グラシン紙で優しく手包みされた淡いクリーム色の表紙。キリッとしたオレンジの栞紐が挟み込まれて、それだけが目につくアクセントになっている。
そっとページを開くと、手漉きのような温く厚みのある紙に活版の文字が刻まれている。ミニマルすぎるほどミニマルな作りだけれど、だからこそ活版ならではの手作りの味わいが活きて、ゆったり安心した気分になれる。一字一句吟味された言葉が、豊穣な情景を沸き立たせながら、そのほぐれた心に沁み込んでくる。
「あぁ、これこそ書物だなぁ」
と、共感と羨望のため息が思わず漏れる。
"みつばちの木箱"と題されたこの本の作者は、上野望さん。もう15年来の友人だ。
彼女とは頻繁に会うわけでもなく、電話やメールのやりとりもあまりなく、何年かに一度、軽く食事しながら近況を語り合うだけだが、会えば、何故か数年のブランクなどなかったかのように、共通の話題に溶け込んでいける。「気の置けない友人」というのは、まさに彼女のような人を言うのだなと思う。
"みつばちの木箱"は、ときに養蜂家の視点から蜂を眺めて、蜂たちが感じる自然を想像し、ときに蜂そのものとなって、自然に浸る。
とても微細で繊細な自然の営みに引きこまれていき、気がつくとメビウスの輪の向こう側に回って、宇宙の神秘に触れている……それは、文章そのものとともに、この冊子そのものの作りがミニマルを極めているが故に、手触りや、一つ一つの活字の微妙なかすれ具合、そしてゆったりとられた余白の中に、果てしない深みが秘められていることが生み出す効果かもしれない。
上野さんは、この本を10年掛かりで作り上げた。
彼女が、どうしてみつばちに興味を持ったのか、ぼくは知らない。けれど、彼女のとても繊細で鋭いセンスが、みつばちというモチーフを捕らえたのは、必然だったように思う。
ずっと昔、「内田さん、養蜂家の知り合いいませんか」と、久しぶりに会ったときに尋ねられた。
祖母の甥が仕事をリタイアした後、群馬で養蜂家になっていた。そこを一度だけ訪ねて、アカシアの蜜を一升瓶に口一杯もらってきたことがあった。だが、それも当時すでに20年以上遡る昔のことで、もう遠縁の伯父がそのとき存命かどうかすらわからなかった。結局、その伝手は辿れず、ぼくは彼女の役にたつことができなかったが、彼女は独自に養蜂家を探し当てて、その技術や考え方に触れていった。
その後、全国各地に養蜂家を訪ね、みつばちの木箱をコアにした世界観を築いて、一冊の本にまとめあげた。
みつばちそのものと、みつばちとともに旅をする養蜂家、そしてみつばちと養蜂家が出会う世界中の自然、さらに表現手段としての「本」に限りない愛情を持ち、それを形にした上野さんをとても羨ましく思う。
慈しみ、育てていくということは、どんな対象でも可能なのだし、それがとても大切なのだと、"みつばちの木箱"を手にして思う。
様々な物事に、気ばかり急いてどれもこれも中途半端になってしまう自分にとって、"みつばちの木箱"は、時々、その宇宙に浸って慈しみの心を取り戻すバイブルになるだろう。
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