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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.314
2025年7月17日号
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◆今回の内容
○語られぬ神が物語ること
・サルタヒコとは何か
・ヒルコの帰還と変身
・ツクヨミという謎
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語られぬ神が物語ること
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前回は、現世と対極に位置する異界(冥界)という概念をなぜ人間が築かなければならなかったのかという話から、現世と異界を分ける境界が、一神教では画然と分けられているのに対して、日本神話では曖昧であり、そうした性質を表すように、境界が「あわい」と呼ばれたといった内容を掘り下げました。
そうした「あわい」に立つ道しるべの神、あるいは境界神が「サルタヒコ」です。サルタヒコは、国津神でありながら、天孫降臨の際にニニギを出迎えに行きます。それが境界神と呼ばれる所以ですが、なぜ、わざわざ地上を支配しようとする天孫(天津神)のニニギを国津神のサルタヒコが迎えに行ったのか、その理由は記されません。さらに、天と地を結ぶ重要な神として登場しながら、その後の活躍はなく、最後は海で貝に挟まれて溺れ、あっけなく死んでしまいます。
記紀神話には、このサルタヒコ以外にも、境界を暗示しながら、その存在が「あわい=淡い」神が登場します。サルタヒコを含めて、これらの神はどうして登場する必要があったのか、また、いったん登場しながら、なぜ、多くを語られずに物語から消え去ってしまうのか。
今回は、こうした「語られぬ神々」について考察することで、その神々が背負った矛盾、裂け目、余白を明らかにし、それを手がかりにして、記紀神話が語りえぬ謎に迫ってみようと思います。
●サルタヒコとは何か●
『古事記』の天孫降臨のエピソードでは、はじめは、アマテラスが息子のオシホミミを葦原中国に降そうとしますが、その準備をしているうちに、オシホミミとタクハタチヂヒメとの間に子どもが生まれます。オシホミミは、自分の代わりにその子ニニギを降して欲しいとアマテラスに頼みます。タクハタチヂヒメの父である高木神(タカミムスビ)とアマテラスはこれを聞き入れ、孫のニニギを降すことにします。
この部分の構図は、記紀神話が成立した当時の政治状況を反映したもので、アマテラス=持統、オシホミミ=草壁皇子、ニニギ=文武、 タカミムスビ=藤原不比等という政権中枢構図をそのまま神話化したものであることは、第11回『伊勢神宮・天照大神とは何か』で詳述しました。今回は、記紀神話の政治的な意味に焦点をあてることが主題ではないので、このことには詳しくは触れません。詳細が知りたい方は、バックナンバーを参照してください。
天孫降臨のエピソードに話を戻すと、ニニギの一行が葦原中国に向かっている途中、異形の神が立ちはだかります。この場面を『古事記』は次のように語っています。
「ここに彦火能邇邇芸命(ひこほのににぎのみこと)、天降りまさむとする時に、天の八衢(やちまた)に居て、上は高天の原を光(てら)し、下は葦原中国を光す神、ここにあり。
故ここに天照大御神、高木神の命もちて、天宇受売神(あめのうずめのかみ)に詔りたまひしく、汝は手弱女人(たわやめ)にはあれども、い対(むか)ふ神と面勝つ神なり。故、専ら汝往きて問はむは、<吾が御子の天降り為る道を、誰かくて居る。>ととへ。」とのりたまひき。
故、問ひたまふ時に、答へ白(もほ)ししく、<僕(あ)は国つ神、名は猿田毘古神ぞ。出で居る所以は、天つ神の御子天降りますと聞きつる故に、御前に出へ奉らむとして、参向へ侍(さもら)ふぞ>とまをしき」。
立ちはだかった神の異形に驚いていた立ちすくんだ一行に向けて、高木神が、誰と向かっても気おくれのしない神であるアメノウズメを送り、「誰か」と尋ねさせると、異形の神は、サルタヒコと名乗り、「天孫が降臨すると聞いて、案内するためにやってきた」と答えます。ここで、注目すべきは、 「上は高天の原を光(てら)し、下は葦原中国を光す神」という部分です。サルタヒコは、上は高天原から下は葦原中国までを照らす光を放っていたというのです。
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