もう20年近く前、木曽の神宮備林を訪ねたことがあった。
伊勢神宮では20年に一度、社殿を建て替える式年遷宮が行われるが、それに用いる檜材を供出するために管理されている森で、戦前までは「神宮備林」と呼ばれ、今は「木曽ヒノキ備林」が正式名称になっている。実際の用途を表すとともに言葉の響きとして、旧名の「神宮備林」のほうがしっくりくる。
高校時代から山登りをしてきて、自然というものはなるべく人の手が入っていない多様性を感じさせてくれるものがいちばんだと思っていたが、この神宮備林に足を踏み入れたとき、管理された自然であっても、そこに整然とした美しさがあるものだと感じ入った。
大学生の頃、同級生が故郷に遊びに来るというので、車で迎えに行ったことがあった。そのとき、丘を越えて湖の畔に青々とした水田の広がりを見た友人が、「緑の海だ!」と叫んだ。都会育ちの彼には、水田に埋め尽くされた水郷地帯の景色が新鮮で、思わず言葉が出たようだが、この景色を見慣れたぼくには、そのときの彼の感動がよくわからなかった。だが、自分が神宮備林の中に一人で佇んだ時、彼の感動した意味がよくわかった。
単相の植生で埋め尽くされた景色でも、人が心を込めて手を入れ、育んできたものは、人と自然との共生をはっきりと感じさせてくれる。そして、そのバックボーンにある伝統と文化を育んできた人たちの人柄まで透けて見えてくる。それがわかると、美しいと感じられる世界が途方もなく広がった。
昨日の夜は、南青山のスパイラルホールのイベントにお邪魔した。
神宮備林のある中津川市で、備林と同じく大切に育てられた木曽檜を素材にして、風呂桶を作ってきた檜創建という会社のイベントで、檜創建が持つ高度な加工技術とアーティストの感性が合体してできた卵型の総檜の湯殿"KIYOME MO/NU/MENT"が披露された。神域に入る際に、滝に打たれたり池や海に入る「水垢離」が行われるが、本来は湯に浸かる「湯垢離」が正式で、この湯殿はまさに湯垢離のための特別な空間を思わせる。
檜創建は、2014年から「ものづくり」と「アート」を繋げる「KIYOME PROJECT」を推進してきて、この"KIYOME MO/NU/MENT"は、このプロジェクトの一環として行われた。作品コンセプトのコンペが行われ、審査員全員一致で選ばれたのが、木戸龍介氏の"KIYOME MO/NU/MENT"という作品だった。
それは檜の板を曲面にして三層に貼り合わせて造られた卵型の球体に、三層であることを活かした深さの異なる透かし彫りを施して、球体の中に入る光が様々な表情を浮かびだすもので、中には檜風呂が置かれ、さながらアイソレーションタンクのように、没入感を味わえるようになっている。
昨日は、そのお披露目のレセプションだった。審査員長を務めた宗教学者の鎌田東二氏は、お披露目の瞬間に初めて実物を見たそうで、その出来栄えが想像していたもの以上であることに感動して、すっかり魅入られていた。レセプション後半では、一人、その中に籠って滔々と法螺貝を奏上しはじめた。その響きがスパイラルホールの構造に増幅されて、なにやら時空を越えた世界にただよう虚舟のように見えた。
建築や内装、浴槽などに無垢の白木を使うというのは日本独特の文化であり、それは細胞に油分を含み腐朽しにくい檜があればこそといえる。檜は日本と台湾の一部にしか生育しない特別な木であり、しかも木曽はその中心産地で、古来、檜文化を育んできた。檜創建は、そうした木曽の檜文化にモダンな要素を取り入れた製品を造り出してきたが、"KIYOME MO/NU/MENT"では日本の基層精神にある「清め」をモダンと融合させるという新しい境地に踏み込んだといえる。
すっかり陶酔する鎌田氏の法螺貝の音を効きながら、式年遷宮を支える神宮備林と同じ檜で造られたこの"KIYOME MO/NU/MENT"の中で湯垢離したら、間違いなく、魂も躰も生まれ変われるだろうと想像した。
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