□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.81
2015年11月5日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
1 四国の聖地 vol.1 三豊市
冬至・夏至を意識した聖地
不老不死を体現する荘内半島
空海の足跡を示すレイライン
2 お知らせ
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
四国の聖地 vol.1 三豊市
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
先月の22日から26日まで、香川県の西部にある三豊市で聖地調査を行いました。
これは、主要な聖地に絞ったもので、三豊市の聖地の大まかな特性を洗い出すだけの予備調査といった性格のものでしたが、さすがに空海ゆかりの地であり古代から優婆塞たちが修業の場とした四国だけあって、とても興味深い事例がたくさん見つかりました。
今回は、その中からいくつかピックアップし、地形的な特徴が不老不死のイメージと結びついて聖地となった例と、空海が仏門を本格的に志した足跡を示すレイラインを紹介したいと思います。
【冬至・夏至を意識した聖地】
三豊市は瀬戸内海に面した長閑な港町で、一年を通して日照時間が日本で最も多い気候を生かした製塩業で栄えていました。
太古には長閑な浦に縄文人や弥生人たちが暮らし、山を神と仰いでいました。古代には九州から畿内へと渡っていった渡来人たちが中継地とし、畿内や対岸の吉備との交流拠点となります。さらに中世から近世にかけては、この地を本拠とする塩飽(しわく)水軍が全国を結ぶ廻船業に乗り出し、日本全国から情報や富が集まりました。そんな歴史を背景に、ここには様々な性格の聖地が開かれました。
もっとも特徴的なのは、夏至と冬至を意識した聖地が多いことです。これは、縄文時代の太陽信仰がその基層にあることを物語っています。
次の項で詳しく紹介する荘内半島は、瀬戸内海に向かって細長い半島が突き出し、冬至の日の出と夏至の日の入りを結ぶラインに沿う形になっています。以前、この講座で紹介した伊豆の稲取半島(半島が夏至の日の出を向く)や若狭の常神半島(半島が夏至の日の出と冬至の日の入りを結ぶラインに沿う)と同様の地形的構造です。このように太陽が再生する「聖なる日=冬至」を地形そのものが指し示す場所は、太古から理想的な聖地とされてきました。
少し内陸に入った弥谷山の中腹には四国八十八か所霊場の71番札所弥谷寺(いやだにじ)があります。ここは空海が7歳から12歳にかけて学問を学んだ場所と伝えられ、今は僅かな堂宇が残るだけですが、かつては谷あいに数百の堂宇が点在し、四国でも抜きん出た仏教学院として栄えていました。
この弥谷寺の中心にある大師堂の中には、まさにそこで空海が学問に励んだとされる獅子之岩屋があり、岩肌がむき出しのその側面には阿弥陀如来座像と大日如来座像、地蔵菩薩像の三つの磨崖仏が刻まれています。この像が向いているのは、冬至の日の入りの方向で、かつては冬至の光がこの像に注いだものと思われます。現在は、大師堂で囲まれたうえに、像の正面の方向には檀家霊廟があって、光が入ってくる隙間はありませんが。
その他、空海の本当の生地と伝えられる海岸寺奥院は本堂が冬至の日の入り方向を指し、荘内半島内に多くの氏子を抱える船越八幡神社は冬至の入日方向を指しています。荘内半島の西に浮かぶ蔦島は島全体が聖域とされていますが、その入口に置かれた鳥居は夏至の日の出に向けられています。さらに、子どもの守護神を祀る津島神社と弥谷寺を結ぶラインは津島神社から見て冬至の日の出方向に一致し、弥谷寺の先にラインを伸ばしていくと金毘羅宮に突き当たります。金毘羅宮自体も山上にある本殿は夏至の日の出の方向を指し、その参道もこのラインに沿って伸びています。
コメント