『観音』という言葉は、『遠くの音を観る』という意味だそうだ。ヒンドゥー語の「アヴァロキテシュヴァラ」。"ava"=「遠く」、 "lokita"=「光る、輝く」、"svara"=「音」。
遠くというのは、必ずしも距離的に遠いということではない。「ここ」とは異なる次元、彼岸といった意味でもあるだろう。
『観音』は、観音菩薩という仏の意味でもあり、 つまりは遠くにおわす観音のその存在を示すイマジネーションを自らの内に描き出すということになる。
キリスト教なら「神の福音」ということになるのかもしれないが、こちらは、 人間より上位にいる唯一絶対の神が幸せを投げ与えてくれるといったような意味合いで、人間は、ただひたすら神という存在を信じて、 それに向かって拝むしかない。
だが、観音は、ただ拝めばいいというのではなく、具体的に自分が求める救いやら安らぎの「形」を「観想」しなければならず、 それが明確であればあるほど救いや安らぎも明確に現れる。あくまでも、自分が主体的に思考し、ただ闇雲に拝むのではなく、 イメージを具体化していかなければ、救いも安らぎももたらされない。
東洋思想は、とても主体的な思想だ。すべては、自分にかかっている。受身に待つのではなく、 自分から彼岸=イマジネーションの世界に主体的にアプローチして行き、じつは何もないその場所に、想像力を働かせて、 救いや安らぎのイメージを確立しなければならない。
しかも、思考装置としてとても優れていて、救いや安らぎ、あるいはそれをサポートしてくれるイメージとしての「姿」 がいくつか用意されている。
観音なら、聖観音、千手観音、馬頭観音、十一面観音、准底観音、如意輪観音、 不空羂索観音の七観音や三十三の応神観音といったある種のメニューともいえる具体的なイメージも用意されている。
人が何か悩みを抱えたとき、多彩な観音のイメージの中から、自分に救いをもたらしてくれる観音を心に思い描き、 それが身近にあるようにイメージする。それが『遠くの音を観る』という行為だ。
これは、心理療法そのものだ。それもカウンセリングに頼って、「とりあえず」不安を取り除くといった対症療法ではなく、 自ら解決することで「克服」することを意図しているとても洗練された療法だ。
洗練されているといえば、例えば、「如来」と「菩薩」の違いにも、東洋思想の洗練度がよく現れている。如来は仏像としては、 薄い一重の布を纏うだけで裸に近い姿をしている。ところが菩薩のほうは、しっかりとした服装で武器を手にしている。
如来も菩薩も悟りを開いた仏ということでは同じだが、如来は悟達し満足し、彼岸で安息しているのに対し、菩薩は彼岸に留まらず、 この世に舞い降りてきて、人の悟りを助けようとする。そんな「機能的」な違いが、はっきりとした姿形で表現されている。
そんなことを思ううち、ふと観音を訪ねたくなって出かけてきた。
坂東三十三番札所の一つ、巌殿山正法寺。ここには、千手観音像が安置されている。
濃密な緑から立ち上る蒸せるような暑さに喘ぎながら、参道を辿っていくと、小広い境内に出る。そこには、巨大なイチョウが聳え、 これに見守られた木陰には、麓から爽やかな風が吹き上げてくる。ホッと一息ついて、足元を見ると、そこに千手観音がいた。
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