GWは、宮沢賢治の足跡を訪ねる旅をしてきた。
あの「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ……」という詩が、37歳でこの世を去った賢治の最後の詩であり、それも、 彼の死後に発見されたものであることを知った。
そして、農業振興に力を注いだ晩年の賢治は、自分の理想になかなか近づくことができず、 自らのあり方にも疑問を抱いていたことを知った。
花巻をはじめ、彼の縁の場所には、あの有名なマント姿で俯きながら歩む賢治の姿がオブジェとして展示されているが、 そんな賢治の晩年のことを思うと、そのオブジェの姿がなんとなくもの悲しく思える。
賢治は詩作や童話作品の他に、絵画も残している。そんな絵画の中で、昔から、『日輪と山』という作品が好きだった。時々、 一人で夜の山に登り、自らの内にあるものを見つめていたという賢治は、それを現実の風景とも幻想ともとらえられるような景色として描いた。
自らが自らを高めていき、その凝縮された頂点を目指すかのように、急な傾斜で立ち上がる山と、それにかかる日輪。 熱心な仏教徒でもあった彼は、そこに自己実現と信仰との融合を見たのかもしれない。
花巻を後にした後、遠野を訪れた。
遠野物語の語り手である佐々木喜善がエスペラント語の学習に熱心だったことを知った。エスペラント語といえば、 賢治もエスペラント語に傾倒して、イーハトーボをはじめ様々な地名をエスペラント風にしたことで知られるが、じつは、 晩年の二人は交流があったのだという。
歳は佐々木喜善のほうが10歳上だが、亡くなったのは奇しくも賢治と8日違いだったという。
賢治は地元岩手の自然や歴史からユニークな童話を発想し、喜善は、丹念に昔話を掘り起こして、 地元の自然や歴史に再び光を与えていった。
新緑が眩しい山々を抜け、色とりどりの花に迎えられて、北上山地独特の伸びやかな草原で瑞々しい風に吹かれ、 賢治と同時代に遊んだような不思議な旅の時間だった。
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