ぼくがもっとも春を実感し、古の人たちの心と一つになった「山の神」から「田の神」への風景。
『聖地学講座』記事全文公開。
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.116
2017年4月20日号
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◆今回の内容
◯いわきの聖地に込められた意味
・山の神と田の神
・太陽信仰と伊勢信仰
・御幸と土地鎮め
◯お知らせ
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いわきの聖地に込められた意味
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4月15日は、福島県いわき市で聖地ツアーをアテンドしてきました。この講座の第79回では、「聖地の基本を伝える『いわきの聖地』」というタイトルで、いわき市付近に様々な聖地が存在し、さながら日本の聖地の縮図になっていることを解説しましたが、そのポイントを辿る現地ツアーの4回目でした。
古代、この地方は蝦夷と大和朝廷の接点でした。そのため、縄文時代の太陽信仰とそれを引き継いだ蝦夷の信仰から、その後の弥生、古墳時代、さらに大和朝廷侵攻後の日本神話や仏教に基づいた聖地が、それぞれの個性を留めたまま残っています。
今回は先日のツアーで巡った聖地を例に、その場所に込められた意味を紹介します。
【山の神と田の神】
いわき市の南部、茨城県との境近くに國魂神社があります。大同六年(806)の創建と伝えられ、いわき市内の神社の中ではかなり古い部類に属します。祭神は大己貴命、少彦名命、須勢理姫の三神で、広い境内の中には福稲荷神社、菊田御霊神社、北野神社、田神社などの摂社があります。
國魂神社境内の北西に隣接する田神社は、丘の上から二枚の神田を見守るように、小さな社が建っています。社の両脇には山桜とソメイヨシノの木があって、ちょうどどちらも見頃を迎えていました。
桜という言葉は、神を意味する「サ」とその依代を意味する「クラ」を合わせたもので「春に神が宿る木」を意味します。山の雪が溶け、里に春が訪れると、山の神が岩魚の背に乗り里に降りてきます。そして、田の用水の辺りにある桜の木に宿ります。桜の花が咲くのは、神が宿り「田の神」になった印。それを寿ぎ、豊作を祈るのが春祭りです。「田植え桜」や「種まき桜」と呼ばれる桜がありますが、これらは田の神と結びついているわけです。
春祭りが終わると田植え。そして夏から秋にかけて、田の神は稲の成長を見守ります。秋、稲がたわわに実ると収穫。これを田の神に供え、共食して祝い、さらに神輿に田の神を載せて山に送るのが秋祭りです。
田神社の神田の脇には用水があり、その上流を見やると、いわき地方随一の聖山である湯ノ岳が遠望できます。また、用水を挟んで向かいの丘の上には古い石の鳥居があって、その両側の桜も満開になっています。この丘の上には小さな祠があって、「道了(どうりょう)神社」と呼ばれています。ツアーの日は、ちょうどこの道了神社の祭礼で、國魂神社の宮司がこの祠に赴いて祝詞をあげ、氏子とともにその神を田神社から國魂神社にお迎えする準備が整えられていました。
「道了」とは天狗のことですが、天狗は山伏に通じるので、彼方の湯ノ岳から山の神が里に降りてくるときに、山で修行する山伏が先導役となって里に案内し、丘の上の祠にいったん安置したことを物語っています。そして、里の氏子が道了=山伏から引き継ぎ、あらためて田神社に山の神を移したのでしょう。
田神社が見守る神田で実った稲は、秋に収穫され、この米で酒が醸されます。以前は一石の米が醸されたといいますが、今は一斗ほどだそうです。國魂神社の秋の例祭では、この米を仕込んだどぶろくが振る舞われ、一般的には「どぶろく祭り」として通っています。普通に考えれば、出来上がったどぶろくを祭神に奉納して、氏子も飲むことで秋の収穫をともに祝うものと解釈できますが、じつは、どぶろくは副産物で、祭りに必要なのは酒粕のほうなのです。
