昨年から二年にわたって、四国の聖地を巡っている。
主に讃岐=香川県の寺社や古跡が多いのだが、歴史の刻まれた場所を巡り、そこにまつわる人物たちの思いを感じ取り、また、お遍路文化がいまだに根づく四国という土地で、遍路や地元の人と話をしてきた。
以前、ぼくは四国遍路という文化があまり好きではなかった。それは、何かに縋りついて、自らが救われたいという他力本願的な臭いがしたためであるし、また、若い頃好きで見ていた早坂暁脚本のドラマ『花へんろ』の世界が、あまりにも哀しすぎて、四国という土地そのものをネガティヴにとらえていたからだ。
後に、四国という土地に対してのイメージはシーカヤックのフィールドとして通うようになって一変した。自然豊かで、明るく、人の気質も和やかで、心地いい場所になった。だが、遍路に対する思いはやはり変わらなかった。
「同行二人」という言葉がある。四国遍路では、いつも空海=弘法大師がそばにいてくれて、見守ってくれているという意味で使われることが多い。四国遍路が持つ杖や装束には「同行二人」と書かれている。この「同行二人」という感覚に、どうしても拭えない違和感があった。
司馬遼太郎も『空海の風景』の中で書いているが、空海は独立自尊、自力本願の人で、自ら密教という荒野を切り開いていったというイメージがある。自らに厳しく、常に肉体的にも精神的にも自らを追い込んでいった空海が、自分に縋って助けを求める人に、はたして寄り添ったりするだろうかと思えたのだ。また、そんな空海像を知らずに、無邪気にお大師様と言って縋る心理も理解できなかった。
空海が生まれ育ち、修行した場所を辿る四国遍路の本来の姿は、空海に縋って助けを求めるのではなく、空海の人生を追体験し、彼が何を思いながら修行していたのかを想像することがもっとも大切なことではないのかと思っていた。この二年間、自分ではそんな意識で四国の聖地を訪ね歩いた。
そして、今になって、遍路についての自分の感覚が変わっていたことに気づいた。それは、自分自身が四国の聖地を巡りながら、常に空海の意識を身近に感じるようになっていたからだ。べつに空海に縋りたいわけではなく、ただ、空海が修行したと伝えられる場所に行って、巖をよじ登り、洞窟を潜り、暗い沢を辿っていると、たしかに空海もそこにいて、周囲の気配を同じように感じ、そこに何かを見出そうとしてたのだろうとリアルに思えるようになった。そして、ようやく「同行二人」という言葉の意味がわかった気がした。「同行二人」とは、「いつもお大師様が見守っていてくださる」ということではなく、空海と同化した気持ちになって、その修行を追体験することで、空海の境地に触れることができるということなのだろうと。
一人で黙々と歩いて遍路旅をしている人たちとも出会った。彼らには、お大師に縋って助けてもらおうといった意識はなかった。最初は「救われたい」という気持ちからスタートしたとしても、ただ黙々と歩いているうちに、自分と真っ直ぐ向き合うようになり、そんな機会を与えてくれた空海…というか四国遍路というシステムに感謝するようになっていたという。「同行二人」という言葉を背負って歩く彼らに対しては、違和感はなくなっていた。
だが、考えてみれば、空海も人間であり、迷いもあった。だからこそ、修行に励み、様々な経典を紐解き、勤操や恵果に真剣に教えを請い、試行錯誤しながらようやく真言密教の体系を整えていった。空海の一生を見れば、「自力本願」の人でも、迷いに迷い、泣きながら神仏に助けを請うたことが何度もあったことがわかる。そして、それは最後の最期までついて回った。
そう思えば、空海=弘法大師に縋って救いを求めてもいいではないかと思える。また、空海が生まれて1200年を経た今でも高い人気がある意味が見えてくる。それは、空海が釈迦のように悟りきった人ではなく、とても人間臭く、苦闘して生きた人だからなのだ。だから、偉大な存在でありながら、とても身近に感じられるのだ。
悠々たり悠々たり太だ悠々たり
内外の縑緗千万の軸あり
杳々たり杳々たり 甚だ杳々たり
道をいい道をいうに百種の道あり
書死え諷死えなましかば本何がなさん
知らじ知らじ吾も知らじ
思い思い思い思うとも聖も心ることなけん
牛頭草を嘗めて病者を悲しみ
断菑車を機って迷方を愍む
三界の狂人は狂せることを知らず
四生の盲者は盲なることを識らず
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終りに冥し
(空海(弘法大師)秘密曼荼羅十住心論抄 「祕藏寶鑰」・序)
空海の真髄は、まさにここにある。最期に彼自身が噛み締めた言葉もこれだと思う。答えのない答えを探し求めるのが人生…一言でいえばそういうことなのかもしれない。だからこそ、人生には意味があると空海は語っているのだろう。
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