30年近く前の夏の盛り、飛騨高山郊外の丹生川にある千光寺を訪れた。どうしてここを訪ねることになったのか、今では細かい経緯を思い出せないが、たしか、高山の宿で知り合った大学生に勧められて出かけていったのだったと思う。
その年は妙に暑い夏で、盆地の高山は街全体から陽炎が立ち上っているようだった。郊外に出ると少しはましになったが、千光寺へ続く山道を喘ぎながら登っていくと、気を失いそうだった。
途中、何度か引き返して、涼しい上高地方面へ向かおうと考えながらも、そのまま歩を進めていったのは、今になってみれば、円空仏の導き……円空仏が象徴する『地霊』の導きではなかったかとも思える。
ようやく長い坂を登りきって深い山中に切り開かれた寺の境内に出てみると、そこはどこにでもありそうなこじんまりした寺で、なんだか無駄な労力を使ったような気がして、少しがっかりした。
だが、そんな徒労感も暑さも、すべて円空仏と向かい合ったときに吹っ飛んでしまった。
一刀彫で荒削り……円空仏はそんな風に評されるけれど、ぼくは円空仏と初めて向かい合ったときに、こんなに繊細なものがこの世にあるのかと慄然とした。たしかに、一刀彫の鑿跡は大胆で、造形も細かいわけではないのだが、だからこそ自然そのものの木の素材感やその年輪に認められた土地の歴史のようなものが表出していて、逆に人の手が加わり過ぎたものよりも遥かに繊細に見えたのだった。
他の仏像が、徹底した様式美で人工の美しさを見せるのに対して、円空仏は人である円空と個々の土地の自然とが合作した何物かであるようにぼくには見えた。
この出会いをきっかけに、円空仏とこれを刻んだ円空という人間がとても気になるようになった。
円空仏だけを目的に旅をするということはなかったが、旅先で円空仏を所蔵している寺や円空縁の場所が近いことを知ると、そこへ足を伸ばさずにはいられなかった。
円空が刻んだ仏は、どれも独特の笑みを浮かべている。その笑みによって、仏は「生」を与えられる。微笑む仏と向き合ったとき、やさしく歓迎されたように感じられ、ゆったりした安心感と和みに満たされる。
円空仏の笑みとそれが醸し出す安心感は、いったい何なのだろう……そんな疑問を持ち続けてきた。
昨日、朝起きて、何気なくテレビをつけると、いきなり床の間に置かれた円空仏が飛び込んできた。一人の老写真家がライティングを工夫して、なんとか円空仏の笑みを際立たせようとしている。その写真家は、長年奈良で仏像や寺社を撮り続け、春分と秋分の太陽によって飛鳥の神社仏閣が一直線に結ばれる「太陽の道」という現象を発見した小川光三氏だった。
日曜美術館という番組で、小川氏の撮影シーンを皮切りに、各地の円空仏を司会の姜尚中氏が紹介しながらゲストの仏師、堀敏一氏と宗教学者、正木晃氏と話を進めていく。
堀氏は、なんとか円空仏の笑みを自分で再現してみたいと挑戦するのだが、果たせないという。
円空が文書を残していることをこの番組で初めて知った。そこには、円空が行脚した全国各地の土地の神の話が記されていた。そして、その中で、「神と人との仲立ちとなって生きていくことに悔いはない」という一文があった。
この円空の言葉に、長年疑問だった円空仏の笑みの意味が氷解した。
円空は「仏」を彫っていたのではなく、各地に埋れた土地の神=ゲニウス・ロキを発掘し、その姿を土地に生えていた木に刻んだのだ。
室町から江戸初期にかけて仏教が近代化されて整備されていく中で、地方それぞれの土着の信仰は弾圧されていく。そして、地方で崇められていた神=ゲニウス・ロキは、鬼として排斥される。
修験者であった円空は、土地に眠るゲニウス・ロキと交感し、それを蘇らせ、土地の人達に自分たちのアイデンティティを再認識してもらうことを自らの使命とした。
円空仏の笑みは、再生されたゲニウス・ロキの歓喜だった。
岐阜県の洞戸にある洞戸三体は、一本の立木を三つに割って、それぞれに十一面観音、善女竜王、善財童子を刻んだものだが、1.7mから2mに及ぶこの像は、神と人との仲立ちとなるという円空の決意を知って眺めると、トーテムポールそのものだった。トーテムはその土地に息づく動物にゲニウス・ロキを仮託したものだが、円空は日本人の心情に合う「仏」という形でそれを表現した。それが、はっきりとわかる。
ちょうどぼく自身が日本中にゲニウス・ロキを追いかけた『レイラインハンター』を脱稿したばかりということもあって、この円空を巡る番組は心に染みた。
この夏は、定例のツーリング取材のメインテーマに円空仏を据えて、旅をしてみたいと思う。
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