秋に米が収穫される頃、神社の近くを流れる鮫川に鮭が遡上してきます。その鮭を獲って、頭を祭神に「初穂」として供え、身のほうはほぐして酒粕と和えて、氏子たちに振る舞われるのです。秋の例祭の正式名は「どぶろく祭り」ではなくて「粕掴み祭り」なのです。鮭を和えた酒粕が山盛りにされて、それを氏子たちが手づかみで食べる祭礼です。秋の恵みの米に、さらに海の恵みの鮭も合わせて神と人とが共食するわけで、山と海に恵まれたいわきらしい風物詩といえます。
今回のツアーは、地元の勿来の人が多かったのですが、今まで國魂神社には何度もお参りしていたものの、田神社のほうはその存在すら知らない人が多く、「山の神・田の神」信仰をそのまま体現した風景が残されている希少な場所が身近にあることを知って驚かれていました。また、どぶろく祭りではなく粕掴み祭りが正式だと知らなかった人もほとんどで、そこに山の神が「サ・クラ」に宿る瞬間に重なったわけですから、感動も一汐の様子でした。
【太陽信仰と伊勢信仰】
江戸時代に伊勢参りが盛んになった時に、伊勢まで参拝するのがたいへんな東北の人たちは、いわき市勿来にある伊勢両宮神社にお参りして伊勢参拝に代えたと伝えられています。といっても、東北の伊勢参りのすべてがここに参拝したわけではなく、ごく一部でしたが、それでもかなりの賑わいを見せたようです。
社伝によれば、創建は文禄年間(1593-96)で、「窪田山城守家盛の叔父道通なる者、松山寺住職宥長上人と協力して、伊勢国渡会より勧請せるもの」と記されています。伊勢参りが本格化するのは江戸時代初期の寛永年間ですから、それよりは30年あまり前の創建ですが、伊勢神宮の御師たちが全国に散って伊勢講を組織し始めたのはちょうどこの頃ですから、御師の勧めにより地方の名士が築いたものなのでしょう。
神域は、かつては伊勢山城あるいは鬼岡館と呼ばれ、前九年の役(永承6年)に源義家が陣を張った場所と伝えられています。山城や鬼岡とは、蝦夷が拠点としていた場所を指しますから、東国征伐を命じられた源義家が蝦夷の拠点を落とし、そこに陣を築いたものと考えられます。
伊勢両宮神社の周辺は伊勢林前遺跡の領域で、縄文時代から古墳時代にかけての土器や祭祀道具が多く出土しています。ちょうど海に張り出した岬全体がこの遺跡にあたり、外宮東方の岬の突端からは海を臨むことができます。岬全体が方位角60°の方向に張り出していて、これは夏至の日の出の方向に一致しています。このことから、この場所が古い太陽信仰の祭祀場であったことが推定できます。
伊豆の稲取岬も夏至の朝日が昇る方向を岬自体が向いています。さらに岬の形が勃起した男根型になっています。岬の先端には、「どんつく神社」があって、立派な男根の御神体が夏至の日の出の方向を指して祀られています。夏至に近い6月の上旬、その御神体は神輿に載せられて、稲取の街に繰り出し、「どんつく、どんつく」の掛け声とともに、道行く女性に押し付けられます。太古、夏至の太陽は五穀豊穣と子孫繁栄の象徴でしたが、それが男根崇拝と結びついて、今に続いているわけです。
伊勢両宮神社が立地する岬も夏至の太陽に結びつく場所であり、稲取と同じような祭祀が行われていたのかもしれません。そうした記憶が蝦夷に受け継がれ、祭祀場とされ、さらに戦略拠点とされたのでしょう。その後、大和朝廷が進出し、蝦夷が北へ後退すると戦略拠点としての意味は失われ、長く忘れられた場所になります。
それから長い年月が経って、伊勢参りが俄に盛り上がってくると、再びこの場所が太陽信仰の聖地であった記憶が呼び起こされ、伊勢神宮を勧請する聖地として選ばれたのではないかと思います。
伊勢では、内宮から見て夏至の日の出の方向に当たる二見ヶ浦で夏越の祓=夏至祭が行われます。一年のうちでもっとも日照時間の長い夏至の太陽は、太陽神である天照大神に見立てられ、夏至はその天照大神が降臨すると考えられているのです。その東北地方の降臨の場所として、伊勢両宮神社が立地する岬は最適だったわけです。
【御幸と土地鎮め】
先に、國魂神社の秋の祭礼では鮫川を遡ってきた鮭が「初穂」として祭神に供えられると紹介しましたが、その鮫川の河口近くに御宝殿熊野神社があります。御宝殿熊野神社は、大同二年に熊野新宮大社を勧請して祀ったと伝えられています。ここでは夏の例祭に行われる稚児田楽・風流が有名で、国重要無形民俗文化財にも指定されています。
