の壁に施された彫刻の塗りなおしの作業が行われていて、組まれた足場の間から極彩色に塗り替えられつつある彫刻の一部だけが顔を覗かせています。
『梁塵秘抄』によれば、「(伊豆山は)我国第二の宗廟(第一は伊勢大神宮)と崇め、関東の総鎮守なり、往古より武門誓詞の証明、開運擁護の霊神と称し奉る。山中の秘所は八穴の霊道・幽道を開き、洞裏の霊泉は四種の病気を癒し、二十六時中に十方の善悪・邪正を裁断したまう事、この御神の御本誓なり。八穴道とは、一路は戸隠・第三の重巌穴に通ず。二路は諏訪の湖水に至る。三路は伊勢大神宮に通ず。四路は金峰山上に届く。五路は鎮西・阿蘇の湖水に通ず。六路は富士山頂に通ず。七路は浅間の峰に至る。八路は摂津州・住吉なり。四方の修験霊験所は伊豆の走井(走湯)、信濃の戸隠、駿河の富士山、伯耆(鳥取)の大山、丹後の成相、土佐の室生、讃岐の志渡…」とあり、伊豆山が全国の聖地の一つの中心地のように取り上げられています。
伊豆山の伝承でもっとも有名なのは、修験道の創始者である役小角が伊豆山を見出し、ここを聖山として開いたという話です。
奈良の都で様々な奇跡を行い、宗教的なカリスマとなっていた小角は他の宗教勢力の妬みを買い、文武三年(699)に妖術をもって人心を惑わした罪により、伊豆大島へ流刑されます。しかし、仙術を自由自在に使いこなす小角は、昼間はおとなしくしているものの、夜になると自由に空を飛んで、冨士山で修行を積んだとされています。その小角がある日、伊豆大島から伊豆半島を見渡していると、五色の彩雲が棚引いているのを見つけます。その場所が伊豆山で、小角はさっそく伊豆山へ向けて海を渡ってきます。
伊豆山の磯辺に小角が辿り着くと、海の底から金色八葉の蓮華に乗った菩薩や天仙、千手千眼の観音が現れたかと思うと、たちまち姿を消し、その後に金文字で書かれた経文が浮かんでいました。経文には無垢霊湯、大慈心水、沐浴罪滅、六根清浄とあり、小角は伊豆山権現を祀る堂を伊豆山の麓の「走湯(そうとう)」と呼ばれていた源泉近くに設けたとされます。この伝承が、ひろく伊豆山開山の由来として伝えられています(小角以前に遠い異国から渡ってきた三人の仙人が開いたという伝承もあります=走湯山縁起)。
小角にひき続いて、空海もここで修行したという伝承もあります。先に挙げた『梁塵秘抄』の文章の中に関連する霊験所として土佐の室生、讃岐の志渡という二つの四国札所が数えられ、室生は空海がまさに悟りを開いた場所であることからも、伊豆山が修験道確立期から重要な聖山として知られていたことがうかがえます。
『走湯山縁起』では、伊豆山と富士山が、それぞれ両界曼荼羅の入口と出口に当たるという記述もあり、それは伊豆山神社の配置で体現されています。
伊豆山神社の本殿と正面から向かい合うと、その背後は方位角310°になりますが、これは正確に富士山頂を指し示しています。また、社殿背後の緑濃い丘はご神体山といえますが、そこにある本宮神社もこの線上に載せられています。これは、伊豆に配流された小角が富士山まで飛んで修行を重ねたという伝承にも符合し、冨士山と伊豆山の結びつきが深いことを示しています。
伊豆山修験の一つの特徴は、伊豆の海岸部に多い海蝕洞窟を修行場とすることですが、両界曼荼羅の地下世界で繋がるとされる富士山も溶岩台地にできた深い洞窟(風穴や氷穴など)が修験の修行場とされていました。伊豆の洞窟の中からは空と海しか見えず、冨士山の洞窟の中は外界の光が微かに指すだけで、それらに篭り、開祖の役小角を思い浮かべながら修行に励めば、自ずと小角の伝説が思い浮かび、それがリアリティをもって感じられたことでしょう。伊豆山神社からは富士山を目視することはできません。しかし、GPSの計測で非常に正確に富士山を指しているということは、単に役小角の伝説に符号させただけではない、もっと具体的な意図が秘められているように感じます。
伊豆山神社の境内には、雷電神社という摂社が祀られています。これは、方位角220°で、背後に熱海の来宮神社を背負う格好で配置されています。来宮神社についての詳細は後述しますが、来宮はしばしば木宮とも記されるように、樹木信仰をベースに持っています。熱海の来宮神社は樹齢1000年を越えるといわれる大楠がご神体とされ、神社の由緒には「元々は自然信仰の聖地だった」と明記されています。
