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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.182
2020年1月16日号
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◆今回の内容
○神と仏・神仏習合について
・神と仏は同体
・仏を守護する神
・怪しい神々の習合
◯お知らせ
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神と仏・神仏習合について
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前回の神道の解説の中でも「神仏習合」という言葉を使いましたが、日本の寺社、とくに神社や神道について理解しようとするときに重要になるのが神仏習合というキーワードです。
「なんだか、この神社はあまり神社らしくないけれど、どうしてでしょう?」と、ツアーで神社を案内しているときに質問されることがあります。たしかに、参道には鳥居があるものの、社殿の方に目を向けると、神社らしい千木や鰹木がなく、寺の本堂のような造りをしていることがあります。それを不思議に思ってこういった質問をされたわけです。そんなときに、私は、「それはここが寺でもあったからですよ」と答えます。
寺と神社が画然と分けられたのは、明治時代に神仏分離令が発布されて以降のことで、それ以前は神仏が入れ混じり、画然とできないという形が当たり前でした。むしろこうした寺だか神社だかわからないのが、明治より前の古い時代の面影を留めているわけです。ところが、神仏分離の刷り込みが強かったために、今では、多くの人が寺と神社の雰囲気が入り混じっていることを不思議に思ってしまうのです。
そうした違和感も、神仏習合について知れば、それがむしろ自然なことであったと思えるようになります。そして、明治以降に無理やり附会された由緒ではなく、本来、その場所に刻まれてきた歴史に触れるきっかけにもなるはずです。
今回は、そうしたことを踏まえて、神仏習合について解説したいと思います。
●神と仏は同体
前回、茨城県にある大洗磯前(いそざき)神社が、明治になる前には「大洗磯前薬師菩薩明神社」と呼ばれていた話を書きました。この神社の祭神であるオオナムチが海から上陸してきて、それをここに祀ったという由緒を元に、オオナムチを東の海の彼方にあるとされた東方浄瑠璃浄土を治める薬師如来に見立て、薬師菩薩明神を祀る社と名付けたわけです。
本来は悟りを開いた「如来」であるはずの薬師をわざわざ「菩薩」としたのは、天界に座す如来ではなく、人間界にあって衆生を救う役目を帯びた菩薩であり、自らもまだ修行する身であることを暗示したものでした。
神仏習合の中心には本地垂迹という考え方があります。八百万の神の正体は、本来は仏であり、これを「本地仏」と呼びます。そして、神話や神社の由緒などに登場する神というのは、その本地仏が姿を変えてこの世に現れた「垂迹神」であるとするものです。「大洗磯前薬師菩薩明神社」は、オオナムチという垂迹神の正体は薬師菩薩で、神まだ菩提修行の途中であるから、「如来」ではなく「菩薩」なのだというわけです。
八幡神も「八幡大菩薩」として祀られますが、八幡神は古来の神ではなく、中世初期に登場しますが(応神天皇と八幡神が同化するのは、さらに後代のことです)、新しい神であるためか、仏教の仏を本地仏とするのではなく、そのまま八幡大菩薩という独自の仏が本地仏とされました。岩清水八幡宮は創建時から明治に至る前までは「石清水八幡宮護国寺」という名称でした。ここは、当初は神主もなく(創建10年後に神主が置かれましたが、それは象徴的な存在でした)、僧侶を中心に運営されてきました。このように神社の体裁を取りながら僧侶が運営する形態は「宮寺」と呼ばれました。
如来は悟りを開いて輪廻から脱した仏の姿です。菩薩とは菩提心を開いて如来へと至るための菩薩道を歩み始めたものであって、まだ輪廻に囚われています。神もまた未熟であり、輪廻に囚われていると本地垂迹説では考えられています。アマテラスもその例外ではなく、当初は観音菩薩を本地仏としていました。のちに空海が観音菩薩を大日如来に置き換え、悟りを開いたということになりました。
如来という仏は、輪廻という最後の軛から解脱した完全な存在です。その姿は薄絹を一枚纏っただけで表現されますが、それはこの世を超越したものであるから、いかなる欲とも無縁であることを象徴しているのです。本地垂迹説では、神もまた大いなる存在ですが、神の世界の輪廻という軛に繋がれているとされます。神は自力で輪廻から脱することはできず、人間に拝んでもらわなければなりません。そんな神を解脱させるという名目で作られたのが神宮寺でした。
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