祭礼では、初めに鉾立の神事が行われます。ウサギの描かれた五穀豊穣を願う鉾と、浜が大漁になる事を願う三本足のカラス(熊野の象徴=八咫烏)の描かれた鉾、どちらが先に立つかを競います。稚児田楽は、その後で、カラスとウサギの描かれた露払いを持った2名と、「びんざさら」を持った6名が向かい合い、田植えから収穫までの農耕シーンが舞いによって表現されていきます。さらに、シラサギ、青龍、雄雌シカ、大獅子に扮した大人が櫓の上で子孫繁栄と天下泰平を祈って踊る風流が披露されます。これらは古い田楽の様式を今に留めるものです。國魂神社・田神社の日本古来の信仰の風景とともに、とても貴重な文化遺産です。
御宝殿熊野神社の奥宮は、いわき市の西に続く阿武隈山地の一角、御斎所山山頂にあります。7年に一度、奥宮へ神輿が登り、山の神を迎えて里へと降りてくる御幸が行われます。
2011年3月11日の東日本大震災のちょうど一ヶ月後の4月11日、いわき市を内陸直下型の大地震が襲いました。これは、湯ノ岳を起点とする湯ノ岳断層と御斎所山に発する井戸沢断層が同時に動いたために起こった地震でした。
いわき市では、3月11日には地震による被害はほとんどなかったのですが、この4月11日の地震では、住宅等の倒壊や地すべり、道路の崩落など大きな被害が出ました。大規模温泉娯楽施設スパリゾートハワイアンズの大ドームは湯ノ岳断層をまたいで建てられていたため、床面に1メートル以上の段差ができました。
御斎所山山頂の奥宮も倒壊は免れたものの、井戸沢断層の起点に位置していたため、基礎が大きく崩れ、社の前方から大きな段差が伸びていきました。この井戸沢断層は、最大90センチの段差で10キロメートルあまりも続く巨大なもので、日本では珍しい断層の上盤側がずり下がる「正断層」でした。
この井戸沢断層は、ちょうど御宝殿熊野神社の御幸のルートに一致していました。このことから、御幸は大掛かりな土地鎮めの儀式だと考えられます。奥宮と里宮、あるいは山にある本宮と海岸を御幸する祭りは、能登半島や北茨城にもあります。
能登半島の祭りは、石川県羽咋市の気多大社と七尾市の気多本宮を結ぶもので、以前「泰澄の土地鎮め」でも紹介した邑知潟断層帯に沿って御幸します。これは「平国祭」と呼ばれ、気多大社の祭神である大国主大神が、邪神を征服して北陸道を開拓した神跡を偲ぶものと伝えられています。毎年3月下旬に行われ、神馬を先頭に2市2郡(羽咋市、羽咋郡、鹿島郡、七尾市)を結ぶ300キロメートルの行程を、5泊6日かけて50名あまりで巡行していきます。途中、縁のある神社では田楽が奉納されます。
いわき市から30kmあまり南に下った茨城県の常陸太田市にある東金砂神社と西金砂神社では、「磯出大田楽」と呼ばれる大規模な御幸が行われます。これは72年に一度という非常に珍しいもので、前回は2003年に行われました。この時は、私も一生の内に一度しか見られなものですから、見学に行きましたが、猿田彦を先頭に神輿の前後を数百人の行列が続くその規模と、これを沿道で見学する数万人の規模に驚かされました。
東金砂山の頂上にある東金砂神社の御輿が先に出発し、それに遅れること3日に西金砂山頂上の社殿から出発した西金砂神社の御輿が続きます。どちらの祭神も能登の平国祭と同じ大国主大神で、9つの穴を持つ黄金のアワビに化身しているとされます。
この大行列もやはり山岳地帯に走る断層に沿って進み、途中の所縁のある場所で田楽を奉納していきます。そして、75キロメートル離れた日立市の海岸に出ると、深夜に白布で囲まれた神輿が海へと入っていき、山から降りてきた神の化身のアワビは海へと帰り、代わりに新しいアワビが神輿に迎えられて帰路に着くといわれています。
この神の化身のアワビを見ると、祟りで盲目になると伝えられ、一部の神職以外は、その実体を見たことがないそうです。
こうした、断層に沿って御幸して、ポイント毎に地鎮の田楽を奉納するような祭りが、かつては多くの場所で行われていたのかもしれません。そして、地元の人たちが定期的に行われるその御幸に参加することで、大地に潜む魔物が暴れる=地震のイメージを共有し、次の地震への心構えを新たにしていたのでしょう。
今回のツアーでは、御幸のルートを実際に辿ることまではできませんでしたが、また別な機会に、いわき市の御宝殿熊野神社から御斎所山の奥宮を御幸ルートに沿って歩くイベントを開いてみたいと思います。
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