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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.96
2016年6月16日号
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◆今回の内容
1.鹿島神宮の謎
・藤原・中臣氏の出自と鹿島神宮
・甕の信仰
2.お知らせ
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鹿島神宮の謎
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鹿島神宮は日本を代表する大社の一つですが、不可思議なところが多々あります。
前回は、鹿島神宮のすぐ北に位置する私の故郷ではこの神社にあまり参詣しないこと、また本殿と奥宮はそれぞれ独立した信仰の形となっていることなどを紹介しましたが、今回は、鹿島神宮にまつわる謎をもう少し掘り下げてみたいと思います。
【藤原・中臣氏の出自と鹿島神宮】
鹿島神宮に関して私がもっとも不思議に思うのは、日本の古代史において重要な役割を果たした中臣氏を輩出した神社でありながら、それを自慢もしないし、それどころか触れることがタブーでもあるかのように見えるところです。
中大兄皇子(天智天皇)とともに、乙巳の変において蘇我氏を倒し、今に続く律令国家としての日本の礎を築いた中臣鎌足(藤原鎌足)は、鹿島神宮の神官であった中臣氏の出自と伝えられています。
藤原鎌足が創始した藤原家は、以降貴族筆頭の名門として日本の政治を動かしていくわけですが、奈良に根づくと同時に故郷の鹿島神宮を勧請して春日大社を開きます。
ご存知のように春日大社は世界遺産にも指定され、日本屈指の聖地として古くから崇められてきました。しかし、その本社である鹿島神宮は、春日大社との関係も、藤原氏の元となった中臣氏が出身であることもほとんどアピールしていませし、鹿島神宮のお膝元である鹿嶋市でも、春日大社や奈良との繋がりを強調するようなイベントは行いません。鹿島神宮で有名なのは、ご神体である要石と、この地で生まれ育った剣豪塚原卜伝くらいです。鹿島神宮に参詣する人のほとんどは、ここが春日大社の元となったこともしらないでしょう。
単に奥ゆかしいというわけではなく、藤原・中臣氏や春日大社との関わりは伏せておきたいような空気が漂っているのです。
関裕二氏は『藤原氏の謎』の中で、中臣鎌足が百済最後の王であった豊章であり、日本に亡命後、中大兄皇子の庇護の元、彼を輔弼していたのではないかという説をあげています。乙巳の変の革命成功後、天皇の右腕として権力を振るうためには渡来人であることを隠して、それなりの出自である貴族としなければなりません。そこで、都からは僻遠の東国にある鹿島神宮の神官の家系ということにしたのだというのです。この関説をとれば、鹿島神宮が中臣鎌足や春日大社との関係にあまり触れたくないのもわかります。ただ、中臣鎌足を百済王豊章であったと断定するには、証拠がいささか希薄です。
中臣氏は、元は亀卜を行う卜部であったという説が今では有力で、その出自を追えば、中臣鎌足を豊章に比定しなくても説明が成り立ちます。
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