修験道は山岳信仰をベースとしていて、山に含まれる巨石や巨木も聖なる力が具現したものとして崇めます。そういったことを考えると、熱海の来宮神社はもとは伊豆山の神域に含まれる修行場だったのかもしれません。
雷電神社の横にある手水は、紅白の龍の口から水が流れ出していますが、この紅の龍は火を表し、白は水を表しています。火と水は陰陽五行の概念ではともに消し合う「相克(そうこく)」という関係にありますが、ここでは、火に象徴される火山と、水に象徴される海が出合い、ぶつかり合ったところで大地が生まれ、さらにそのダイナミックなエネルギーの奔出が温泉を生んだととらえられているわけです。また、雷電は火山噴火の荒々しさを象徴しているといえるでしょう。
伊豆山神社の祭神は、伊豆山神(天忍穂耳尊(あめのおしほみみのみこと)、拷幡千千姫尊(たくはたちぢひめのみこと)、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと))の三神とされていますが、これは明治の神仏分離令によってかなり強引に付会されたもので、実際には明らかではありません。
そもそもが神仏習合の修験道の聖地であり、また火山信仰も含まれていたことを考え合わせると、ここは様々な神仏が混淆しあうプリミティヴな聖地であるといえるでしょう。
熱海には、日本の私立美術館の先駆けであるMOA美術館がありますが、これは、伊豆山神社と来宮神社の間にあって、伊豆山神社の配置とまったく同じく富士山を背にする形になっています。また、その西には広い丘の中腹一面を利用して階段状に建設された熱海パサニアクラブというリゾートマンションがありますが、これも同じく富士山を背にしています。意図的なのか単なる偶然なのか定かではありませんが、大規模な建築物は今でも風水やレイラインということを意識して建てられるケースが多いので、そのうち、関係者に取材してみたいと思います。
【来宮=木宮=紀宮】
伊豆山神社から南西に2kmあまり、市街地の中に来宮神社があります。ここは、先にも触れたように大楠がご神体として祀られています。本殿の向きは南で、これはノーマルな神社の配置です。
ところが、境内を見ると、参道の西に配置された稲荷社は伊豆山神社の本殿と同様に富士山を背にしています。さらに参道の東、やはり1000年近くの樹齢とされる大楠の横に、修験道の社としてポピュラーな三峯神社の小さな社が置かれています。この社は、参道を挟んで大きな磐座を見つめるように向けられ、木と岩という修験の信仰要素をはっきり示しています。
伊豆半島には、この熱海の来宮の他、第18回で紹介した来宮八幡宮、19回で紹介した河津来宮神社など「来宮」を名乗る神社が点在しています。いずれも樹齢数百年から1000年を越えるご神木を拝し、さらに海からやってきた漂泊神や神像、仏像などがご神体とされています。とくに樹木信仰の色合いが濃いところから「木宮」とも表記され、あるいは、ご神体が紀伊の熊野から海に流れ、黒潮に乗って北上して伊豆半島にまで流れ着いたといった伝承もあり、ご神体が紀州をルーツとすることに因んで「紀宮」と表記されることもあります。
伊豆半島の中部から南部にかけては賀茂郡が大きな面積を占めています。賀茂は、京都の上賀茂神社や下鴨神社、さらに鴨川などに名を残す賀茂氏のことです。賀茂氏は、日本神話において神武天皇が東征する際に紀伊熊野で先導役を果たした八咫烏をルーツとする賀茂県主を祖先とするという説と、古代に大和盆地を支配した大物主の子である大田田根子の孫大鴨積を始祖とするという説があります。いずれにしても、現在の京都北部から奈良、熊野という広大な地方にその痕跡を残しています。
その賀茂氏が、来宮信仰の元となった漂泊神と同じように、熊野から黒潮に乗って北上してきたと伝えられています。
現在の南伊豆町には、あちこちに賀茂という地名や賀茂氏の伝承が残っていますが、南伊豆町の山間に行くと、緩やかな起伏を描く丘陵に囲まれた盆地がところどころにあり、長閑な風景を見せています。それは、ちょうど京都の大原あたりや大和盆地南部の明日香あたりと雰囲気がそっくりで、賀茂氏が海を渡って伊豆半島に辿り着いたとしたら、故郷に雰囲気のそっくりなこの場所に定着しただろうと思わせます。
