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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.292
2024年8月15日号
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◆今回の内容
○高野聖 その2
・高野聖と高野山
・高野聖としての西行
・時宗と高野山
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高野聖 その2
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前回は、全国各地に残る空海伝説のほとんどは「高野聖」と呼ばれた全国遍歴の僧が広めた。彼らは、高野山のために喜捨を募ることを目的とした「勧進聖(勧進僧)」だった。そして、俗世間と濃密に接触する勧進という行為が高野聖をも俗化すると同時に、謡曲や能などの芸能を生み出し発展させた。そんな高野聖の性質と彼らが果たした役割に焦点を当ててみました。
今回は、そうした高野聖がどのように成立し、そして、廃れていったのかを、高野山という聖地の変遷と重ね合わせながら辿ってみたいと思います。
●高野聖と高野山
高野山入口に荘厳な佇まいを見せ、この信仰の山の象徴ともなっている金剛峯寺壇上伽藍。ここから東に伸びるメインストリートは、小田原通りと呼ばれています。この「小田原」とは神奈川県の小田原ではなく、今の京都府木津川市の当尾付近にあった興福寺の念仏別所の「小田原」に由来します。京都と奈良のちょうど境に位置するこの小田原には、かつて多くの修行僧が集まっていました。
その小田原で修行し、後に高野山に入った教懐(きょうかい)は、 寛治二年(1088)の白河上皇高野御幸の際に勧進上人に選ばれ、配下に多くの勧進聖つまり高野聖を抱えるようになりました。この教懐の通称だった「小田原迎接房」が通りの名として残ったのです。
『高野山往生伝』によれば、教懐は長保三年(1001)に「相公鉄」という平安京のさる身分の高い人の家に生まれたとされます。その父が讃岐守のとき、罪人をとらえて拷問するのを目撃し、その後、罪人の怨霊によって一家がつぎつぎにとり殺されるも教懐一人だけ残ったと記されています。
ひとりぼっちとなった彼は、父の罪をほろぼすために出家して興福寺に入ります。しかし、ここでも怨霊に悩まされ、興福寺の念仏別所の小田原に移ったのでした。小田原では、ひたすら大仏頂陀羅尼と阿弥陀の真言念仏を唱えて祈り、これによって怨霊になやまされることもなくなったとされます。
教懐が小田原から高野山へ移ったのは70歳のときで、その年齢からして、彼はここで往生を遂げようとしたのでしょう。しかし、彼の意に反して、高野山で93歳まで20年余りを生き延びました。その20年余りの間に、高野聖の制度を確立し、衰退しかかっていた高野山をその組織力による勧進で再興し、高野聖の祖と呼ばれるようになったのです。
高野山は、室町期に一遍の時宗が席巻し、「南無阿弥陀仏」の念仏が一山に響き渡ることになりますが、教懐の時代の念仏は真言念仏であり、阿弥陀の真言とその行法が極楽浄土往生へ至る道として、これを熱心に説きました。そして、臨終に際して、衆僧の真言念仏合殺(節をつけた念仏の合唱)のうちに、めでたく往生を遂げたと伝えられています。
教懐が組織した高野聖のシステムをさらに発展させたのは覚鑁(かくばん)でした。覚鑁は高野山中興の祖としても知られますが、一方で新義真言宗の分派による高野山教団の分裂を招きました。
嘉保二年(1095)生まれの覚鑁は、永久二年(1114)に高野山に登り、阿波上人とよばれた別所聖の浄心房青蓮の往生院に身を寄せました。青蓮は阿波を出て廻国したのち、熊野で修行し、高野山に登った修験僧で、覚鑁が身を寄せたときには、高野山で独自の聖集団を作り上げていました。
覚鑁は、この往生院で6年間に渡って修行しましたが、往生院は、創始者である青蓮の修行体験を反映した山伏的な実践を主体とする修行場であったため、もっと密教に即した儀礼や教義を学ぶ必要があると考え、保安元年(1120)に山を降ります。そして、まず仁和寺に入って広沢流事相を修めます。
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