ふと、「今、読んでおかなければいけない」という焦燥にも似た気持ちに駆られて紐解いた古典。
この原作を読んだ記憶も遠く、どちらかといえば、映画の印象だけが残っている。もっともその映画も50年くらい前に観たものだから、細部はすっかり忘れてしまって、第三次世界大戦が全面核戦争となって北半球は瞬時に滅亡し、生き残った南半球の人たちが徐々に核汚染によって死に絶えていくという大筋しか覚えていない。肝心の潜水艦スコーピオン号が果たす役割も、なんだっけといった程度で、これはもう梗概を読んだ程度の記憶しかなかった。
映画でいえば、ギリシア沖に核爆弾を搭載したB52が墜落した事件をモチーフにした『魚が出てきた日』のほうが、よりディテールも記憶していて、リアルに感じられたことを覚えている。
だけど、読み始めて、これは止まらなくなった。
ネビル・シュートがこの原作を発表したのは、1957年だから、まだキューバ危機は先の話だが、それを先取りしている。その後、我々人類は、深刻な核災害を何度も体験することになった。アメリカのネバダ砂漠やロシアのセミパラチンスク、中国の楼蘭といった核実験場での深刻な核汚染とアトミックソルジャーの問題。ラ・アーグなどの再処理施設周辺での深刻な核汚染。未だ詳細が公表されていない「ウラルの核惨事」。そして、スリーマイルがあって、チェルノブイリ。チェルノブイリで懲りたはずなのに、人類は核に執着して、ICOの臨界事故を起こし、ついにはフクシマの惨事につながった。
どこの政府も「深刻な核惨事なんて100万年に一回しか起こる可能性はない」といっていたが、いずれもこの5,60年に起こったことだ。
『渚にて』は、ざっくりした映画の印象しか残っていなくて、米ソの全面核戦争というありきたりな設定だったと思い込んでいたが、それほど単純ではなかった。
まず、中ソの対立があって、両者の間での限定的な核戦争の危機が高まっている中、核の引き金を引いたのはアルバニアだった。それも非常に限定的だったはずなのに、それを意表をついた先制攻撃と受け取った中ソが戦端を開き、さらにアメリカの防衛システムが自国に対する攻撃として検出し、ついには全面核戦争になるという形だった。
シュートは、当時の微妙な国際情勢を反映しながら、リアリティを持たせるためにこうした設定にしたのだが、子供時代の自分には、そうした国際情勢を理解することはできなかったから、単純化して覚えていたのだろう。
今になってみれば、大きな戦争はいずれも偶発的な事件をきっかけに、まさに燎原に炎が広がるようにとめどなく広がっていくものだとわかる。だから、偶発的な事件が全面戦争に発展するというのは、とてもリアルに感じられる。
そんなことを思いながら、なぜ、これを今になって紐解こうと思ったのか、ひとつ気がついた。それは、今のウクライナ情勢だ。ロシア対NATOやロシア対アメリカといった世界戦争の図式がいきなり当てはまるはずはないと思う。だけれど、互いに竦み合っている巨大勢力に挟まれたウクライナが、ロシアに侵攻されたとき、万が一核兵器が残されていて、捨て身でそれを使用したら…。そんな想像がわきあがってしまう。
そして、もうひとつは、パンデミックを経験した…していることだ。この2年、我々が見舞われているコロナ禍によるパンデミックは、今でこそ、ワクチンの効果が確かめられて、治療薬の見通しもついてきているが、当初の深刻な状況は、徐々に核汚染が広がってきて死を待つだけというこの小説の設定そのままの状況だった。
そのコロナにしても、まだ真偽はわかっていないけれど、中国の細菌研究所から流出した可能性も取り沙汰されている。少なくとも、今までは自然界の奥深くに潜んでいたウイルスが、人間がその環境を冒したために人間社会に入り込んできたきたものに間違いはないだろう。これらのことは、今後いくらでも起こってくる可能性がある。そして、いずれは、『渚にて』で描かれたような放射能障害にも匹敵するような致死性をもったウイルスが蔓延するかもしれない。
たぶん、人間は、故意に人類を滅亡させようと思うほど愚かではないと思う……思いたい、でも、多くの悲劇は、故意ではなくほんの些細な過失や、あるいは未必の故意ともいえるようなことから惹起される。
そんな偶発的な惨事を防ぐためには、いったい何が人類にとってパンドラの箱なのかを見極めるしかないのだろう。そして、パンドラの箱を識別し、それを恐れる心を持つためには、こうした作品を読んでしっかりした想像力を養うしかないだろう。
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