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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.262
2023年5月18日号
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◆今回の内容
○日本の先住民とその記憶
・先住民の記憶
・アラハバキ神
・南信州の祭りに残るアニミズム
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日本の先住民とその記憶
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先日、たまたまつけたNHKのBSで「奇跡の巨石文明!ストーンヘンジ七不思議」という番組が流れてきて、思わず食い入るように観てしまいました。これは、2021年の12月に放送されたものの再放送ですが、私はこれが初見でした。
ストーンヘンジは、イギリス南部ウィルトシャー州ソールズベリー平原にあります。1986年にはユネスコの世界遺産に登録され、今では多くの観光客が訪れる観光名所になっています。この遺跡は紀元前3000年から紀元前1500年頃にかけての新石器時代から青銅器時代に渡って、段階的に作られたと考えられていて、その規模は、世界各地にみられるストーンサークルの中でも群を抜いています。
はじめは、日本の能登半島にある縄文時代の真脇遺跡と同じような巨木を円形に配した、いわゆるウッドサークルでしたが、木材が腐食してなくなると、石材が用いられました。馬蹄形に配置された高さ7メートルほどの巨大な門の形の組石(トリリトン)5組を中心に、直径約100メートルの円形に高さ4-5mの30個の立石(メンヒル)が配置されています。さらにこのサークルの外側、北東の方向にはヒールストーンと呼ばれる高さ6メートルの立石があって、夏至の日には、中心にある祭壇石から見て、ヒール・ストーンの天辺に太陽が上るように配置されています。
このストーンヘンジの建造の目的と方法は、長らく謎とされてきましたが、この番組では、最新の考古学の知見から、新石器時代にこの地方に住んでいた古代ブリトン人がはじめに建設し、ここで祭祀を行っていたことを明らかにしました。
彼らは、素朴な農耕生活をしていましたが、あるとき大きな気候変動が起こり、その影響による長期的な寒冷化で作物が育たなくなってしまいました。深刻な飢えに見舞われた古代ブリトン人たちは、祈りによって、長らく姿を見せなくなった太陽を蘇生させようと考えました。そして、その祈りの場としてこの巨石のサークルを作ったというのです。
ストーンヘンジの近くでは、建設にあたった古代ブリトン人の集落跡が発掘されています。同じ規格の小さな住居が並んでいたことから、当時は貧富や身分の格差がなかったと推定されています。
彼らが一致団結して、はじめのサークルを作り終えると、寒冷化もおさまり、また輝く太陽が大地に恵みをもたらすようになりました。その後、ストーンヘンジは太古の太陽信仰の中心地となりました。ヒールストーンの天辺に昇る夏至の太陽に恵みを感謝し、冬至には、ヒールストーンの側からサークルの中心に沈んでいく太陽を拝んで、その再生を願ったのでした。
紀元前2500年頃、大陸からイギリスにビーカー人と呼ばれる青銅器製の武器を持った民族が侵入し、先住の古代ブリトン人を駆逐してしまいました。ビーカー人の名の由来は、彼らがビーカー状の土器を作っていたからでした。彼らは、新たな陶器スタイルや埋葬習慣、さらに銅製の金属器と金製の装身具という文化を持ち込んで、それまでの古代ブリトン人に完全に置き換わりました。
そのビーカー人も、紀元前1千年紀に、鉄器を持ったケルト人(ブリトン人)の侵入を受けて姿を消します。古代ブリトン人からビーカー人、ケルト人という民族の変遷では遺伝子的なつながりはなく、完全に入れ替わってしまったのですが、ストーンヘンジを神聖視する文化は受け継がれました。それは、いずれの民族も、信仰の基盤を自然に置き、とくに太陽の運行に特別の思いを持っていたからでしょう。
その後、紀元前40年頃に、今度は古代ローマ帝国がイギリスに侵入してきます。その際には、民族としてのケルト人は残存しましたが、キリスト教の影響を強く受けるようになり、古代から受け継がれてきた自然信仰は、次第に影が薄くなってゆきました。
NHKの番組でゲストコメンテーターとして登場した荒俣宏氏は、こうした人種の置き換わりを日本の縄文時代から弥生時代への移り変わりになぞらえていました。たしかに、先住民である縄文人が大陸渡来の弥生人に置き換わっていく過程は似ているものの、イギリスでは先住民のDNAは残らず、まさに「駆逐」されたことが明白であるのに対して、日本では、縄文人のDNAが現代人にまで残り、東北などではそれが濃いという特徴があります。それは、縄文人は完全に駆逐されたわけではなく、弥生人と混血していったことを物語っています。
日本古来の土着宗教が自然信仰をベースにしていのは、縄文時代の信仰の名残ですし、また、この数回の講座で見てきたように、渡来人がもたらした信仰がそうした自然信仰と混交して、日本独自の形に変貌しているのは、やはり私たちの血に残る縄文的な心性の影響によるものだと思えます。
数年前に、インバウンド絡みの仕事で、ヨーロッパと中国の旅行会社のエージェントを伴って、東北の聖地を巡りました。そのとき、案内していく中で、日本の神社の信仰の中に、古来の自然信仰が色濃く残っていて、現在ある神社なども、古くは縄文時代の構造や形式を残していることを説明すると、「どうして民族や宗教が切り替わったのに受け継がれてきたのか」と一様に驚かれました。
キリスト教圏はもちろん、中華の文化や思想でも、王朝が交代すると、前王朝の宗教などは否定され、その痕跡が消されてしまうことが当たり前です。それなのに、日本では、縄文時代からの自然信仰が、形は変えても神社信仰の中の御神体山や磐座、巨木、その他、川や大地、あるいは風の神を祀るといった形で同じ場所に残っていることが、彼らにはとても不思議に思えたようです。
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