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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.134
2018年1月18日号
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◆今回の内容
◯四国の狸
・四国に稲荷が少ないのはなぜか
・四国の狸伝説
・稲作文化対森林文化
◯お知らせ
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四国の狸
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四国の今年度の調査が終了し、今、その成果をまとめています。
前回、四国の龍燈伝説を取り上げましたが、その後の調査でも次々に龍燈やそれに類似する話が見つかり、レアな伝説だと思っていたものが、かつてはかなり人口に膾炙していた話であったことに驚いています。そして、龍燈伝説の本場は四国ではないかという推測が案外当たっているのではないかと思いはじめています。これは、もう少し調べ、また改めてひとつのテーマとして取り上げたいと思います。
さて、今回は、やはり四国の調査から浮上してきた「狸」についてのお話です。
【四国に稲荷が少ないのはなぜか】
「弘法大師三大霊蹟」といわれる寺院があります。一つは弘法大師・空海が生まれ育った善通寺。もう一つは真言密教の本山として築かれ、空海が奥の院に入定していると伝えられる高野山。そして三つめは京都の東寺です。
東寺は、嵯峨天皇から空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えました。高野山が創建された後も、空海が京にいるときは、東寺が本拠となり、京都の人たちには「お大師様の寺」として今に至るまで親しまれています。
この東寺の創建秘話に、伏見稲荷が登場します。東寺に伝わる『稲荷大明神流記』には、弘仁7年(816)に、空海が紀州田辺で異形の老人に出会った話が出てきます。「身の丈八尺、骨高く筋太くして、内に大権の気をふくみ、外に凡夫の相をあらわしていた」というその老人と空海は、空海が遣唐使として中国にいた際、聖山である霊山(りょうぜん)ですでに出会っていました。
霊山で出会った際に、老人は空海を見込み、「自分は神である」と正体を明かします。そして、空海が密教を日本に伝えて隆盛させたいと真摯に願っているのであれば、その手伝いをしようと約して姿を消しました。
紀州で再会した老人は、自分は稲荷神の化身として現れたと告げます。そして、空海の布教の手伝いをするが、何が所望かと空海に尋ねます。空海は、それに次のように答えます。「神さまには仏法の擁護をお願い申し上げます。京の九条に東寺という寺がありますが、私はここで国家を鎮護するために密教を興すつもりです。この寺でお待ちしておりますので、必ずお越しください」と。
嵯峨天皇から空海に東寺を下賜する勅許が出たのは弘仁14年(823)正月19日でした。空海は東寺を真言密教の根本道場とするため、その象徴としての五重塔を建立することにしますが、その用材がなかなか見つからず困っていました。そんな中、同年4月13日に紀州の山中で出会った稲荷神の化身の老人が、婦人二人と子供二人をともない、稲をかつぎ、椙の葉を持って東寺の南門にやってきました。
空海は、この訪問を喜んで、丁重にもてなします。そして、老人から、何か力になれることはないかと問われた空海は、下賜された東寺の境内に五重塔を造営するための用材調達を相談します。すると、老人は京の南東にある自分が鎮座する山から材木を切り出すように空海に告げ、自らも手伝って運び、いまでも東寺の象徴として聳える五重塔が創建されたと伝えられます。空海は、稲荷神に感謝し伏見稲荷に別当寺の愛染寺を建立しました。
また、もっと現実的な話としては、空海の母の実家が伏見稲荷の神官荷田氏であったとも伝えられ、伏見稲荷の化身である老翁は、その係累であり、資金と労力を提供したのではないかともいわれています。また、空海が遣唐使として入唐する際に、その莫大な費用をどこから捻出したかは、空海にまつわる最大の謎ですが、その資金提供のパトロンの一つとして伏見稲荷の神官家が関わっていたのではないかという説があります。
そうした空海と伏見稲荷との関係を見ると、空海はさぞや稲荷を大切にしただろうと、誰しも考えるはずです。そして、空海のお膝元である四国には、さぞやたくさんの稲荷が祀られているだろうと想像するでしょう。ところが、実際は、四国には稲荷が極端に少ないのです。
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