ぼくより8歳年上の従兄弟Hは、子供の頃のぼくにとって、いろいろ刺激を与えてくれるヒーローのような存在だった。
埼玉生まれの埼玉育ちの彼は、茨城の海が大好きで、高校の夏休みの半分くらいをぼくの実家で過ごし、毎日のように海に通った。親には受験勉強をするといって出かけてきたようだが、海水浴に出かけない時は、涼しい風の吹き抜ける縁側に横になって、ザックに詰めてきた本を読んだり、ギターを弾いてのんびり過ごしていた。
大阪万博のときは、彼が我が家と名古屋の叔母一家の引率係を引き受け、アルバイトの給料を貯めて買った自慢のニコマートで家族写真をたくさん撮ってくれた。「万博は人混みが凄いっていうから、俺、目立つようにこれを買ってきた」と、異様に大きな鍔の真っ赤なソンブレロを被って歩き、たしかにどんなところでも目立って、迷子になることはなかったが、「おーい、かず坊、こっちだ」と大声で呼ばれると、身内に思われるのが恥ずかしくて知らん顔をしていた。
ぼくもよく、従兄弟の川口の家へ遊びに行った。彼は、アマチュア無線の操作を教えてくれたり、愛車のホンダCB450の後ろにぼくを乗せて、近場を流してくれたりした。当時はヘルメットを被る義務はなく、昔の戦闘機乗りのような二眼のゴーグルだけつけて乗っていたが、あのときの風を切る爽快感が、後に、ぼくを砂漠やパミールの高地をオートバイで駆け抜けさせることになった。
Hはアナウンサー志望だったが、彼が大学を出る頃は高度経済成長に当たり、家業の鉄工所がフル稼働状態で、結局、夢は諦めて、家業を手伝うことになった。もともと手先が器用で機転の効く人間だったので、職人仕事が性に合ったようで、父親と二人三脚で、楽しそうに鉄工所の仕事に励んでいた。
鉄工所はずっと順風満帆で、30歳を過ぎる頃には、父親にかわって彼が切り盛りするようになっていた。無類ともいえる親孝行で、現場ではいつも父親を気遣い、たまの休みには、「夫婦で骨休みしてきなよ」と、両親を温泉旅行に送り出し、自分は酒を飲んでのんびり過ごしていた。
仕事がきついせいか、かつてのように趣味に時間をかけることはなくなり、休みの日にはもっぱら酒を飲んで、ゴロゴロと過ごしていた。たまに会うと、オートバイの話になったりしたが、「最近の高性能のやつより、俺は昔の手のかかるバイクのほうがいいな」と言って、ぼくのオートバイのキーを差し出しても、乗ってみようとはしなかった…そんなときはほとんどほろ酔いだったが。
何度か縁談話もあったようだが、本人はいたってのんびりしていて、不惑を過ぎても身を固める気配はなかった。
バブルが崩壊すると、鉄工所の経営に陰りが見えはじめた。伯父は半ば引退生活となり、事業を縮小し、ほとんどHが一人で切り盛りするようになった。それでも、受注は少なく、職業訓練所の講師などもこなして家計の足しとしていた。
ちょうど10年前、Hが50歳を過ぎたとき、老後のことを心配した両親の勧めで、ついに重い腰を上げ、見合いをすることにしたという話が伝わってきた。冷やかしに行ってやろうかと、ぼくが思っている矢先、突然、伯母が亡くなった。そして、畳み掛けるようにリーマン・ショックが起こった。
伯母の葬儀のとき、彼は幽鬼のように力を失っていた。そして、「おふくろの葬式出したら、何も無くなっちまったよ…」と、隣にいたぼくの耳にだけ聞こえる声で言った。
伯母の死から二年後、今度は伯父が亡くなった。そのときHは、まったく言葉もなく、感情も失って、ほんものの幽鬼のようにただぼんやりと立ち尽くしていた。彼に掛ける言葉を探したが、見つからなかった。
Hの妹のKは、嫁いでいたが、近くに家族で住んでいて、気力をなくしてしまったHに代わって、後を整理した。開店休業状態だった鉄工所は閉鎖し、自宅を取り壊して、兄が収入を得られるようにアパートを建てた。Hは、そのアパートの一室で管理人をしながら暮らすようになった。
