**能登島の夷穴古墳から石動山を望む。両者とも敗れ去った者たちの面影を色濃く残す場所**
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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」
vol.166
2019年5月16日号
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◆今回の内容
○「鬼」の視点から見た日本
・千代に八千代に
・八雲立つ
◯お知らせ
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「鬼」の視点から見た日本
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前回の配信は、平成から令和への改元の翌日でした。改元前後、皇国史観的な雰囲気が社会に漂っていることに違和感を覚えたこともあり、そもそもの元号の意味を考えつつ、「大和朝廷=大和王権」側からは敵とされた立場の隼人や熊襲、出雲、そして蝦夷側から見た歴史観について触れました。
『常陸国風土記』の「行方郡」の条には、大和王権の入植者たちが、もともとこの地に住んで農耕を営んでいた一族から土地を取り上げて山へと追い上げ、夜刀神(やとのかみ)と呼んだと記されています。夜刀神が追い上げられた山と、入植者たちが暮らす里との境界は結界とされ、社が設けられます。その社は背後の山を御神体山として、里人たちは先住民を夜刀神として祀り、悪さをしないようにと拝んだと続きます。この意味を明確に言えば、もはやこの世の人ではなくなり、怨霊となった夜刀神の祟りを鎮めるということです。
このエピソードから、後に王権が謀殺した怨霊の怒りを鎮めるための日本独特の信仰である「御霊信仰」へと繋がっていくことが伺えます。
前回の最後に、私は次のように記しました。「私は地方ナショナリズムを訴えたいのではありません。異なる観点から見ることで、物事の意味は変わってくるということ、征服の歴史には、征服者と被征服者の観点があり、被征服者の観点が失われやすいということを指摘したいのです」。これに、さらに付け加えれば、被征服者=敗者の側の視点に立つことで、歴史が鮮明になってくる。「正史」の中の様々な矛盾や謎が明確になり、私たちは何者なのかということを客観的に自覚できると言いたかったのです。
キリスト教には、キリスト教が「敵」や「邪教」とみなした古い信仰の残滓が見られます。例えば古代ローマのサトゥルナリアや北欧の冬至祭が取り込まれてクリスマスに姿を変え、異教徒の夏至祭が聖体祭になり、さらにはケルトのサウィン祭は「邪教」そのままの形を維持したままハロウィンとなりました。それは、征服の過程で異文化をただ破壊するのではなく、逆に吸収してしまうことで、異文化に親しんだ先住民を懐柔しつつ取り込もうというキリスト教を国教としたローマ帝国と教会のしたたかな戦略でした。
大和王権も同様の戦略を用いて、本来異教であった「鬼」たちの神や信仰を取り込んでいきます。夜刀神として怨霊を祀り上げてしまうのも、そうした戦略の一つといえます。
今回は、そんなところに着目しつつ、我が国の成り立ちをもう少し「鬼」側の視点から見つめてみたいと思います。この講座で取り上げてきた聖地の中には、表に祀られている神とは違う神がひっそりと祀られていて、それが本来の地主神であったケースが少なからずありましたが、そういったものも「鬼」の視点から見れば、地主神が日陰へと追いやられた意味と経緯が表出してきます。
●千代に八千代に
「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」。これは説明するまでもなく、日本の国歌です。この歌詞は、『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭にある「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」(詠み人知らず)が出典であると言われています。
国歌の冒頭は「君が代は」ですが、『古今和歌集』では「我君は」と始まっています。これは、この歌が流布していくうちに読み替えられたと考えられています。それがいつなのか諸説ありますが、鎌倉時代には広く巷間で歌われるようになり、そのときは「君が代」に変わっていたので、すでに平安時代末には「我君は」から「君が代は」と変化していたという説が有力です。この歌は宮中でも庶民の間でも慶事に歌われ、江戸時代の庶民はエロティックな意味にとって小唄として親しみました。
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