いわゆる「秘伝書」と呼ばれるようなものは、その正確な内容を熟達者や同じ結社の仲間に伝えるために、書き方に様々な仕掛けがある。
文字や記号を置き換えたり、特定のルールに基づいて並べ替えた暗号化や、特定の知識を持つ者だけにわかる比喩を用いたり、独自の言語や表記法を用いることもある。さらには、文章の順序を入れ替えたり、文字や図の中もしくはその配置が記号となっているケースや、重要な部分が欠落していて、そこだけは口伝で伝えられていて、記憶にある口伝と秘伝書を突き合わせることによって、はじめて意味を成すようなものもある。
そんなあまたある秘伝書の中で、「作庭記」は、誰にでも読める平易な文章で、しかもひらがなが多用されていて、ずいぶん親切な解説書のような印象を受ける。ところが、これは、その平易なところに秘伝書たる由縁がある。
どういうことかというと、ひらがなや当て字の漢字が用いられている部分に、それを漢字の単語や熟語にしようとすると、同音異義語がいつくもあって、どれを当てはめればいいのか混乱してしまう。しかも、そうした部分は、素人にはどの漢字や単語を当てはめても大まかな意味は通る上に、作庭の知識をかなり持っている庭師だと、微妙なニュアンスを間違って汲み取って、違う漢字や単語を当てはめてしまうようになっているという。
そこそこ自分の腕や知識に自信のある庭師が、作庭記を「簡単だ」と思って庭を作ってしまうと、一見したところはまとまった形の庭になっているものの、肝心の「思想」がそこには現れていなくて、玄人目には、とても恥ずかしい庭になってしまっている。
そこに記された内容を正確に読み取ることができるのは、長く深い経験を経て、知識と教養を持ち合わせた庭師に限られる。作者が仕掛けた言葉の罠を躱して、正確にその秘伝を汲み取れたとき、自分がようやく作庭という分野の極みの縁にまで登ることができたと感じられるのだろう。それは、長く辛い苦闘の末に、厳しい岸壁を登りきって、岩山の頂上に達したときのような気持ちだろうかと想像する。
そして、そんな境地に達したとき、人は意識変容を自覚して、その前と後では、世界の見え方がまったく変わってしまうのだろうなと。
「オカルト」という言葉があるけれど、この言葉の本来の意味は「秘められたもの」で、まさにこうした熟練を極めた者だけが理解できる秘められた「知」のことを指している。そうした「知」領域に達するまでは、長い時間がかかる。それも、専門的な知識はもちろん、広く深い教養も身につけなければならない。
今の、即席の「知」を求める風潮の世の中では、秘伝書を読み解くこともできないだろうし、オカルトを解き明かすことも不可能なんだろうなと思う。そして、意識変容を経験することも。
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