伯母が亡くなった後、酒量が増え、鉄工所を閉鎖してからは、さらに浴びるように飲むようになった。Kは、そんな兄が心配で、最低限の生活費だけ与え、自分で酒を買って飲むことができないように管理した。
あるとき、Hに電話すると、「一成、遊びに来いよ、酒持って。ただし、Kに見つからないようにな、あいつ、心配し過ぎでうるさいからさ」と、間近で聞き耳を立てる者などいるはずもないのに、ヒソヒソ声で言った。
ちょうどリーマン・ショックの直前、ぼくはGPS機器のアタッチメントの輸入販売をサイドビジネスとして始めていて、これが少し当たり、オリジナルデザインの製品をHに作ってもらおうと考えていた。ところが、リーマン・ショックでサイドビジネス自体が風前の灯火となり、計画はあえなく立ち消えてしまった。
Hに計画を話したとき、「じゃ、さっそく旋盤とかバーナーとか揃えて、工場の体裁整えなきゃな。たしか、前に使ってた倉庫がまだ空いているはずだから、あの隅に置けばいいな」と、何十年か振りでHらしい明るい声を聞き、ぼくもHと仕事ができることに心が踊った。今思い返しても、あのとき彼に期待を持たせ、それを裏切ることになってしまったのが悔しくてならない。ぼくの落胆よりも、彼の落胆のほうが何倍も大きかっただろうから…。
昨年、年もいよいよ押し詰まり、ちょうど除夜の鐘が遠くから響き始めた頃、ふいにHのことが思い浮かんだ。もう40年以上前の夏の日、縁側に寝転んで本を読んでいる高校生のHの姿。そして、「お互い、歳とったねぇ」…なんて、無意識に宙空に呟いていた。こっそり酒を持っていくと話してからもうだいぶ経ってしまったが、年が明けたら好きな日本酒を持って、ぶらりと遊びに行ってみようと思いながら、2013年の年が暮れた。
そして、1月6日。母から電話が掛かってきた。「Hが死んじゃったよ。11日に火葬なんだって」。Hを子供の頃から可愛がっていた母は、「あの、優しいHが、死んじゃったんだってさ…」と言葉を詰まらせた。
翌日の夜、従兄弟のK夫婦に最寄りの駅まで迎えに来てもらい、Hが安置されている葬儀場まで連れて行ってもらった。
棺に収まったHは、最期に苦しんだはずなのに、不思議と安らかな顔をしていた。
暮れの30日から年明けの4日まで、妹のK夫婦が夫の実家に帰省することになり、その間の食費として、Hに5000円を渡した。以前は、体調が悪いのに、お金を渡すとすべて酒に変えてしまうので、まとまった金額は渡さないようにしていたが、最近では体調も良く、自転車に乗って遠出するような元気も出ていたので、少しくらい酒を飲んでも大丈夫だろうと思って渡したのだという。
妹夫婦を見送った後、Hは安い日本酒の紙パックを何本も買い込み、今まで我慢していた分を一気に飲んだらしい。たった一人の酒宴のうちに、Hは亡くなった。妹が帰ってきたときに、酒を飲んだのが見つかったら叱られると思ったのか、飲み干したパックはクローゼットの奥から見つかったという。
「もう少し待ってたら、俺がもっと旨い酒を持っていったのに…大晦日の晩は、わざわざさよならを言いに、寄ってくれたのか?」
35年前に亡くなったぼくの父や、伯父や伯母、祖母の葬儀には親戚一同が集まって見送った。Hの死顔に別れが言えたのは、K夫婦とぼくの三人だけだった。
「世知辛い時代になっちまったもんだよな、一成。だけど、俺は幸せだよ。これから、親父やお袋と一緒にいられるんだから」と、Hなら言うだろう。
「俺がそっちに行ったら、またCB450の後ろに乗せてくれよな、ヒデちゃん」
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