9月の連休はちょうど彼岸に当たるが、「彼岸」とはどういう意味か知っている人はどれだけいるだろう。
彼岸は、春と秋の年二回ある。それぞれ春分と秋分を挟んだ数日が彼岸になる。春分と秋分は、昼と夜の長さが同じになる日だが、昔の人たちは、この日を重要な区切りの日と考えた。春分は、それまで夜のほうが長かったのがこの日を境に昼が長くなっていく。秋分はその逆だ。春分は夜明けであり、この日から昼の世界に入っていく。秋分は日暮れであり、夜の世界に入っていく。
夜明けと夕暮れの時間帯は、「逢魔が時」と言われるように、この世とあの世が入り混じる瞬間と考えられていた。だから、春分と秋分はこの世とあの世が繋がり、彼岸から祖先がやってくる日とされた。また、仏教では「西方浄土」といって、真西に極楽浄土があると信じられているため、真西に太陽が沈む春分と秋分は、極楽浄土を指し示す日でもあった。
大阪の四天王寺では、西に鳥居があり(昔は神仏習合で、神社と寺との違いはほとんどなかった)、その先に真っ直ぐ参道が伸びていて、春分と秋分の太陽はその参道の先に沈む。この日の夕方、周辺の人達は、その太陽を見るために集まり、西方浄土を想像する。これを「日想観」という。
日想観は、四天王寺だけでなく、全国各地の寺や神社で行われているので、今度の秋分の日に参加してみるといい。普段、鳥居や参道の向きなんて気にしている人なんてあまりいないと思うが、寺社の佇まいが荘厳だったり盤石に感じられることが、こうした宇宙の営みにシンクロしているためであるということを身をもって感じることができるはずだ。
ぼくは福井県大野市にある篠座(しのくら)神社で日想観に参加してみようと思っている。この神社とは、不思議な巡り合わせがきっかけで縁ができた。
一ヶ月ほど前、福井県の鯖江市在住の友人が、たまたま篠座神社を訪れて、その佇まいが素晴らしいと教えてくれた。長い参道がとくに印象的だったというので、何の気なしにデジタルマップで確かめてみると、たしかに、長い参道が真東から若干北向きに真っ直ぐ伸びていた。普通、東向きの参道は、春分と秋分の朝日と夕日を意識しているので、正確に東西法に伸びているのだが、ここには微妙なズレがある。それが何故かずっと気になっていた。
先日、仕事で福井を訪れたときに、鯖江の友人を訪ね、彼のお宅で有志を集めてレイラインの話をしようということになった。その会に、なんと篠座神社で禰宜を務める猪島氏が参加してくれた。
猪島氏と話して、参道の向きが北偏している謎が氷解した。
篠座神社の本殿自体も参道と同じ方向を向いているのだが、それは背後に御神体山である飯降山を背負う形になっているからだった。参道から拝殿、本殿に相対すると、その背後には飯降山が重なって見える。春分と秋分の日の夕日はその頂上に沈んでいくのだ。
平地であれば、春分と秋分の太陽は真西=方位角270°に沈んでいく。ところが、そこに山があると、日は平地よりも早く、真西よりもやや南の方向に沈む形になるわけだ。
篠座神社と背後の飯降山との距離は2.9kmあまり、標高差は800mある。篠座神社から飯降山頂上を見た時の仰角は14.9°になる。これを計算に入れると、春分・秋分の日の入方向はちょうど南に10°偏移して260°になる。これは参道の向きと篠座神社と飯降山の位置関係に一致する。
猪島氏は御神体山の頂上に沈んでいく太陽の写真を見せてくれたが、それがとても神々しかった。その光景を自分の目で見て、日想観に浸りたいと思ったのだ。
*篠座神社公式サイト
http://shinokura.net/
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