昨年もだいぶ押し詰まって、近畿日本ツーリスト地域振興事業部のOさんから連絡をもらった。
ある地域の観光資源を掘り起こしてツアーを創出する行政プロジェクトを手伝っているのだけれど、どうにもツアーの目玉というかコアとなるようなモノが見つからず膠着しているので、プランニングを手伝って欲しいとのこと。
いったいどこの地域なのかと思ったら、茨城県南部から千葉県北部にまたがる鹿嶋市、潮来市、香取市が作る「水郷三都」だという。
ぼくの故郷は鹿嶋市の北、今の鉾田市(旧鉾田町)で非常に縁が近いというか、もはやここは故郷といえる。水郷とは利根川の広い河口域とその北にある二つの湖、霞ヶ浦と北浦の沿岸地帯を指す。北浦の北岸に広がる鉾田市も広域で見れば水郷の一部であり、水郷三都は子供の頃から良く訪ねる場所でもあった。『レイラインハンター』でも、この地域に含まれる東国三社(鹿島神宮、香取神宮、息栖神社)の話に1章丸ごと当て、その取材に幾度も足を運んだ場所だ。
水郷地帯は、かつては利根川の広大な河口流域に無数の運河が発達した水運が盛んな地方だったが、明治以降に鉄道や陸上交通が運送の主役になると、途端に寂れてしまった。
元々水運の中継地として発達したところで、水が豊富なため有数の米どころでもあるが、エリアの中に温泉があるわけでもなく、風光明媚な景勝地もなく、雰囲気のある城下町でもなく、いわゆる「観光資源」には乏しい。地元出身の贔屓目で見ても、一般的な観光資源といえば小江戸風情のある佐原の街と、潮来の手漕ぎ舟による水路巡りくらいしか思い浮かばない。
鹿嶋市の担当者は、O氏に対して、「うちにはこれしかありませんから」と鹿島神宮の大鳥居と鹿島アントラーズの本拠地である鹿嶋スタジアムを案内しただけだったというが、ぶっきらぼうなこの地方の人の気質も含めて、そんなものしか思い当たらないというのもよく理解できる。
水運が廃れて以降、逆に「関東のチベット」と呼ばれるようなアクセスの悪さによって取り残され、ようやく鹿島開発が始まって巨大なコンビナートができ、そこにやってきた企業の恩恵に縋ってきた鹿島の人にとってみれば、「観光」について投げやりになってしまうのもよくわかる。
でも、今までの「観光」という文脈から離れて、土地の持つ魅力を見直してみれば、「おらが水郷」は魅力にあふれた土地だと思う。
高校時代にオートバイの免許を取ると、よく一人で湖の沿岸や鹿島灘を走りまわった。北浦と霞ヶ浦に沈む夕陽は格別だし、鹿島灘から見る太平洋に昇る朝日も雄大で爽快だった。大学時代に友人を田舎に連れてくると、一面の青い水田を見渡して、「まるで緑の海だ!」と驚嘆した。
昔から馴染みのあった鹿島神宮は、レイラインハンティングという新しい観点から見ると、そこには古代大和朝廷の東国経営の思想が露骨に現れているし、何より記紀神話の中の「国譲り」のくだりが、東国三社によって体現されていることが地図上にはっきりと示される。
鹿嶋市の担当者は、「こんなものしかない」と鹿島神宮を見下げたような言い方をしたようだが、この神社の歴史を少しでも知っていれば、そんな言い方はしなかっただろう。奈良の春日大社がその背景を成す森と合わせて世界遺産に登録されたが、そもそも春日大社は鹿島神宮を分社したもので、こちらが「本家」になる。
大化の改新によって政治の実権を握り、その後朝廷を支配し続けた藤原は、前身が中臣であり、その中臣本拠地が鹿島であって、鹿島神宮は中臣の氏神様を祀る社だった(もともとは物部氏が崇拝していたもので、中臣がそれを自分のものにすり替えたという説もある)。鹿島神宮では鹿を神の遣いとして、鹿園で大切に飼育されているが、この鹿が春日大社へ氏神様を運んだとされる。その名残が奈良公園に群れる鹿だとされている。鹿島アントラーズが鹿をマスコットにしているのもこの鹿に因んでいる。
鹿島神宮はまた古代の巨石信仰を象徴する遺構があり、それが古代はこのあたりが東国の蝦夷と大和朝廷がぶつかりあう最前線であったことを証明していて、古代を想いつつ遺構を辿れば感慨深い。
潮来は街の中に水路が発達し、昔は人も物も舟で移動していた。嫁入りも舟で行い、舟から岸辺を彩る花を眺めながら宴を催すといったことも行われた。今は十二橋巡りとして、菅笠に絣の昔姿の女船頭さんが漕ぐベニス風遊覧舟あるけれど、水運をもっと生活にも活用して往時の雰囲気を少しでも再現すれば、それはそれで生きる歴史博物館のようにもできると思う。
昔、若狭の宿PAMCOの館長である田辺さんに呼ばれて、若狭の観光関係の人達と懇談したとき、ちょうどこの水郷三都の担当者と同じように、自分たちの故郷の歴史や文化をあまりにも知らなさすぎることに唖然としたのを思い出す。
その後、若狭では田辺さんが中心になって、観光組合の若手が集まり、自分たちが忘れている地元の文化や風物を再発掘して、それを新しい旅や体験として提供しようという試みが成功しはじめている。
馬鹿の一つ覚えで観光といえば「温泉」と「グルメ」などという時代は終わった。これからは、その土地でしか体験できないこと、あるいは体感できないことをこそ「観光資源」として発掘して、それをアピールしていかなければならない。それはなにも新しいことではなくて、本来、その地に根ざした歴史や文化を紐解けばいくらでも出てくる。
今回、自分の生まれ故郷のツアー開発に関係することになって、つくづく奇遇だと思うのは、このコラムでも『レイラインハンター』でも何度も触れている「土地に呼ばれる」ということだ。
ある土地についてぼくがイメージすると、必ずその土地に住む人から訪問の誘いを受けることになる。それは、土地に眠る地霊=ゲニウス・ロキが、ぼくという媒体を通じて覚醒しようとする意志の現れではないかと思う。
若狭もしかり、アラハバキの痕跡を求めた北東北の縄文遺跡群も、元伊勢や出雲も、瀬戸内も…例をあげればキリがない。
そんな中、なかなか結びつかなかったのが、自分の故郷だった。それも、今回、縁があって、土地に呼ばれることになった。
いろいろと思い入れの深い故郷だからこそ、しっかりとその地霊と向きあって、土地に秘められた様々な資源を活かしていきたいと思う。
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