40年ぶりの田舎生活も3ヶ月目になった。
子供の頃の故郷の町は、主要な国道以外は未舗装の砂利道で、そこを黒いカバンを抱えた車掌さんが乗ったボンネットバスが長閑に走っていた。車を所有する家は少なく、また電話もまだ各家庭には普及していなくて、集落の中に一軒だけあった雑貨屋さんの電話が、集落みんなの共同電話として使われていた。テレビも、東京オリンピックを機に購入した家で、みんなが集まって観るような時代だった。
今から思えば、なんとも牧歌的な世界だけれど、それでたいして不便は感じていなかった。みんなが助け合い、気を利かせ合わないと生きていけないので、集落みんなが家族のようで、子どもたちは集落の子供だった。
道が舗装され、バスはワンマンバスになり、各家庭にテレビと電話が普及していくと、少しずつ、集落の中の交流が薄くなっていった。そして、車が普及し、各家庭に一台から一人一台となっていくと、バスの路線が減り、ディーゼルで走るローカル線の利用者も減っていって、ついに廃線になった。古い市街は車で乗り入れるには不便で、郊外に大資本のスーパーができていくと、次第に活気が無くなっていった。
そこに東日本大震災が追い打ちをかけた。寂れた旧市街はシャッターが降りたままな上に、地震で歪んだ建物はそのまま放置されて、街そのものがネグレクトされた虚しさに支配されている。一方、かつては砂地の痩せた土地でろくな作物ができず、貧しかった農家は、メロンの新品種で成功し、良く手入れがされた広大な畑地の中に豪邸がポツンポツンと建っている。かつての風景の対比が完全に逆転している。
昔、栗畑だった土地を父が亡くなる寸前に購入し、小さな家を建てたが、周囲に何もなかったそこも、今では建売住宅に囲まれ、徒歩二分ほどの幹線道路沿いも何もなかったところに大規模スーパーと家電量販店、大きなドラッグストアにDIYのチェーン店、さらにコンビニもあって、生活の用は徒歩圏でほとんど済んでしまう。田舎に戻る前に住んでいたさいたま市や、それ以前に住んでいた都内よりも、日常生活を送る上では、かえって快適なくらいだ。
だけど、しばしば、「ここはどこなんだろう」という気分にとらわれる。「ここは、自分が生まれ育った田舎なのか」と。
そんなこともあって、無意識に変わらぬ風景を求めているのかもしれないが、朝は夜明けの太陽を海岸に眺めに行き、夕方は湖岸に佇んで沈む太陽を眺めるのが日課になった。
そのうち、夜、真東を向いた二階の仕事部屋から表を眺めていたら、目の前に月が昇ってくることに気づいた。夏至近辺の満月は「ストロベリームーン」といわれるが、その月も昇ってきた。ちょうど西に沈む太陽と入れ替わりに月が昇ってきたので、太陽の残照を受けて、ひときわ赤く染まっていた。
それから月が気になるようになり、夜、表に注意していると、ほぼ月の出は1時間ずつ遅くなり、昇る位置も南にずれていく。昔の人は、太陽と月の動きを眺めて、不思議に思い、いろんな物語を紡ぎ出していったんだろうなと想像する。
そして、自分も毎日、太陽と月の動きを追いながら、いろんなことが変わっていっても、普遍のものはあるんだなと、ほんのりと安心した。
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