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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.168
2019年6月20日号
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◆今回の内容
○山の民と聖地
・木地師、鉱山技術者、産鉄民、修験者、鍛冶屋
・芸能民と忍者
◯お知らせ
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山の民と聖地
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かつて、「山の民」や「山窩」と呼ばれた山中に暮らす移動民たちがいたことは、柳田國男の研究などでも明らかです。修験道の聖地や神社の奥宮などを探して山奥に分け入っていくと、意外な場所にかなりの規模の集落跡があったり、炭焼や木地師が工房とした跡などに出会うことがあります。
白洲正子は『隠れ里』の中で、そんな民の痕跡が残る地方の話や、彼らの文化が伝統芸能と関わりが深かったことについて記しています。五木寛之は、山の民が現代に生き残り、古代から連綿と続く独自の文化とネットワークを持って社会の裏側で息づいているというモチーフの『風の王国』という作品を著しました。
日本霊異記に登場する『迷い家』なども山の民を暗示する物語です。里人が山に入って道に迷い、彷徨っていると、突然大きな屋敷が現れます。その中に入ってみると、今しがたまでそこで煮炊きをしていた様子なのに、人の気配がありません。そこで、空腹を満たし、椀などを持ち帰ると急に運気が上がり、裕福になるといった内容です。これは、全国に流布する朝日長者や東北に伝わるだんぶり長者などと同じ長者伝説です。迷い家は山の民の住処であり、朝日長者が深山で耳にした黄金を埋めた場所の話をしていたのも、そして、だんぶり長者を酒の泉に案内しただんぶり=トンボも山の民を暗示しています。
近代以降、急速に姿を消してしまった彼らは、いったいどんな人たちだったのでしょう。好奇心を刺激して止みません。
今回は、前々回の鬼の話にも通底する彼ら、ずっと影の存在でありながら、歴史の裏で活躍し、また日本文化に多大な影響を及ぼした山の民について、その歴史や聖地を紹介します。
●木地師、鉱山技術者、産鉄民、修験者、鍛冶屋
山の民や山窩は、職業としては、椀や皿などの什器を木から削り出す木地師や、鉱物資源を探査して発掘する鉱山技術者、その鉱物を精錬する産鉄民といった区分けができます。しかし、彼らはそれそれの職能に分かれて単独に活動するわけではなく、相互に補い合ったり、あるいは複数の職能を兼ねた者が集まって、山中での生活共同体を形成していました。
木地師たちは、自分たちのルーツを文徳天皇の第一王子・惟喬(これたか)親王であるという伝承を持っていました。惟喬親王は、皇位争いに破れて近江国の小涼谷に落ち延び、その子孫が自分たちであるというのです。同様の伝承は全国の木地師たちに共通していました。
もともと、惟喬親王は都の小野を拠点としていました。いったん朝廷に入り、要職を歴任したものの、皇位争いに破れてすぐに仏門に入り、本拠地の小野に隠棲しました。この小野の地を支配していた小野氏は鍛冶神の性格を持つ小野神を氏神とし、この神を奉斎しながら、全国に展開して鉱脈や水脈を探索していました。
木地師たちは、中世には「ゲザイ」と呼ばれ。「下在」「下財」「下才」「下細」「外在」などの様々な字が当てられていました。それは、彼らが様々な技術を駆使できる芸才の持ち主であるという意味でした。また、「木工の元は金工」といった言葉も伝えられていました。
惟喬親王に従って近江に移り住んだ小野の鉱山技術者たちは、木工の技術も持ち合わせていて、落ち着いた先で、この地方の木材を活かした木地師としての仕事を主としたため、惟喬親王をルーツとする木地師の伝承が生まれたのかもしれません。
以前、長野県の白馬村周辺の聖地調査をした際に、木地師が拠点とした場所が複数ありました。そのうちの一つは、姫川を挟んで北アルプスと向かい合う、東山と呼ばれる山中にありました。ここには天然ガスが湧き出していて、積雪期にもその蒸気で一帯は雪が少なく、明治期から戦前まではこのガスを利用してガラスを溶かして成形するガラス工場が運営されていました。
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