東海村や大洗原子力研究所が至近の町で生まれ育ったぼくは、物心ついたときから、原発や関連施設で働く人たちのうわさ話を聞いて育った。
実家のある鉾田町(現鉾田市)から茨城県庁がある水戸市へ行くには、海岸沿いに通る国道51号線を北上していく。その沿道に、福井にある高速増殖炉「もんじゅ」の原型となった実験炉「常陽」を擁する大洗原子力研究所がある。何重にも巡らされたフェンスが何キロも続き、監視カメラの列が国道を睨む。そしてメインゲートは重厚なコンクリートの壁と鋼鉄の門に守られ、厳重な警備態勢が敷かれている。その前を通るときは、いつも不安な気分に囚われたものだった。ものものしい雰囲気に包まれた原発や原子力関係の施設は、どこか危険で怪しいもの…禍々しいタブーが隠されている場所という意識が無意識のうちに染みついていた。
ちなみに、国道51号線から海沿いに国道246号線、国道6号線と繋いで北上していけば、大洗を過ぎてしばらくして日本で初めて原発が置かれた東海村があり、さらに福島に入って、福島第二、福島第一と繋ながっていく。この海沿いの北上ルートは、今では並行するJR常磐線、常盤高速道とともに福島第一の立ち入り制限区域に阻まれ、寸断されている。
そんな東日本の原発銀座ともいえる地域に育ったために、スリーマイル事故や「チャイナ・シンドローム」は、とても身近な問題として感じられたし、1986年のチェルノブイリ事故は、子供の頃から感じていた「原子力」の不気味さが具体的な恐怖となって姿を現したことに戦慄した。
1986年は、4月にチェルノブイリ事故が起こり、ウクライナからベラルーシを中心に広範な地域が汚染された。あのとき、キエフに日本人の団体旅行客がいて、日本政府があわてて帰国させたことが深く印象に残っている。ぼくは、ちょうどその夏に仕事でシルクロードを巡る予定になっていて、汚染地帯と目される場所も含まれていた。予定を見合わせることも考えたが、結局は中国国内のキエフに近いソ連国境まで足を伸ばすことになった。
当時はまだソ連が健在で、中国も開放政策前だったが、現地の人間たちはチェルノブイリ事故のことをよく知っていて、かなり深刻にとらえていた。
広瀬隆の『危険な話』が出版されたのは、チェルノブイリ事故の翌年1987年だった。まだチェルノブイリの記憶も生々しく、また原発の問題は身近だったから、食い入るように読み、広瀬氏の講演も聴きに行った。
広瀬氏の指摘は、書くものも話しも、ややファナティックな響きがあるもののいちいち頷くことばかりだった。当時はチェルノブイリにショックを受けた欧米各国が一斉に脱原発の方向に動きを見せて、当然、その方向に向かっていくものとばかり思った。
ところが、あんな破局的な事故を経験しながら、どうしたわけか、再び原発推進へと趨勢が変化してしまう。そして、福島の悲劇に繋がる。
『危険な話』から四半世紀、広瀬氏は挫けることなく原発の危険性を訴え続けてきた。そして、2010年の8月に震災と原子力災害の複合災害が切迫しているとして、警鐘を鳴らしたのが本書だった。
「10年後に、日本という国があるのだろうかと尋ねられれば、かなり確率の高い話として日本はないかもしれないと悪い予感を覚える」という一文から始まる本書は、この一文を含めて『予言書』といってもいいほど、発行から七ヶ月後の原発震災の状況に符号している。
広瀬氏は、手に負えない高レベル核廃棄物を生み出し、それを処理する唯一の有効手段と謳われた核燃料サイクルがボトムエンドの高速増殖炉が破綻して成り立たないこと、また原発や再処理工場の複雑なシステムがその複雑さ故に事故の危険性を常に孕んでいることを理由に、原発そのものを否定してきた。
スリーマイルもチェルノブイリもいずれも人為的なミスで破滅的な事故まで進んでしまったのは、制御できない複雑で繊細すぎる技術のせいだった。1999年のJCO事故の後、「臨界事故」という想像を絶するあってはならない事故が、じつは日本の原発で何度も発生していたこと、それを隠蔽していたことが発覚したが、事故や故障が必然的に起きてしまうシステムを無理やり運用すれば、次から次へと起こる事故を隠蔽していくしかなくなってしまう。
