スピルバーグとトム・ハンクスが共同制作したテレビシリーズ『バンド・オブ・ブラザース』は、第二次大戦のノルマンディーに始まる連合軍の反攻作戦で、常に最前線にいた空挺部隊の物語を一つの小隊をモデルに描いたものだった。
緊迫した戦闘シーンばかりでなく、タフに見えていた指揮官が精神に異常を来してしまったり、ドイツ軍捕虜を何のためらいもなく殺す下士官がいたり、塹壕の中で味方と敵の話し声が聞き取れるくらい接近しているのに不思議な膠着状態に陥ったりと、部隊の生き残りの証言を元に構成されたドラマは不思議なリアリティがあった。
その終盤、ドイツ軍が敗走して、妙に気怠い平和が訪れたとき、「森の中で変なものを見つけた」とシープで偵察に出ていた兵士が戻ってくる。次の場面では、彼が広大な森の中で発見した強制収容所のシーンとなる。前線の兵士は、その存在をまったく知らず、骨と皮だけの幽鬼のような人間たちが無表情に漂い歩き、また泥濘んだ地面に折り重なって倒れている姿に、それまでの戦闘ではまったく見せたことのない困惑の表情で、ただ呆然と眺めている。
生死を分ける極限の戦いを経験し、仲間が目の前で砕け散る様子を何度も目撃してきた兵士たちも、その目の前にあるものの異常をすぐには受けいることができず、それまでの自分たちの戦いの意味までそこで喪失してしまったかのように立ち尽くしている。反対に収容者たちも自分たちが地獄から解放されたということを理解できずにいる。他の知的生物が宇宙にいることなど考えたこともなかった別の宇宙人どうしが、たまたま遭遇してしまったようだった。
このシリーズの中で、もっとも印象に残ったシーンだった。
最後に、兵士たちはアルプスの雄大な景色が広がるヒトラーの別荘「ベルクホーフ」に兵士たちは辿り着く。収容所とはまったく対極にある雲上の天国。ここでも、兵士たちは困惑するが、すぐにハメを外して、残されていたワインを浴びるほど飲んで酔っぱらい、収蔵品をこっそりくすねる。
『ヒトラーの秘密図書館』は、まさにこのベルクホーフにヒトラーが篭り、膨大な蔵書を貪るように読んでいた話がメインとなる。
第一次大戦に伝令兵として従軍したヒトラーは、もっとも敵に狙撃されやすい危険な伝令任務を生真面目にこなし、隊の9割が死んでしまった中で生き残る。口絵には、その伝令兵時代に、つかの間の休暇をもらい、街に出て、好きな建築の図録を買って嬉しそうに小走りするヒトラーの姿が掲載されている。その姿には、後にヨーロッパを狂気に叩き込む悪魔の片鱗はまったくない。ただ、うだつの上がりそうもない気の良さだけが取り柄の小柄な男というだけだ。
本書は、伍長で陸軍を除隊したヒトラーが、たまたま酒場での演説会で意外にも弁舌が立つのを認められ、経済界に太いパイプを持つパトロン、ディートリッヒ・フランクルエッカートによって見出されてナチス党の党首にまで登っていくプロセスと、正式に学問を収めたことのないヒトラーが、ひたすら読書に励み、理論武装していった…歪んだ知識によるものだったが…プロセスが、読書の記録とともに語られていく。
この本で語られるヒトラーの人生は、自らの野心で登り詰めていった人間ではなく、たまたま偶然が重なることによって、本来なら主役にはなりえなかった男が歴史によって選ばれてしまった悲劇ともとれる。ナチスの狂気は、ヒトラーの狂気を体現しのではなく、時代が孕んでいた狂気がヒトラーという無色透明な人間を操り人形のようにして体現したもののようにとれる。
『夜と霧』はヴィクトール・フランクルの名作。原題『ある心理学者の強制収容所体験』そのままで、ユダヤ人の心理学者だったフランクルが収容所に入れられ、そこで、生き延びた経験を淡々と記している。
強制収容所の中で正気を保って生き残るためには、生きることに期待を抱くのではなく、生きることが自分に何を期待しているのかに目を向けることだとフランクルは気づく。「生きることは、日々、そして時々刻々、問いかけてくる。私たちはその問いに答えを迫られている。考えこんだり、言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課する課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることに他ならない」。
しかし、そうして生き抜いた人は、希望を持つこと、感情を抱くことを忘れてしまった。
連合軍がやってきて、収容所の扉を解き放ったとき、フランクルは、ぼんやりと解放者たちを見ていた。そして、こう思う。「私たちは、まさに嬉しいとはどういうことかを忘れていた。それは、もう一度学び直さなければならない『何か』になってしまっていた」と。
一つの事象を多角的に見なおしてみること、様々な立場を想像して考えることは、あらためて大切なことだと思う。
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