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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.119
2017年6月1日号
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◆今回の内容
◯世界宗教の成り立ちと聖典 その3
-イスラム教-
・神への絶対的な服従
・預言者ムハンマド
・後継者と分派
・クルアーン
◯お知らせ
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世界宗教の成り立ちと聖典 その3
-イスラム教-
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世界宗教とその聖典をテーマにした考察の三回目です。前回は、ユダヤ教とキリスト教に触れましたが、今回は両者と同じ預言者アブラハムの宗教的伝統を受け継ぐ兄弟ともいえるイスラム教を取り上げます。
テーマがテーマだけに、どうしても一つの宗教に関しての考察が長くなってしまいますが、世界宗教それぞれの観点と歴史を知っておくと、『聖地』を理解する上での重要な観念である『聖性』が、はっきりとした輪郭を持って見えてきます。次回取り上げる「日本神話と神道」でこのテーマを終了する予定ですので、お付き合いください。
【神への絶対的な服従】
タリバンやアルカイダ、ISなどの極端な原理主義グループのテロ活動によって、イスラム教には、戦闘的なイメージが定着してしまいましたが、実際はとても融和的で、視野の広い宗教です。それは、創始者であるムハンマドが元々商人であったことが大きく影響しています。
イスラムとは、アラビア語で「全知全能の唯一神アラーに絶対的に帰依し服従すること」を意味しますが、これは、人間がアッラー(神)の被造物であるという認識をベースにしています。
前回触れたように、ユダヤ教とキリスト教は、人間が弱い存在であるのは、神の意志に逆らって、『原罪』を背負い込んでしまったためと考えます。神に近づこうとして知恵の実を食べ、天に届こうとバベルの塔を建てた人間は、神によって罰を受け、過酷な運命と対峙する弱い存在に置かれてしまったとされます。そこから逃れ、天国に向かうためには、神の赦しを請わなければなりません。その神に赦しを請うシステムとして教会ができ、それが大きな権力を持つようになったわけです。
ところが、イスラム教には、そもそも『原罪』という観念がありません。人間を含めてこの世のあらゆるものは神の被造物であって、自分の自由になることはないとイスラム教は考えます。
「人間は弱い存在である。これは原罪の結果ではなく、人間が被造物だからである。しかも人間は、神がその最後の預言者(ムハンマド)に伝えた啓示によって再び聖化された世界に住んでいる。生理的、心理的、社会的、歴史的ないっさいの行為は、それが神の恩寵によって実現するという端的な事実のゆえに神の権限のもとにある。この世における何物も自由ではなく、神に依存しないものはない。しかしアッラーは憐れみ深いお方であり、その預言者は、先行する二つの一神教よりはるかに簡明な宗教を啓示された。イスラームは教会を持たず、聖職者もいない。礼拝はどこで行ってもよく、聖域内で執行する必要はない。宗教生活は同時に法的規範でもある掟によって規定されている」(『世界宗教史』ミルチャ・エリアーデ)。
こうした一種の諦念とも見える感覚は、イスラム教の創始者であるムハンマドが、砂漠を行く商人であったことが強く影響しています。ラクダを連ねて砂漠を渡るキャラバン(隊商)は、酷暑や砂嵐、飢えや乾きに耐えて進んでいきます。さらに、商取引は老練な商人どうしの駆け引きであり、必ずしも思ったような利益はあげられません。逆に、ときには思わぬ幸運に恵まれて、大きな利益を得ることもあったでしょう。そうしたすべてのことは、人間がコントロール不能なことであり、すべてがアッラーの意志であると考えることで、生きることの辛さを乗り越え、ときに喜びに感謝できたのです。
【預言者ムハンマド】
ムハンマドは567年から572年の間(正確な日時は不祥)にマッカ(メッカ)で生まれました。当時、この地は遊牧と交易の民であるクライシュ族が支配していました。ムハンマドもこの一族でした。彼は、6歳で両親を失ってしまい、はじめは祖父に預けられ、ついで母方の叔父アブー・ターリブの元で育てられました。
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