そうした不合理そのものの原発に日本という国土が持つ「震災」の危険を重ね合わせると、未来は想像するだけで恐ろしいものとなる。本書の中でもっとも懸念されているのは、東海地震による浜岡原発の事故だが、1995年の阪神淡路大震災を皮切りに、日本列島が地震の活動期に入ったとして、浜岡だけでなくどの原発や再処理工場などの原子力施設も致命的な事故を起こす危険性をはらんでいる。その一例として福島第一原発が挙げられている。
「実はこの最終原稿を書いている最中の2010年6月17日に、東京電力の福島第一原子力発電所2号機で、電源喪失事故が起こり、あわやメルトダウンに突入かという重大事故が発生したのだ。日本のマスコミは、20年前であればすべての新聞とテレビが大々的に報道しただろうが、この時は南アフリカのワールドカップ一色で報道人として国民を守る義務を放棄して、この深刻な事故についてほとんど無報道だった。ショックを受けた東京電力が詳しい経過を隠し、それを追求するメディアもないとは、じつに恐ろしい時代になった。そもそもは、外部から発電所に送る電気系統が4つとも切れてしまったことが原因であった。もちろん、発電機も原子炉も緊急停止したが、原子炉内部の沸騰が激しく続いて、内部の水が見る見る減ってゆき、ぎりぎりで炉心溶融をまぬがれたのだ。おそろしいことに、この発端となった完全電源喪失の原因さえ特定できないのである。この四日前の6月13日に福島県沖を震源とするかなり強い地震が原発一帯を襲っていたが、それが遠因なのか? いずれにしろ、事故当日には地震が起こっていないのに、このような重大事故が起こったのだから、大地震がくればどうなるか…」
広瀬氏がそう記した9カ月後に、まさにそれが現実となる。福島の事故を「想定外」として必死で言い逃れしようとした原子力ムラの人間たちは、はっきりと「想定」されているこの一文について、どう説明するのだろう?
福島の事故の直後、当然、原発事故については第一人者ともいえる広瀬氏がすぐにマスコミに登場してくると思っていたが、彼がテレビ画面で語り始めるまでには、少し間があった。
はじめて登場した彼は、悲痛な表情で、いつもの「広瀬節」ではなく、打ち拉がれていた。それはそうだろう、四半世紀にわたって必死で訴えてきた原発の危険性が、まさに自分の訴えてきた内容通りの事故を起こすことで証明されてしまったのだから。だが、彼は、また以前のようなバイタリティーを取り戻して、講演活動を続けている。それは、原発を一刻も早く廃絶して、高レベルの廃棄物を安全に保管しなければ、福島は単なる序章として、人類が滅亡するような事態が待ち受けているからだ。
3.11の後、東日本は相変わらず揺れ続けている。大きな地震がある度に、「ただいまの地震による、福島第一原子力発電所、福島第二原子力発電所、東海第二原子力発電所および東海村周辺の原子力関連施設の被害は報告されておりません」というコメントが流れる。
「東海村周辺の原子力関連施設」とは、具体的には1997年まで稼動していた東海村の核燃料再処理工場で分離された400トンあまりの液体性高レベル放射性廃棄物の貯蔵施設を指している。全国の原発から出た使用済み核燃料を集め、ここで再処理濃縮された核のゴミで、これが漏出すれば、福島事故ですら比較にならない放射能が環境に撒き散らされることになる。青森県六ケ所村の再処理施設に蓄積されている液体性高レベル放射性廃棄物は240トン。これも非常に問題視されているけれど、それに倍するほどのものが東海村には貯蔵されている。
チェルノブイリ事故直後に一斉に脱原発に向かった世界は、いったい何がそうさせたのか気がつけばまた原発推進に戻っていた。そして福島。その福島の破局がまだ生々しいにも関わらず、また喉元すぎればなんとやらで、各地の原発の再稼働の話が持ち上がっている。
今なんとかしなければ必ず終末が待ち受けているということを忘れず、後世に遺恨を残さないために、この本をバイブルのように読み続けていかなければならない。
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