「磨崖仏」といえば、ほとんどは屋外の断崖に掘られ、長い年月の間の雨風によってエッジがそぎ落とされ、苔むしたりして周囲の自然に戻りつつあるようなものがほとんどだが、まれに仏像を取り囲むように堂が設けられて、彫りつけられた当時のままの活き活きとした姿をとどめているものがある。
もっとも、そうした堂に囲われて大切にされてきた仏像は秘仏となっていて、堂に入っても仮の仏と対面させられるケースが多い。
ところが、この大岩山日石寺の不動明王は本堂の正面に堂々とその姿を現している。高さ3メートルあまりの不動明王座像を中心に、左右に制咤迦童子、矜羯羅童子、阿弥陀如来座像、行基菩薩座像が配される。行基作と伝えられるから、1300年ほど前に彫られたものだが、当初から堂宇に守られてきたため、いまだ鑿の音が堂内に木霊するかのように生々しい迫力に満ちている。
今は真言密教の道場として整備されているが、行基開山ということは真言宗以前から聖地とされていた場所で、滝行のステージが整備されているところを見ると、修験の道場として古代から開かれていた山であることがわかる。
周囲の岩山で修行した修験者たちは、最後の仕上げにこの堂へと入り、灯明の明かりに立ち浮かぶこの像と対峙して、さぞかし肝を冷やしただろう。
今回、ぼくはまったく予備知識なしにこの寺を訪ね、いきなり蝋燭の火に浮かび上がる不動明王とその眷属に出会って、息を飲んだ。そして、その迫力に気持ちを絡めとられたように動けなくなった。
山野を跋渉して、暗い谷間で瞑想に耽った修験者も、ここに何があるのか知らされず、暗い堂宇に一人放り出されて、灯明のゆらめきの中で実際の大きさの何倍にも見えるこの憤怒の像に見据えられ、吹きすさぶ風に不動明王の低い唸りを聞けば、悲鳴はあげないまでも、しばし絶句し、生唾を飲み込んだかもしれない。
ここでうろたえれば、それはイニシエーションに失敗したことであり、修行は再び最初からやり直された……。
真言密教の道場となって以降は、この堂宇に篭もり、この不動明王がリアルに動き出すまで修行僧たちは経を唱え、断食して、ひたすら向き合っていたかもしれない。
ある不動明王は池の畔にあって、夕陽が揺らめく水面に反射してそれが後背を持つ像に映って、赤い炎の中で憤怒のオーラを放散させる。ある不動明王は一直線の洞窟の中に安置され、自然光が届かない普段は見ることができないが、冬至の夕陽が射すと、その光が真っ直ぐ洞窟の奥に届いて、赤く憤怒の炎を燃え上がらせる。
どうしたわけか、不動明王の像は、そうした光の演出によって、この仏が持つ本質を誰もが端的に感じ取れる仕掛けが施されている。
こうした仕掛けを持つ不動明王の多くが真言宗の寺のものであることを思うと、これも真言密教の伝道者である空海という人間の底知れない才能の一端なのだという感慨とともに、あらためて空海その人への興味が沸き上がってくる。
1200年前の日本を代表する…世界的に見ても稀有な…知的巨人と直接会話するのは不可能だが、空海が残した修行システムに自分も組み込まれてみれば、今でも息づく空海の精神に感応することができるかもしれない。
日石寺の不動明王と対峙して固まっているうちに、いつのまにか意識は空海に飛んでいた……。
日石寺の不動明王の奥から湧き出す水は「藤水」と呼ばれ、昔から霊泉として崇められてきた。かつて「加賀藩には名医が多いが、眼科医はいない」と言われ、それは眼病に効能のあるこの水が広く用いられてきたと伝えられている。
剱岳を源とする早月川やその支流が伏流して麓で湧き出すこのあたりは、今でも霊泉と崇められる湧水が多い。中でも日石寺から北に谷を二つ隔てた穴谷霊水は、近年、「万病に効く」として、全国から人が押し寄せている。以前に穴谷を訪ねたときは、ごった返す人と、先を争って大きなポリタンクに水を受けるその様子に、霊泉どころか地獄の亡者が溢れる場所のように感じて辟易してしまった。
今回は、日石寺の谷のもっと麓よりのところに地元の人達が大切にしている湧水を偶然見つけ、少しだけおすそ分けしてもらった。
この水は円やかな優しい味で、飲み下すと心身の不浄を洗い流してくれるように爽やかだった。そして、ペットボトルに汲んだままで、数日たっても、その爽やかさはまったく損なわれなかった。
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