昨日は、久しぶりに夏至の太陽を拝した。
一日、夏至の太陽の元で動きまわって、2002年の夏至のツーリングを思い出した。
あのときは、伊勢二見浦の日の出を目指した。前日の夜に東京をスタートして、午前2時過ぎに伊勢二見浦に着いた。ここで夏越の祓をして、海に入って禊をする人たちと一緒に、遠く海の向こうの富士山の背後から昇る朝日を拝んだ。さらに、太陽の動きを追ってオートバイを走らせ、京都東山から北山を抜け、大江の元伊勢までたどり着いた。天気予報では梅雨前線が北上して、低気圧が東進してくるので大荒れになるとされていたが、奇跡的に前線が押し下げられ、灼熱の夏至の陽に焼かれながら走った。
前日の夕方まで熱があって、体もだるく、天気予報も絶望的だったので、計画を中止するつもりで午後から横になっていたのだが、夜、ふいに、「行かなければ」と思った。啓示といえばいいのか、この夏至の日の太陽を追いかけることが、自分にとって大きなターニングポイントになるという気がしたのだ。
前日の19時過ぎに東京を出発して、丸々24時間、移動距離は軽く1000kmを越えた。そして、夏至の日没を迎える19時、大江にある元伊勢にたどり着いた。ここの内宮がご神体山とする日室岳の頂上に沈む夕日を拝し、お祓いを受けた。気がつけば、元気が漲っていた。
その時の旅の記録はレイラインハンティングのページに今も残っている。
http://www.ley-line.net/column/020624.html
あのときはまだ太陽信仰についても、日本の古代史や神話についても知識が浅く、神社は日本神話をそのまま体現したものであり、日本人の精神性を象徴しているものだと無邪気に考えていた。今、記録を読み返すと、恥ずかしいくらいだが、何よりも行動することが大切だと思うから、リライトもせずそのままにしている。
この時よりだいぶ後になって、彼岸や夏至に太陽を追いかける「日巡り」という風習がかつてあったということを知った。そして、夏至の太陽を追いかけることで気力が漲ったあの日の体験は、まさに「日巡り」だったんだなと納得した。
今回は夏至の日巡りが目的ではなく、昨年から調べている福島県いわき市の聖地の構造を確認するためだったが、朝日を拝んだ後、市内の聖地を一日巡り、最後はいわき市のシンボルともいえる湯ノ岳に沈む夕日を見届け、図らずも「日巡り」を果たす格好になった。
五木寛之は『風の王国』で、山の世界の彼岸と里の世界の此岸との間の世間を動く「セケンシ」という山窩を思わせる民を描いたが、彼岸と此岸が繋がる二至二分の太陽を追いかける「日巡り」のことを「セケンシ」として描いたのではないかと思う。二上山を超人のごとく駆け巡るセケンシを目撃した主人公は、彼らに惹かれ、彼らの世界に入っていく。近代化されていく日本の中で、影へと追いやられ、それでも古代からの伝統を守って、聖地を駆け巡る。たしか、セケンシたちは伊豆辺路も自らの庭としていた。
自ら「日巡り=セケンシ」となって、太陽を追いかけてみると、彼岸と此岸を行き来することが心身をリセットするきっかけになるのではないかとも思う。
昼間は、古代にいわきに鎮座した「鹿島神社11社」を主に巡ったが、いわゆる「正史」に伝えられる坂上田村麿創建の由緒よりももっとずっと古くに成立していた可能性が高いことをその構造から確信した。また同じ歴史を持つ鹿島神社でも、ある社は手入れもされないまま朽ち果てて、探すのが困難だったところもあれば、いまだに手厚く崇敬されて、境内は掃き清められ社殿も手入れが行き届いているところもあった。
社は、観念的な彼岸への通路でもあるわけで、これを大切に守ることは、常に彼岸と此岸とを繋ぐチャンネルを開いていることになる。一方、朽ち果てるままに打ち捨ててしまえば、彼岸と此岸のチャンネルは閉じられ、再生や復活の風を感じられなくなった集落は社と同じく朽ち果てていってしまうのかもしれない。
昨今の神社ブームで、「パワースポット」と称されるような大社はもてはやされるが、もっと目を向けるべきなのは、小さなコミュニティを見守る小さな鎮守なのかもしれない。
いわき市と県境を挟んだ北茨城にある鹿の湯松屋という宿に泊まった時、ぼくが聖地を調べているというと、宿の主人が、ぜひ、氏神様をお参りしていってくれと言って、翌朝案内してくれた。小高い丘の上にある小さな祠には「鹿島神社」と手描きの額が掲げられ、周囲は下草が刈られてこざっぱりとしていた。早朝の潤いをたっぷり含んだ風が流れて気持ちよかった。東京から戻って家業を継いだ主人が、長い間打ち捨てられていたこの祠を直し、参道も整備したのだという。
「氏神様をきれいにしてから、毎朝、ここへ来るのが楽しみになったんです。こういうことがご利益だと思うんですよね」
と、主人は幸せそうに語った。
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