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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.103
2016年10月6日号
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◆今回の内容
◯江戸=東京の要の聖地 その1
・江戸=東京の太陽信仰の中心「丸山古墳」
・ネクロポリスを結ぶレイライン
◯お知らせ
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江戸=東京の要の聖地 その1
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江戸=東京はその中心である江戸城(皇居)が厳重に張り巡らされた結界で守られていると伝えられています。
江戸を開府した徳川家康を祀った日光東照宮が北にあって、そこから日光二荒山の気を導いて江戸の繁栄を支えたといわれ、京都の鬼門封じである比叡山の構造をそのまま引き写した東叡山寛永寺を江戸城の鬼門に据えたり、大和朝廷に反旗を翻した東国武士の統領であった平将門を武家政権である徳川幕府の守護神とするために北斗七星の結界を築いたりもしています。
また、徳川入府よりはるか以前の古墳時代から、太田道灌が江戸城を築いた中世、江戸時代を通して、さらに明治から昭和そして現代に至るまで、江戸=東京には、様々な結界が張り巡らされてきました。
なぜ江戸=東京には結界が数多くあるのか。それは、ここが縄文時代に太陽信仰が盛んな場所であり、多くの祭祀場が残されていたことが元になっています。後の時代に設けられた「結界」は、縄文時代の遺跡をネットワークして築かれたものがほとんどなのです。
現代の東京に縄文時代の地形をレイヤードさせ、寺社や遺跡、城跡などのほとんどが縄文時代の祭祀遺跡と符合することを明らかにしたのは、中沢新一の『アースダイバー』でした。以前、本書を題材にして東京の聖地を解説したことがありましたが、今回は、本書をさらに補完する形で東京の聖地の様相を検証したいと思います。
江戸=東京の結界には、要となるエリアが二ヶ所あります。ひとつは江戸城の鬼門方向である上野から浅草界隈にかけての城北・城東エリア。もう一つは江戸城を挟んで反対側の裏鬼門方向にあたる芝から青山・原宿界隈の城南・城西エリアです。今回は、とくに後者に焦点を当て、東京の聖地の基層にある「死」のイメージを浮き彫りにしたいと思います。
【江戸=東京の太陽信仰の中心「丸山古墳」】
中沢新一は『アースダイバー』で、富士山が江戸の精神マップの中心に据えられていたと論じています。それは江戸の街を描いた浮世絵には富士山が大きく描かれ、江戸という都市が富士山に見つめられ、のしかかられ、包み込まれているように感じられるからだとしています。富士山は、たしかにランドマークとしての存在感はずば抜けていますが、中沢が主張するように、江戸にとっての精神的な支柱とするほどに崇められていたかというとそれは疑問です。
古来から武蔵の国から相模の国にかけては、今の神奈川県にある大山が死霊の集まる場所として、山岳信仰の中心とされてきました。遠くに優美な姿を現す富士山の手前には丹沢山塊が連なっています。さらにその手前に位置し、尖った山頂からスッと筆を払ったように山裾を伸ばしているのが大山です。今の東京から神奈川にかけての武蔵や相模の国の人間にとっては、この大山のほうが近しい存在でした。
大山をご神体と仰ぐ神社は大山阿夫利神社ですが、「阿夫利」は「雨降」であり、ここが縄文時代まで遡る古い祭祀場であったことがわかります。さらに山岳信仰をベースにした大山修験も発達し、まさに、武蔵や相模の国の死霊たちの弔いの場とされました。
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