今日は、朝8時半から13時過ぎまで、福島県いわき市でフィールドワークツアーを行った。
こうしたツアーも今回で6回目。毎回参加者が増えて、この数回は、募集をかけて数日で定員一杯となった。リピーターも増えて、顔なじみの参加者も毎回楽しみにしてくれている。
みんな、故郷の歴史や文化に興味を持っている人で、巡る場所はおなじみの所が多いのだが、その場所の「聖地性」を考えつつ、方位や他の聖地との関連性について考えながら巡るというフィールドワークは経験がなく、よく知っていたと思っていた場所だからこそ、そうした視点で見ると面白くなってくるようだ。
江戸開府直後に開かれた磐城平城は濠の構造、城郭や外郭の構造が江戸城にとても良く似ている。地図で仔細に見ると、江戸城を取り巻くように濠が巡らされ、外郭に寺社が置かれて「結界」が形作られているのとほとんど同じ構造をしている。
今回は、ただポイントを巡るだけでなく、主要なポイントに当たる寺社のご住職や宮司さんにも取材して、検証結果について、意見をいただいたり、ディスカッションに参加していただいた。どこでも、GPSやデジタルマップ、衛星写真などを使って構造解析する手法に、とても興味を持ってくれて、有意義なディスカッションになった。
いわき市の中心部近く、磐城平城址のすぐ西にある飯野八幡宮は、福島の浜通りで最大級、由緒も古い神社で、創建は鎌倉の鶴岡八幡宮と同年と伝えられている。飯野八幡宮と鶴岡八幡宮は、その構造もよく似ていて、両社ともに岩清水八幡宮から御正躰を勧請してきたとされ、それが海から上陸して、現在地に落ち着いた道筋がトレースできる。
鶴岡八幡宮では、御正躰はいったん由比ヶ浜近くに鎮座し、それが若宮として今も残っているが、飯野八幡宮のほうでは、上陸地と推定される夏井川河口周辺には見当たらない。それが不思議だと飯野宮司に言うと、かつて河口近くの流鏑馬の潮垢離場周辺が境内飛び地だったので、そこに何かが置かれていた可能性はあるとのこと。ちょうどそのあたりに若宮が置かれたとすれば、鶴岡八幡宮と構造がぴったり一致する。
平城趾の東に位置する九品寺は、構造的には明らかに結界を構成するポイントだが、平城との関係を記した文書は焼失したりして残っていない。しかし、遠藤副住職によれば、内藤家が藩主だったときに、幕府から移封を命じられ、その善後策を協議するために九品寺に藩主と家臣が集まったという記録が見つかったとのこと。ここも、やはり結界のポイントの一つであるという見立ては合っていると思える。
最近、古代を対象とした考古学では、宇宙からの探査や地中レーダー探査が一般的になった。それは、一つには、古代あるいは太古には文書の記録がほとんどないために、物証から攻めていかなければならないということがある。
それに対して、中世以降は、比較的文献資料が残っているので、文献資料研究が中心になっている。ところが、文献資料も散逸したり焼失したりして無いケースも多く、そうした場合は、「不明」とされて、研究対象から外されてしまうことが多い。
中世以降の物件を調べる場合でも、古代、太古の研究手法を合わせて使えば、不明になっているケースの結論が導けることも多々出てくると思う。飯野八幡宮の若宮の痕跡は、衛星探査で確定できそうだし、九品寺では地中レーダーで地下の構造を調べれば、平城に向かう目印が見つかりそうだ。
東北では、津波到達域境界に目印のように置かれた寺社が多いことが、この数年の幾多の研究で明らかになってきているが、これも衛星探査と地中レーダー探査も組み合わせれば、歴史年代がかなり正確に特定できそうだ。
自分のフィールドワークも、そうした衛星探査データや地中レーダー探査の機材なども駆使していけるようになりたい。
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