陸上交通の発達した近代以降では、半島というと主要なルートから外れた「僻地」のような印象がありますが、海上交通のほうが物流のメインだった古代から中世にかけては、逆に半島のほうが様々な地方の人や文化が流入する先進地域でした。現在のイメージを捨てて、古代や中世のイメージで伊豆半島を見渡すと、幕末に開港場として開けた下田だけでなく、様々な場所や文物がエキゾチックに見えてきます。
東伊豆中部の稲取には、港の傍らに地元の人が「八百比丘尼」と呼ぶ像が道祖神とともに祀られています。風化が進み、顔の表情や手足のディテールはまったくわからなくなってしまっていますが、立膝で座り、両手を体の前で合わせているフォルムは確認できます。これは、若狭に生まれた八百比丘尼が諸国行脚のうちに伊豆にやってきてここで仏教を伝えていたその姿を映したものとされています。
漁師である父親が持ち帰った人魚の肉をそれと知らずに食べて、不老不死となってしまった少女が、身寄りはみんな死に絶えても自分は少女のままで、死ねない辛さに耐えかねて尼となって諸国行脚に出る。そして、八百年間諸国を彷徨った末に故郷の若狭に戻り、そこで念仏を唱え続けながらやがて八百年の時を一気に取り戻すように、風化していった。というのが、若狭に伝わる八百比丘尼伝説です。
その若狭の八百比丘尼の消息譚が伊豆の稲取に残るというのも、やはり紀伊半島との黒潮による繋がりを強く感じさせます。
若狭は朝鮮半島や大陸からの渡来民の流入地であり、八百比丘尼の話は朝鮮半島由来の不老不死にまつわる伝説が若狭の創世神である若狭姫のイメージと結びついて出来上がったものと考えられます。さらに、若狭に流入した渡来民たちはそのまま南下して行き、大和盆地に入ると、彼らの持つ高い技術や文化が大和朝廷に認められて重用されます。そして、大和に定着しなかった者たちは、さらに紀伊半島を南下して、熊野に辿り着きます。そのうちの、さらに新天地を求めて太平洋に船出した者たちが伊豆半島に辿り着く…稲取の八百比丘尼の伝説も、まさに漂泊神信仰である来宮信仰に符合しているといえます。
下田の市街地にある稲田寺(とうでんじ)は、大きな阿弥陀如来の坐像があることで有名ですが、その阿弥陀如来像の脇侍である観音・至勢両菩薩は、特徴的な立膝をしていて、稲取の八百比丘尼像との共通性を感じさせます。
この稲田寺を開いた開山上人は15世紀中頃に下田に漂着したと伝えられています。15世紀は、熊野から補陀落浄土を目指して船出するいわゆる「補陀落渡海」が盛んだった時期でもあり、あるいは開山上人も補陀落渡海僧の一人で、紀州から黒潮に乗って下田に流れ着いたのかもしれません。
今回、そんな来宮信仰の現代版というか、これから新たな来宮の伝説が生まれそうな事例に遭遇しました。
下田の北部、白浜海岸にほど近い竜宮島の磯に、1994年に一体の木彫りの観音像が流れ着きました。それを見つけた地元のお婆さんが、島の丘の上に運び、そこに観音像を野ざらしのままに置きました。時々、それが気になって拝みに行くと、観音像はそのまま立っています。
このまま野ざらしでは可哀想だということで、近くの民宿の主人が1998年にお堂を建て、その中に安置して、白濱神社の宮司にお祀りしてもらったというのです。長い年月が経つうちに、小さなお堂が寺となり、さらに大寺に発展していくかもしれません。大寺になれば、本尊は秘仏とされて開帳のときしか拝めなくなるので、この「流れ観音」を間近で拝むとすれば、この数年が貴重な機会となるでしょう。
【伊豆の太陽信仰】
再来週の21日は夏至にあたりますが、この日、今回のプロジェクトに関わる面々が下田の白濱神社に集合し、夏至の朝日を拝む予定になっています。
白濱神社は、参道から本殿、さらにその背後の丘の上にある奥宮までが一直線になっています。鳥居から本殿を向いた方向から夏至の太陽は昇ってきます(実際には、本殿背後の丘が遮る格好になっているので、水平線から太陽が昇る時間からは少しズレることになります。当日は、最初に奥宮まで登って参拝するので、時間差はあまりないはずですが)。
逆に、夏至の太陽が昇る方向を背にすると、正面は冬至の太陽が沈む方向となります。ですから、冬至の日は、白濱神社は参道の延長線上に沈む夕陽を見送る形となるわけです。
古代、冬至は一年の終わりであり、太陽の再生を願う日でした。一方夏至は、一年のうちでもっとも太陽の力が強くなる日であり、この日の太陽には、五穀豊穣や子孫繁栄を願うのが習わしでした。それが太陽信仰です。
