ハラリが"21Lessons"の最終章で、人間には、じつは自由意志などというものはなくて、すべては身体性による感覚刺激が生体反応を引き起こしるだけで、それが感情を生み出し、人間は、それに支配されているのではないかなんて書いている。
身体性というと、AIに欠けているのは身体性であって、身体性をアルゴリズムにできれば、AIが意識を獲得できるのではないかなどという話もある。だけど、ハラリが言うように、人間が身体性に支配されていて自由意志など持っていないのだとすれば、どちらにしても自律的な「意識」などないわけだから、同じことになってしまう。
ハラリは、その先で、身体性の奴隷にならないために、自分は瞑想によって、身体に感覚を向けることで、身体性の呪縛から抜け出していると続けている。矛盾した話のようだが、それは、自分の経験に照らし合わせても納得できる。
瞑想は、ふつう、身体性にとらわれず無心になることを目指す。ところが、いきなり無心になれるのはよほどの達人だろう。ふつうの人間なら、無心になろうとすればするほど、外界の刺激が気になってしまうはずだ。周囲の物音や皮膚感覚、同じ姿勢を続けることで感じる身体の辛さ等々。
ハラリの瞑想方法は、それらを意識しないようにするのではなく、とめどなく立ち上ってくるそうした身体性を逆に意識していくのだという。自分の呼吸のリズムがなかなか一定にならないこと。息が肺から気管支と通るときに、いつもと違う苦しさを覚えること。じっとしていることで、筋肉が緊張し、ふだんはあまり意識しない筋肉がこわばっているのを感じること。そして、日常の雑事や人間関係のことなど……。そんな感覚に注意を向けているうちに、意識することに疲れて、何も考えなくなっていくという。もっとも、彼は、2時間も瞑想するというから、それはかなり根気が必要だけれど。
彼の瞑想ほどではないけれど、私は、ほぼ毎日、けっこう負荷のかかるジョギングをしている。一周3km、標高差40mのコースを2周か3週。時間にして1時間くらい走る。
走り始めから20分くらいは、その日の呼吸の感覚や筋肉の状態から、日々の雑事のことなどが去来する。身体は、日々微妙にコンディションが違うから、その日の体調がよくわかる。そして、感情はまさに身体性に引きずられるから、その日のメンタルなコンディションも意識する。
20分くらい経つと、いちいち気になっていた身体のことやいろいろな思いが消えていって、ただ自分の呼吸のリズムだけを感じるようになる。そして、しばらくすると、今度は疲れを感じて、また身体性に気を引かれていく。
そんなことをこの何年も続けているので、ハラリの瞑想法の意味や効果も納得できるというわけだ。
そもそも身体性とは、人間の感覚、知覚、行動、意識などが、身体と環境との相互作用を通じて形成されることをいうわけで、認知や認識と深く関わっている。
認知や認識は、感覚入力→知覚→注意→記憶→理解→反応というプロセスを辿る。
五感(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)を通じて、外部の情報を受け取ることで、感覚器官がその刺激に反応して、神経を通じて情報が脳に送られる。その感覚情報は脳内で処理されて、物事の特徴やパターンが把握される。これによって、個々の刺激が集合して、物事として捉えられる。さらに、脳は、無数の情報の中から関心事項や目的に関連する情報に焦点を当て、特定の物事を他の情報から区別する。そうした物事は、短期記憶や長期記憶に保存され、過去の経験や知識と結びつけ、その意味や概念を把握する。そして、物事の関連性や因果関係を理解し、それが感情や行動へとつながっていく。
こうした感覚入力から反応までの一連のプロセスは、純粋な生体反応でしかないようにも思える。そして、それこそが身体性であるとも。
それでは、意志とは、あるいは意識とは何なのだろう。こう言い換えてもいい。「主体とは、主体性とはいったいなんなのだろう」。
ハラリの瞑想や、私のジョギングの感覚からいえば、主体性とは恒常的かつ客観的な意味であるわけではなく、瞬間的なものなのかもしれない。それは身体性と密接に結びついているけれど、身体性から抜け出したところにある。そして、一瞬でもそれが感じられれば、それは心の安定につながるものだと思う。
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