□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.274
2023年11月16日号
□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■□■
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
◆今回の内容
○AIは聖なるものの夢を見るのか?
・聖性と脱聖化
・ChatGPTとの対話。「新たな聖性」について
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
AIは聖なるものの夢を見るのか?
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
聖性や霊性は、この講座のテーマとして何度か取り上げてきました。それは、宗教には必須なものであり、また私のように特定の宗教を信じない者にとっても、物事の背後やあるいは物事に付随するように漠然と感じられるものであり、それが畏敬の念を呼び起こします。
広い意味でとらえれば、フェティッシュやアフォーダンスも、それがある種の聖性(特定の人に限られるものも含めて)のようなものだからこそ、理屈によらずに感覚や感情を刺激されるのだともいえます。
一方、科学技術の進展や経済合理性を追求してきた現代にあっては、聖性や霊性が薄れ、あるいはそれがあったとしても感性が薄れ、ミルチャ・エリアーデが指摘したような「脱聖化」が進んできたように思えます。
聖性や霊性というのは、人間にとって本能的な寄辺ともいえるものです。人は聖性や霊性を感じるからこそ、物事を大切に思ったり、私利私欲を離れた…流行りの言葉でいえば「利他」的な行動をとることもできます。それがなくなってしまえば、世界も人生も無味乾燥なものになってしまいます。
しかし、現実には「脱聖化」が進み、愚かな戦争が繰り返され、経済格差もどんどん広がっています。「脱聖化」によって奪われてきた「聖性」は、現代社会にあっては、もう幻に過ぎないものになってしまったのでしょうか。それとも、それはまだどこかに息づいているのでしょうか。そして、新たな聖性が生まれる可能性はないのでしょうか。
今回は、そんなテーマを少し掘り下げてみたいと思います。じつは、当初、本稿では「聖性」の意味について、深く掘り下げようと思っていました。ところが、本文中にも出てくる「Pluto」というアニメ作品を観て、本来は次の回に触れようと思っていたテーマを先に取り上げることにしました。
「Pluto」は手塚治虫の原作を浦沢直樹がコンセプトを掘り下げてリメイクした作品で、AIを取り巻く今日的な問題である、AIは意識を持ちうるのかという点に深く切り込んでいます。今、まさに世界を席巻し始めているChatGPTのようなLLM(大規模言語モデル)や生成AIは、そのベクトルの先に、はっきりと「Pluto」の世界を見せています。それで、こちらのほうが喫緊のテーマだと思えたのです。
そこで、今回は今日的な「聖性」について触れ、後の回で、聖性の詳細について掘り下げたいと思います。
●聖性と脱聖化●
まず、「聖性」ということを簡単におさらいしてみます。「聖性」は宗教学ではもっとも重要ともいえるキーワードであり、エリアーデは「聖性」は現実のプロファン(世俗的な、非聖なる)な領域とは区別される超越的な実存の状態や質としてとらえました。そして、聖なるものは、しばしば場や物体において「ヒエロファニー」として現れると説きました。ヒエロファニーは神聖なものが普遍的なものや実存の基本的なレベルで顕現する瞬間も意味しています。
さらに、エリアーデは「聖性」と「プロファン(俗世)」を対比し、宗教的経験の意味は、聖なる時間(例えば祝祭日)や空間(聖域など)を通じてプロファンな日常生活から脱出することにあり、そこで語られる神話や示されるシンボル、また特別な儀式が世界を聖性に結びつけると考えました。
馴染みの言葉でいえば「ハレとケ」、「祭りと日常」ともいえます。そのハレとケ、祭りと日常を結びつけるものが聖性であり、ハレや祭りでの体験がヒエロファニーをもたらすことで、「ケ=日常」の繰り返しでマンネリ化した世界や個人の精神が刷新されるというわけです。
>>>>>続きは「聖地学講座メールマガジン」で
初月の二回分は無料で購読いただけます。
最近のコメント