白濱神社は、三嶋神とその姫神を祀る神社であり、元は三宅島にあった社が勧請されたものとされています。三嶋信仰は、伊豆半島と伊豆諸島を作り出した火山活動を神として崇めるもので、創世神話に登場する三嶋神の姫神である伊古奈比?命を主祭神として、三嶋神と国作りを手伝った見目(みめ)、若宮、剣ノ御子の三柱の神を従祭神としています。ですから、太陽信仰とは直接の関わりはないといえます。
では、どうして、三嶋信仰の聖地である白濱神社が、明確な太陽信仰の構造を持っているのでしょうか? それは白濱神社が立地するこの場所が、そもそも縄文中期の祭祀遺跡に当たるからなのです。
白濱神社の奥宮は溶岩台地が海にせり出した岬の上にありますが、その背後は禁足地となっていて、そこには今でもはっきりと痕跡を留める縄文遺跡があるのです。縄文時代の祭祀は全国共通に…新石器時代の世界すべて共通といってもいいですが…太陽信仰をベースとしたものでした。
白濱神社は三嶋信仰の社としてここに置かれたわけですが、それは単に伊豆諸島が一望できるロケーションだったからというわけではなく、ここが元々、他の場所とは違う「聖地」だったからなのです。今まで、この講座でも何度か解説してきましたが、今に残る聖地の多くは、新たに聖地として作られたものは稀で、ほとんどは古代から聖地とされていた場所が、時代時代で信仰の体系が変わりながらもずっと「聖地」として受け継がれてきたのです。それは、地磁気や重力分布、あるいは鉱物資源などその場所が備えた地球物理学的なファクターと深い関わりがあります。伊豆の聖地のそうした地球物理学的ファクターについては、また別の機会に紹介するつもりですが、現代の科学でもまだ解明できていないファクターもそこには秘められていると思われます。
伊豆の南部には、縄文時代の遺跡が数多く残っています。伊豆高原に近い八幡野にある来宮八幡神社も縄文遺跡に取り囲まれていて、来宮信仰を伝えると同時に、冬至の日の出の方向を向いた社殿が、はっきりと太陽信仰を表しています。河津には、白濱神社と同じように海に張り出した溶岩丘の上に段間遺跡という縄文中期の遺跡があり、それに隣接して見高神社が置かれています。見高神社の本殿は方位角270°で、正確に西を向き、春分と秋分の夕陽を拝する形になっています。同時にその方位には河津来宮神社があって、来宮信仰との深い関連もうかがわせます。
八百比丘尼が置かれた稲取港の南にそびえる溶岩台地の上もやはり縄文の遺跡があり、そこには巨大な男根をご神体とする「どんつく神社」があります。このどんつく神社も正確に夏至の朝日と向かい合う形に配置されています。6月初旬に行われるどんつく祭では、このご神体が担ぎだされて、稲取の町を練り歩きますが、夏至に近い時期でもあり、これは明らかに五穀豊穣を祝うアルカイックな祭の形式が、今も残されている好例といえます。
例を挙げていくときりがないのでこの辺にしますが、とりあえず伊豆の聖地を一巡りしてみて、非常にわかりやすい形で聖地の構造や信仰の体系が残されていて、とても興味をそそられました。
中沢新一は『アースダイバー』の中で、今の東京に存在する聖地の多くが、縄文時代に海にせり出していた岬に符合していることを突き止めました。東京は、関東ローム層が分厚く積もり、さらに商業地や宅地で埋め尽くされたために、太古の地形と現在の地形を比較するのが非常に難しくなっています…それでも中沢は地道な作業で、それを抽出したわけですが。それに比べて、伊豆半島では太古の地形がそのまま残され、遺跡も特定されているので、聖地を観察するのには最高ともいえる条件が揃っています。
プロジェクトとしては、これから3ヶ月あまり調査する予定ですが、調べれば調べるほど面白い事象に出くわして、伊豆のレイラインハンティングにますますハマり込んでいきそうな気がしています。
とりあえずは、21日の夏至のお参りで、縄文人たちと同じ太陽と向かい合い、彼らの心性に思い切り近づきたいと思います。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
■ http://www.mag2.com/m/0001549333.html
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