30数年前、駆け出しのライターだったぼくは、千葉県の内陸にある小さな湖の畔で暮らす仙人のような人を訪ねた。
当初の予定では、当時メジャーだった某作家がインタビュアーで、ぼくはカメラマンとして同行するはずだったが、作家氏は急な仕事ができたとのことでドタキャンしたのだった。それはとある月刊誌の連載だったが、そんなことがしばしばあった。
作家氏は、取材先に連絡することもなく、ぼくが出かけていって事情を説明することになったが、ほとんどの取材相手は、不快感を顕にし、「おまえみたいな駆け出しの馬の骨だけよこしやがって、ふざけるな」と罵倒されることもしばしばだった。
だけど、その湖の畔に暮らす人は、そんなことはまったく気にせず、にこやかに迎えてくれたばかりか、手料理までふるまってくれた。そして、世界中をカヤックで旅した話をしてくれた。
「一番好きなのは、ユーコンのようなゆったりした流れの川なんだよ。カヌーで寝そべって、文庫本を読んでいるうちに眠ってしまって、目が覚めて起き上がると、周りの景色は何も変わらないから、たいして進んでいないんだなと思ったら、何十キロも下っててね。だけど、ユーコンは何千キロもあるから、それくらいじゃほとんど進んでいないんだよ。そうやって、漂うままに何週間も川に運ばれているのがいいんだ。夕方になったら、岸辺に上陸して、読み終わった文庫本を千切って焚付にして、焚き火を起こして飯にする。長い川を下ると、じっくりと何冊も読めるんだよ」
そんな話を聞きながら、見たことのない世界や、大自然の中で一人きりの自由な野営の世界を想像していると、メディアの中でも雪かきのような仕事しかできないしがないライター兼カメラマンの自分も、いつかそんな旅ができるかもしれないと希望が溢れてきた。
けっきょく、2時間程度の取材のはずが、丸一日、様々な話をして過ごした。彼は、湖畔の古屋の隙間風がすごくて、冬はあまりに寒いので、部屋の中にテントを張って寝ているんだと笑った。ぼくも、学生時代に築58年の長屋に住んでいて、台風でその屋根が飛び、その後は大家さんも修復する意欲をなくしてブルーシートがかぶせてあるだけだったので、寒くて部屋の中でテントを張って寝ていたんですよと言うと、「きっと日本中で、俺達だけだな、寒くて家の中でテント張って寝てる奴なんて」と、破顔し、二人で大笑いした。
夕方まで長居して、帰るとき、彼は「ずっと追えるテーマが見つかるといいね」と、しみじみと言ってくれた。
その言葉が、ぼくの心に深く深く刻み込まれた。
タクラマカンの砂の海を渡っているとき、気まぐれに立ち上るつむじ風と、歪んだオアシスの蜃気楼ばかりを何時間も眺め続けながら、ユーコンを漂う彼の話を思い出し、変わらぬ風景の中を進んでいる自分が彼に少し近づけたような気がして、なんだか誇らしかった。
「自分が追い求めるべきテーマとはなんだろう」…そんな思いが、あのとき以来、ほくの心に不朽の言葉として刻み込まれている。
あれから30数年が経過して、ようやく、その答えがおぼろげなから見えてきた気がする。
きっと、死ぬまで、それは確たる形をとることはないのだろうが、テーマを求め続けることこそが人生の意義なのだろうと、今は思える。
ぼくに人生におけるそんな姿勢を教えてくれた彼の消息をひょんなことから知った。
彼は、徳島の海岸近くで、あいかわらず仙人のように暮らしているのだという。
いつか、彼を訪ねて、お礼を言おうと思う。「Nさん、あなたのおかげで、ぼくは、いつも生きる意義を考えながら、生きてくることができました」と。
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